三.服毒死

 ──目の前で泡を吹いて倒れる男を、自分がどんな顔をして見下ろしているのかもうわからない。



 西萩昇汰がその小瓶を見せてきたとき、船江鶸は「こいつは正気なのか?」と思ったものだ。何しろにこにことしながら見せられたその錠剤は西萩本人曰く「毒薬」だというのだから。


「学生時代の元カノから貰ったんだけどさ。いやあ、どうやって手に入れたんだろうね」

「知るか。つうか元とはいえ恋人から毒渡されるってどんな恋人関係だったんだ、お前ら」


 ええっと、別に普通じゃない?などと西萩は宣うが、船江からすれば余程偏執的な愛を向けられているか、さもなくば尋常でない憎悪を向けられているか、或いはそのどちらも満たしてでもいなければ、普通は知人(それも元恋人)に毒など渡す奴の気が知れない。それを素直に受け取るこの男の気も知れない。

 頭がおかしい、というその感情が顔に出てでもいたのか西萩はいつものようにへにゃりと眉を下げて「そんな顔しないでよ」と言った。


 毒薬の瓶はそのまま暫く西萩のデスクの上に飾られていた。きっかり五粒の白い錠剤は、時々西萩がゆすって瓶の中で澄んだ音を立てる。それは一種の催眠術のようなもので、一週間もすれば船江はそれが頭の可笑しい女から西萩に送られた危険物なのだということを失念するようになっていた。

 ──失念、していた。


 は唐突に訪れた。いつも通りの朝、いつも通りの仕事をすませ、昼を摂っている、その時。


「あ、船江。それじゃああとはよろしく」


 唐突にそんなことを宣う西萩に、船江は目を見開いた。何を言っているのか理解ができない──否、或いは理解をさせる気もなかったのだろう。机に飾られていた小瓶の蓋を開ける。からん、とかわいらしい音を立てて西萩の手のひらに零れ落ちたきっかり五粒の錠剤は、そのまま流れるように彼の口の中へ。細い首に浮いた喉仏が上下するのがスローモーションになったような錯覚。船江が漸く声を紡ぐことができた時には、それはすっかり胃の中に納まってしまったようだった。


「西萩、おまえ……!」

「そんな顔しないでってば。言ったろ、なんだって」


 いつもどおりの気の抜けた笑みが彼の顔を彩る。それが先ほど毒を飲み下した男のそれには見えなくて、船江の口からは「なんで」という掠れた言葉しか零れない。それに、ほんの少しだけ困ったように眉を寄せた西萩は、首をかしげて「なんでって言われても」と続ける。



 彼女、僕と心中したかったらしくてさ。急だったから断ったら「じゃあこの日に」ってしつこくって。仕方ないから頷いて、今日まで一生懸命身辺整理したんだよ。ほんと、僕超がんばったんだから。

 そんな言葉を言う西萩の顔色は少しずつ悪くなっていく。それなのに声色だけはちっとも変わらないのがあまりにも不気味で、飲み込んだ息は弱弱しい問いに変わった。


「なんで、いままで、おれにだまってたんだ」


 船江は質問ばっかりだね、と肩をすくめた西萩は深々と息を吐き出しながら、苦笑するように告げた。


「だって、そういうのって身近な相手には言いにくいじゃない」


 その言葉が終わるが早いか、西萩の身体は頽れた。そのままびくびくと痙攣する身体と、口から苦しそうな吐息と一緒に喉に引っかかっていた唾液が泡になって零れ落ちていく様は異様で、船江はその時自分がどんな表情で西萩昇汰の最期を見下ろしていたのか分からない。


 やがて動かなくなった西萩の身体と、硬直して動けない船江のことを嘲笑うように、空っぽの小瓶が西萩のデスクから落ちてかしゃんと澄んだ音を立てながら粉々に砕け落ちたのだった。

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