二.食人性 ※グロ描写あります
「ね、船江。味はどうだった?」
──そう言いながらうっそりと笑うその表情が、目に焼き付いて離れない。
船江鶸は混乱している。直前に何をしていたのかの記憶が全く思い出せない焦燥と、夕暮れの赤黒い空が照らす薄暗い事務所。にこにこと笑うこの事務所の所長──西萩昇汰の姿。それは見慣れた筈の景色だというのに、其処に漂う強烈な違和感がどうしてもぬぐえない。
「あ、目を覚ました?」
目の前で自分を覗き込む西萩の言葉から察するに、眠っていたのだろうか。掠れた声で「ああ、」と答えれば「そう、よかったよかった」と彼は応える。その表情は余りにも『いつも通り』で、船江は自分の中でぐろぐろと渦巻く感情に困惑が隠せない。どうして、こんなにも恐ろしいのだろうか。
「あ、お腹空いたでしょ?待ってて、夕飯持ってくるからさ」
船江の混乱を他所に、西萩は給湯室へと下がる。沈黙の落ちた事務所は相変わらず赤黒い夕陽に照らし出されて、その景色を鋭角に切り取られているような錯覚。なにもおかしなことはないはずなのに、船江の脳内では警鐘が喧しく鳴り響く。此処が異様なのだと、形にならない不安を伝えている。
「お待たせ」
巡る思考回路を遮る様に、西萩の気の抜けた声が響く。思考を邪魔された苛立ちに舌打ちを零し、声の主を睨み付けようとして──船江の視線は一転に縫い止められた。
それは恐らく『活け造り』という料理なのだろう。推察の形になるのは、差し出されたモノが料理と呼ぶにはあまりにも邪悪であったからだ。
外の空の色よりも鮮やかに赤黒いモノが冴え冴えと白い皿をぺったりと汚している。綺麗に並べられたそれが臓物であると気付いた時には遅い。大振りのプレートの隅に置かれた首に気付いてしまった。かちり、と目が合う。はくはくと酸素の足りない魚のように口を開くその首は良く見慣れた顔を──いや、もっとはっきり言ってしまうならば西萩昇汰と同じ顔をしていた。
胃の腑がひっくり返るような錯覚。何かがこみ上げるも、胃の中は空なのか何も出てこない。うめき声だけが喉を焼く船江を見下ろしながら、西萩は弾むような声で続ける。
「船江はさ、魚が好きでしょ?でも美味しそうな魚が見当たらなくてさ」
丁度いいから僕で作ってみたんだ、と言いながら西萩はその皿を船江の前に置いて見せた。首との距離が近くなる。そうして見れば見る程にその頭部がまるっきり西萩そのものであることに恐怖する。はくはく、繰り返し開閉される口から微かに漏れ聞こえる音。それが「ふなえ」と紡がれていることに気付いて、どうしてこのまま意識を失えないのだろうか、という見当違いな思考に脳を支配される。もう十分だ、こんな悪夢。
「ね、船江。どう?僕だって案外うまく料理ができるもんでしょう」
「結構大変だったんだよ?人間の解体って力使うんだねえ。明日は筋肉痛になりそう」
「ほら見て、此処!此処の盛り付け凄く綺麗にいったんだよ。肉の厚みが均等にできたからね」
けれどそんな船江の事が見えていないかのように、西萩はひたすらに楽しげに言葉を紡いでいる。それは殆どが船江の耳を通り過ぎていくだけで、返事らしい返事も返せない──返す事が出来るはずもない。白いペンキを零したかのように脳裏がまっしろに染まっていく。船江の意志を溺れさせていくそれは、多分恐怖という奴だ。
しかし、西萩はそれが不満だったらしい。何の反応も返せない船江を「もう、話聞いてる?」と言いながら覗き込む。ぐい、と近づけられたその顔に嵌め込まれた真っ黒な瞳の中に、哀れに震える自分の姿が映り込む。
「あ……ぇ」
震える声で、言葉に為らない音を紡ぐ。歯の根が合わない、背筋は氷を入れられたように只管に冷たく、思考は何もはじき出さない「どうして」をぐるぐると循環させるだけだ。そんな船江の姿を映した深淵の眼差しが、ゆらり、細められる。
「ああ、分かった。声も出せないほど空腹なんだね、船江?」
それならそうと言えばいいのに!と顔を綻ばせる西萩。違う、と言おうとして開いた口に、西萩の手で何かが突っ込まれる。
生臭い鉄の臭い、ぬるりとした生暖かさと異様に固く筋張った食感。『ソレ』が何か理解した途端、船江は今度こそ嘔吐した。ぺちゃべちゃと床を汚す赤黒い物体、ぬらりと光るのは船江の唾液の所為だけではないだろう。あまりにも異様な現実だというのに、口の中の鉄臭さがそれを現実だと伝える。
その光景を見ていた西萩は「うわ、勘弁してよ。事務所汚れちゃった」と肩を竦めてから、すぐに何事もなかったように船江に向き直る。
「ね、船江。味はどうだった?」
そう言いながらうっそりと笑うその表情を最後に、今度こそ船江の意識は暗転した。
「船江?ふなえー?」
彼は閉ざされた事務所の扉を叩く。部屋の中にいるはずの男──彼の事務所の所員だ──から明確な返答は無く、時折消え入りそうな声で「だめだ、みつかる」などと要領を得ないことを譫言のように繰り返しているのが辛うじて聞き取れるばかりだ。
「こまったなあ」
やれやれ、と彼は肩を竦める。この分ではいつ彼が顔を出すかすらわからない。
「折角作った料理が傷んじゃうよ」
ねえ?と見下ろした鞄の中で、彼と同じ顔をした首が虚ろな目でドアの向こうを見つめていた。
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