嗚呼君よ、安らかに死に給へ
猫宮噂
一.忘却
──何か大切なことを忘れている気がする。それが何かは思い出せないけれど。
事務所の固いソファの上で、船江鶸は目を覚ました。時計を見れば既に陽光は燦燦と照り付ける時間、最後の記憶は陽がとっぷり暮れた夜闇の中の事務所で書類と格闘する記憶だったところから察するにうっかり寝落ちてしまったのだろう。すっかり固まった首を動かせば、ばきばきと嫌な音がした。
時間的にはもうずいぶんいい時間だ。それを自覚すると、昨夜の夕食は勿論のこと朝食すら口に入れていない船江の腹がぎゅう、と空腹を主張する。戸棚は先日整理したばかりですっかり空であるし、船江には事務所に無駄に茶菓子を置く趣味はなく──詰まる所、現在の事務所には船江の腹を満たすものは何もないのだ。思わず舌打ちをしたくなったが、なおも胃の腑をきゅうきゅうと締め付ける様な空腹感が彼を急かす。仕方がない、と徹夜明けの草臥れたスーツを羽織って、船江は昼下がりの溝の口の街へと降り立った。
溝の口の街は喧しい。時間もあって人並みは絶えず、ざわざわという不協和音が絶えず流れている。人間という生き物が好きでない彼にとっては、眩しい夏の日差しとじっとりとした熱気も相俟ってそれなりに苦痛だ。
薄暗い事務所の光景が脳裏を過る。エアコンの風にあたりたいのもそうだが、こんな人間だらけの街では自分一人だけが異端な様な気がして落ち着かない。けれど空腹は容赦なく彼を痛めつけるので最寄りのコンビニまでふらふらと足を勧める。
(──事務所に戻りたい)
ぽつり。ひとりごちる様に息を吐く。視界の向こう側でゆらゆらと蜃気楼──嗚呼、嫌になるような程に夏だ。じっとりと背中を濡らす滴の数さえ数えられそうなほどはっきりと汗を感じながら、船江は眩しい日差しから逃れようと目を瞑った。
──その一瞬。ほんの一瞬、視界の端に黒が過る。その黒がやけに目について、船江は瞳を抉じ開けた。
黒の正体は人間の男だった。微かに煙草のにおいをさせながら、一見人好きのするような軽薄な笑みを浮かべた男。その男に見覚えはないはずなのに、船江の心の奥が何故かじわりと嫌な熱を持った。
「ねえ、船江」
男が船江の名を呼ぶ。何故名を知っているのかという問いは、ヒュウという呼気に消えた。薄気味が悪い。船江は男の横を通り過ぎる。余りにも怪しい男にこれ以上関わりたくないと思う反面、その声が妙に耳になじむ気がするのが恐ろしい。
けれどそれすら気にしていないのか、やけに通るその声は続く。
「命の終わりはどうやって彩られると思う?」
見覚えのない男は、まるで古くからの友人にそうするかのように船江に問いを投げる。無論船江に応える理由はない。男を振り切る様に足を動かす速度を上げる。逃げたい、けれど逃げたくない。相反する感情の理由が分からなくて、ぐるぐると回る頭のなかに染み入る様に声は続けた。
「僕はね、きっとそれは雪原に似ていると思うんだ」
しろく、しろく、ほどけるように。つめたく、輪郭すらなくなっていく。きっとそんな風に消えていくんだよ。と、そう続いた言葉に脳裏を横切った白。その中に誰かの笑顔が解けた気がした。
「ねえ、船江」
男は再び船江の名を呼んだ。無感情的なのに親しげで、まるでそういうふうに船江を呼び止めるのが当たり前だと言わんばかりの声。それを無視してこのまま立ち止まらなければ、何故か自分は酷く後悔する気がして、船江は思わず足を止めた。
「それじゃ、さよなら」
その言葉に、はたと振り返る。大事なことを忘れている気がする。パズルのピースが欠けて落ちた感覚。それが何かも思い出せないままなのに。
──振り返った先には、もう誰の面影も残っていない。
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