なまえをつけること

あずみ

なまえをつけること


 本当は朝露がいいって言うよね。言いながらあなたは、旅館の中庭から集めてきた雨水を使って墨を摩る。

 千代紙模様の小ぶりなお習字箱。筆を持つあなたの手。

 社会人三年目、毎日忙しく働いているはずのあなたが、週休二日の半分を費やしてお習字を習っていると聞いて、正直私は自分が恥ずかしくなったよ。

 お友達の結婚式のお祝儀袋、綺麗に名前が書きたくって、書けなくって。

 そんなことを真剣な顔で喋るあなた、なんの気負いもなく女の子なところは、子供の頃からまったく変わってない。


『綺麗な文字が書けるようになりますように。』


 他愛のない願い事を、あなたは短冊に書き付ける。

 大きさのバランス悪いかな。

 囁きを、水量を増した川の音がかき消そうとする。

 川床が有名な旅館なんだけど、この分だとお天気に割を食って、奮発した甲斐がなかったかも。

 でも、ま、いいか。あなたとの旅行だもの、それだけで、価値は十分。


 筆、使う? 

 書き終わったあなたが言う。


 書いてきたから、いい。

 私は答える。


 幼なじみとはいえ、短冊に書いた願い事を見られるのは恥ずかしい。

 人のを見ておいて、ずるいかな、とも思うけれど。

 水性ボールペンで書いた文字は、きっと貴船神社の笹に結んだ瞬間、雨に溶けてくれるだろう。

 水の神様だけに伝える、私の、希み。


 私たちは旅館で傘を借りて、神社までの路をのぼった。

 坂道を波打ちながら流れていく水、濡れて暗い色のアスファルトに白い星型の雨の飛沫が散って、まるで天の川だ。


 織姫と彦星は、一年に一度は会えるんだって。

 でも私たちはせいぜい、二年とか三年に一度、気が向いたときにどちらかが声をかけて、会って別れて、いずれ疎遠になって?

 幼なじみなんてレトロな看板、そろそろ下ろしてしまいたいよ。


 けれど恋という名は随分昔にあなたに却下されてしまったし、友という名を、私はどうしても飲み下せないし。

 無記名の関係性、そこに横たわる私の卑怯。

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なまえをつけること あずみ @azumi

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