遠イ昔の話(下)
04
何かが「パチッ」と弾ける音を聞いて、彼は目を覚ました。
「ここは……」
どうやら自分はベットの上に横になっているらしい。
ふと頭を横に向けると、そこには薪が差し込まれた暖炉があった。
彼の顔に暖炉の温かい光があたる。
「目を覚ましたのね」
すると、部屋の奥からシノがゆっくりと歩いてきて、彼の眠っているベットの傍らにある椅子に腰かけた。
そして、手に持っていた木製のコップを彼に渡した。
彼はベットの上で上半身だけ起こし、シノからそのコップを受けとる。
中を覗くと、澄んだ透明の液体が入っていた。
「大丈夫。安全な水よ」
彼はシノのその言葉を聞くと、一切ためらう動作もなくそのコップを口へ運んだ。
どうやら、かなり喉が渇いていたらしい。その勢いは凄まじかった。
あっという間にコップに入っていたすべての水を飲み干すと、もう一度彼は尋ねた。
「あの、シノさん。ここはいったい……」
するとシノは少し困った顔になって、現状を伝えた。
「わからないの。
君があの森の中で倒れてから、偶然見つけた船に飛び乗って、それから2日間川を進み続けていたら、突然この小屋が現れて……
中に入ったところ誰もいないようだったし……
悪いと思ったのだけど、勝手に借りているの」
「そんなことが……」
助けると大見得を張った自身が呑気に気絶していた間に、彼女はとても苦労してこの場までたどり着いたという。
その事実が、どうしようもなく情けなかった。
自分は何をしていたのだろう……
彼は頭を項垂れて、シノへ謝った。
「あの、僕。自分でシノさんのことを助けると言っておきながら、気絶してしまって……
情けないです……
本当にご迷惑をおかけしました。
ごめんなさい」
彼女はきっと呆れてしまっているだろう。
彼はそう思った。
だが、シノは呆れるどころか首を横に振って全く逆の言葉をかけた。
「いいのよ……
君に助け出してもらえなかったら、きっと私はあの地獄のような場所にずっと捕らわれたままだったんだから……
それできっと、そのまま狂ってしまっていたと思う。
だから、本当に感謝しているわ」
温かい彼女のそんな言葉に、思わず彼は泣きそうになった。
しかし、今涙を流すわけにはいかない。
無理やり涙を引っ込め、彼は礼を言った。
「ありがとうございます……シノさん」
シノは再び首を横に振り、優しい笑みを彼へ向けた。
「いいのよ」
少年はシノのその美しい笑顔に目をそらすと、照れを隠すように頬をかいた。
「ええ と……シノさん、これからどうしましょう……」
「そうね……村に戻るのは危険だし、きっと他の街に行くのも……でも、あの協会からはかなりの距離を隔てられたはずだから、ここの持ち主の方がいつ帰ってくるかわからないけれど、しばらくはこの小屋で過ごすのが安全だと思うわ」
少年はそのもっともな意見に「そうですね……」と同意した。
そしてそれから彼とシノの、森中の小屋での生活が始まった。
*
「シノさん! 今日は美味しそうな魚が釣れましたよ」
小屋の扉を勢いよく開け放った少年は、そう明る声で言った。
それから、腕に抱えていた木製のバケツを見せつけるようにシノの前に置いた。
「お帰り」
部屋の中で編み物をしていたシノは「お帰り」と言い、その手を一度止めてバケツの中を覗いた。
そこには身の大きな白色の魚が二匹、窮屈そうに泳いでいた。
「こんなに大きな魚が釣れたんだ。すごいね」
シノは純粋に少年のことを讃えた。
少年はその一言にぱあっと顔を明るくし、「それにしても」と呟いた。
「おどろきました。この小屋には生活するために必要な様々な物がありましたし、近くには川も流れていて……これなら、食べ物には困らなくて大丈夫そうですね。シノさん」
シノは確かに、と頷く。
「そうね。この小屋には、この森で生きて行くために必要なものがほとんどすべてが備えられていた。でも、それは以前ここで暮らしていた人がいたということだし……勝手に使ってしまってこの場所の持ち主には悪いわ……」
「そうですね……でも、この小屋はもう長いこと使われていなかったようですし……きっと、大丈夫だと思います」
シノは本当にいいのだろうかと、思った。でも、今はここ以外に行ける場所がないのも事実だ。
下手に街になど顔を見せたら、どうなるかわからない。
だから結局、ひとまずはこの小屋の持ち主についての問題は置いておくことにした。
「私たちはこの場所以外に行けるような場所はないし……確かにそうね」
そして、シノは椅子から「よしっ」と立ち上がり、おなかをすかしているであろう少年に言った。
「じゃあ、そろそろご飯にしよっか」
少年は待ち望んでいた言葉に「やったー!」とその幼い顔に満面の笑顔を浮かべた。
シノもそんな年相応な少年の振る舞いに微笑んだ。
*
それから結局その小屋の持ち主が現れることはなく、幾度も季節は廻り、早くも5年の月日が流れた。
シノと、少年から青年へと成長した彼は、結局そのままなし崩し的に森奥の小屋に定住していた。
その日、いつものように釣りから帰ってきた青年へ、何処か母親を思わせる慈愛に満ちた声でシノは言った。
「すっかり背、大きくなったね」
青年は変声期を終え、以前よりも幾分か低くなった声で答えた。
「そうですね。確かに身長が幾分か伸びました。それにしても……本当にシノさんは老いないんですね」
シノは頷く。
「うん……そう、みたい……自分でも体がこうなった理由は分からないのだけれど……」
青年は「そうなんですか……」と言い、続けた。
「それでも、いつまでもシノさんが綺麗なままなら、僕は嬉しいです」
その本心とも慰めともとれる青年の言葉に、シノは少し頬を染め「あ、ありがとう」と短い礼を告げた。
始めてみたシノの照れた様子に、青年も自分の顔が赤くなるのを感じる。
二人の間にはそれから少し、気まずい時が流れた。
青年はその空気を打ち消すように、「それじゃあ、次は畑のほうを見に行ってきます」とシノに告げ、さっさと出て行ってしまった。
シノは静かに、目を細めながら彼の背中を見送った。
*
慎ましくもしあわせな日々が続いて行き、さらに10年の時が経った。
青年は30代に近づき、もう立派な大人の男性になっていた。
彼は今も変わらずシノと共に小屋に住んでいる。
順調に成長し、どんどんと立派になっていく彼を微笑ましい気持ちでシノは隣からずっと見守っていた。
それは本当に穏やかで幸せな時間だった。
しかしその気持ちの反面、後どれだけの時間を彼とこの場所で過ごすことができるのだろうか、と時々不安になる。
(彼はずっと生きていられるわけではない。
彼はきっといつか必ず死んでしまう
いつかきっと……)
シノが今まで幾度も幾度も求婚をされても断り続けた理由。
人間に科せられた理を逸してしまったシノは、人と共に老いて行くことは決して出来ないという理由。
だから、嫌でもそう考えずにはいられなかった。
そんな想いにふけっていると、やがていつものように扉が開き彼が帰ってきた。
「シノさん。ただいま」
先ほどまで頭によぎっていた暗い考えを振り払う様にシノは「おかえり」と努めて明るい声で返した。
そして、彼の手に握られている大量の荷物を見て彼に労いの言葉をかけた。
「今日は随分と沢山買ってきたんだね。お疲れ様」
「ええ。少し遠かったですが、あの街に行ってみて良かったです」
彼はそう言い終えると「そうだ」と呟き、様々な荷物の入ったバックの中に手を突っ込んで一枚のローブを探り出した。
美しいその女性物の漆黒のローブは、一目見れば上質な布を用いたことがわかるほどに素晴らしいものだった。
彼はシノにローブを「どうぞ」と手渡す。
シノは突然の贈り物に驚き、自分以外に送り相手などいないとわかっているのにもかかわらず「これ、私に?」と聞いてしまった。
彼は「ええ」と頷く。
「街を歩いていたら、露店で偶然見つけたんです。少し値は張りましたけれど、シノさんに似合うと思って買いました。是非きてみてください」
心の底から嬉しそうにシノは微笑み、ありがとう」と彼に礼を言った。
それから、さっそく「じゃあ、着てみるね」と、その美しいローブを彼女は羽織った。
「ど、どうかな?」
恥ずかしそうに頬を染めながら、シノは彼に感想を聞いた。
その彼はというと息をのみ、しばらくの間そのあまりの美しさに呆然としてしまっていた。
いつまでも何も言わない彼にシノは少し不安になり「どうしたの?」と声をかける。
すると、彼はその彼女の声でようやく意識を取り戻したよで「ハッ」として、慌てて答えた。
「ご、ごめんなさい。その……シノさんがあまりに綺麗だったので見惚れてしまっていました……」
不意に自分から出たそんな柄でもなく恥ずかしいセリフに、自身ではなった言葉にもかかわらず彼は顔が熱くなった。
またそれはシノも同じだった。彼女もカアっと顔が赤くなる。
「その……ありがとう……」
シノはそう言うと、彼の胸に頭をトンと寄りかからせた。
彼は自分に寄りかかってくる彼女の背に、少したどたどしく腕を回した。
その光景は、側から見れば完全に二人が恋人の様に見えただろう。
実際、彼女と彼は口には出していなくても、もうお互いのことが特別なものになっていた。
しかし、無慈悲にもその時は刻々と迫っていた……
05
その日、シノはいつものようにベットの横にあるヘリクリサムの花が刺さった花瓶へ水を差し、カーテンを勢いよく開け放った。
カーテンの隙間からは、まばゆい光が部屋の中へそそぐ。
顔に当たった光に目を細め、シノはベットに横になっている老人に話しかけた。
「おはよう。朝よ」
シノの声に起こされ、老人はゆっくりとした動作で瞼を開く。
そして弱々しくしかし優しい声で彼は返事をした。
「ああ。おはよう、シノ……」
老人はそれからしばらく経っても、ベットから起き上がろうともせずにただシノのことを見つめるだけだった。
それは彼がもう禄に起き上がることもできないほどに老衰してしまっている証拠だった。
シノはそんな彼に慈愛の満ちた、しかし少しの寂しさを含んだ瞳を向けた。
「すぐに朝ごはんにするわね」
彼は頭を枕に乗せたままほんの少しだけ首をもたげ、頷いた。
「ああ……」
返事を確認すると、シノは「少し、待っていてね」と言い残し、別の部屋へ食事をとるために歩き出した。
「 」
老人は離れていくシノの背中を見つめながら、ゆっくりと口を動かして何かを伝えようとした。
しかし、彼の口から声が発せられることはなかった。
彼女にその最後の言葉が届くことはなかった。
*
シノはいつものようにあまり噛まずに食べることが出来、消化に良い朝食を作ると、それをもって彼の部屋へすぐさま戻った。
部屋に入って「お待たせ」とシノはベットへ声をかける。
しかし、彼から返事は返ってこない。
(また、寝てしまったのかしら……)
そう思いながら、シノは彼のベットの横にある小さな椅子へ腰かけた。
彼は瞼を降ろしとても安らかな顔をしている。
(気持ちよさそうに眠っている……でも、多少無理をしてでもご飯は食べてもらわなくちゃ)
シノは彼の体に優しく触れ「朝食、持って来たわ」と優しくゆすり起こした。
だがどんなに起こしても彼はいつまでも目覚めない。
次期に脳裏を嫌な予感がよぎる。
(まさか ね……)
一刻も早くその不安を打ち消すため、シノは彼の脈をとった。
そこには動きは一切なかった。
彼の脈はピクリとも動いていなかった。
彼の鼓動は止まっていた。
「…………」
シノは、ベットの上で穏やかに眠る彼を静かに見つめた。
そしてそれから、静かにゆっくりと彼の頬へ片手を添えた。
「よく 頑張った ね……」
彼女の声が部屋に響き渡る。
(この時が来ることを私はずっと昔から覚悟していた。
彼と私が過す時が違うものだと長い時の中で幾度となく知った。
だから私は泣かない。
笑顔で彼を送り出すと決めたから……)
「決めたはずなんだけどな……」
彼女は微笑んだまま、その瞳から涙を流していた。
06
私は彼の亡骸を、家の裏にある様々な花が咲き乱れる庭の中心に埋め、墓を拵えた。
そして今、私は彼の墓の前に立っている。
彼の墓を見つめている私の頭に彼と過ごした日々が、彼との思い出がまるで走馬灯のように流れていく。
その流れの最後に、彼と初めて出会ったあの教会の思い出でへたどり着いた。
彼と出会わなければ、彼があの暗い牢獄から私を助け出してくれなかったら、私はきっと人間を憎み、狂っていたのだろう。
もう誰も愛することもできなくなっていたのだろう。
でも、彼は私をあの薄暗い牢獄から助け出して、傷つき荒んだ私の心を癒してくれた。
人を愛することを再び教えてくれた。
人の優しさを教えてくれた。
人のぬくもりを教えてくれた。
だから、これからも長い時を生きていくであろう私は、彼の様に人にやさしくすることが出来る人間になろう。
困っている者に手を差し伸べることが出来る人間になろう。
きっとそれが、こんな私が唯一出来る彼への恩返しになるだろうから……
「そろそろ、行くね……」
私は物言わぬ彼の墓へ、短く告げた。
そして彼の墓へ背を向け、ゆっくりと歩き出した。
もしかしたら、いつか永い時の中で記憶が摩耗し、彼のことを忘れてしまうかもしれない。
また悪意のある人間に惨い仕打ちをされるのかもしれない。
それでも、私は彼の優しさだけは絶対に忘れない。
彼のような人もいるのだということを忘れない。
私はこれからも生きていく。
-終-
シノモノガタリ マルフジ @marumaru1212
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます