ごめんね人類

乾燥肌

 

―――キィーン


重い鉄格子の扉を開けると、気が遠くなるほどの広い部屋だった。

冷たい灰色をした床と天井に、私の身丈よりも高い棚が延々と並んでいる。微かなモーター音が聞こえる他に、音も変化もない空間。

ぺたぺたと動き回ったが、整然と棚が並ぶ視界は変わらない。棚の一つに歩み寄る。透明の球が、無数に並んでいた。



歴史の隔絶ののち、人類の持つあらゆる資産は大きく削られ、一部の人間に投資を集約させることが余儀なくされた。

身分と知能によって選別されたごく一部の人間が豊かな人生を送り、その潤沢な経験を元に支配と適応を継続し、また後世の人間はそれを受け継ぎ人口を少しずつ増やしていく。途絶えかけた文明を存続させるための最適な手段だった。

もはや人間の寿命は十年もないため、外部環境に耐えられる丈夫さを持つ遺伝子を持つ人間が慎重に生産され、記憶の移植に耐える一程度の教育を受けることになった。

記憶を作る人間と、その容れ物としての人間が必要で、私は後者だった。

それ以外のことは、よく知らない。



人間の記憶がどのように保存され別の人間に取り込まれるかは知らされていない。

しかし、私という個体は想定されていたより知能が高かったらしく、記憶の媒体が保存されている場所が推定できてしまった。

私は明日で17年生きたことになる。科学が一歩前進した瞬間を迎えるのだろう。

明日から別の誰かの記憶を取り込み、別の誰かとして生きていく私は、私として懲罰を受けることもないから、今日禁忌を犯すことにした。



そして辿り着いたのがこの部屋である。旧世紀の図書館はこんなところだったのだろうか。

私のこぶしよりも小さい球が棚に金属で固定して整列され、棚にはアルファベットと数字のラベルがついている。

球ごとに輝きも色も異なった。中身がキラキラと光るもの、暗く沈み動きを見せないもの。

私は目線の高さにあった、白く光る球を手に取って眺めた。

よく見ると、球は透明な液体で満たされ、線状の物体がちらちらと光っては消えてを繰り返している。物体が光る度に色は少しずつ変化する。赤色、無色、白、薄い黄色。

球はつるつるとしていて、思ったより軽く温かかった。これをどうやって他人に移植するのだろう。

ひとしきり触ったり揺らしたりしてみた後、しばらく咥えてみた。無味のまま溶けることもなく手に吐き出しても変化はない。

もう一度口に含んで、奥歯で力を加えると、パリンと破裂する感覚があった。さらさらとした、ほんのりと甘い味が広がった。

飲みこんだ瞬間強い眠気に襲われ、その場に倒れた。ひどい耳鳴りがして目を閉じた。



私は学校の教室にいた。学校?教室?この木製の床と机が並んだ空間……。

窓からは強い赤色の日差しが差し込んでいた。制服を着た生徒たちが下校していく。

扉がガラッと開き、「待っててくれたんだ」と彼が呼びかける。

「別に、待ってないけど」私は勝手に口にした。動悸を感じる。風がくすぐったい。私は髪を耳にかけ、俯く。

「じゃ、帰るか」彼がこちらに近づき、じっと私の目を見て、「実はさ、お前のこと」―――

きらきらとした結婚式、激しい痛みと出産、成長した息子とその嫁の笑顔、夫の笑顔、孫の笑顔、笑顔―――最後は微笑みながら、夫に「ありがとう」と呟いて目を閉じ……。



暗闇の中で再び耳鳴りがして目を開けた。汗をかいていたが身体は痛くなく、一瞬の出来事だとわかった。軽い頭痛を感じたがすぐに消えた。

一瞬で私は、他人の人生を早回しで体験したらしい。長い夢を見た感覚に似ていた。もっとも、こんなに色の多い夢を見たことはなかったが。

そう、色。彩りに溢れた人生。私が経験することのない。

今の光景を思い起こしながら、ぼうっとしてしばらく座り込んだ。

もし私が飲みこんでしまわなければ、あるいはあの人生も、続きを歩むことがあったのだろうか。

今まで感じたことのない感覚があった。胸底から脳みそにじわじわと熱いものが広がっていく。

身体的な異常かと思ったが、これが強い感情というものらしい。食欲でも性欲でもない衝動、欲求。

この棚の中の球をすべて壊したらどうなるのかを想像した。胸の内側がひんやりと冷たく心地よくなる。想像の中で私はすべての棚をなぎ倒して、球をぶちまけ、床の上は汚い色に染まっていく。

今更、止める必要はなかった。だったら、自分で食べてしまっても変わらなかった。

その感覚に突き動かされるように、私は次の球に手を伸ばした……。



どれだけの球を食べただろう。

人生が最後まで見られるものは少なく、ほとんどが大勢の人間を前にした瞬間を切り取ったような場面だった。

ただいくつか人生の比較的長い期間を閉じ込めた球があり、それらは苦味が強かった。

球を食べ終わるたびに耳鳴りは長くなり、頭痛がひどくなっていった。

限界を感じながら、それでも食べるのをやめなかった。



最後に食べたのは、長く病床にいた少女の記憶だった。自分の文章を世間に公開するたびに高い評価を得ていた。

切り取られていたのは一度だけ自分の足で立てた時と、それを詩に書いた記憶。

車椅子から草に足を下ろし、ゆっくりと前に歩く。

ふっと見上げると青空が広がり、ちらちらと白い粉が舞っていた。眩しい。

「あれは、なんの花?」

隣の担当医に聞こうとすると、彼は涙を流している…。



長い耳鳴りが終わるも、頭痛に耐えながら、他の球に手を伸ばす体力はなかった。

しかし、破壊したい衝動もまたなかった。

ふふっと口から息が漏れた。これが笑うという行為だということを私はもう知っていた。




その時扉が開いた。



―――キィーン

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ごめんね人類 乾燥肌 @kansou

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