バレンタインデイ父さん
吉岡梅
2月14日AM5時45分キッチンにて
ひょっとして私、寝ぼけて夢でも見てるのかしらん、と、眠気の残る頭でボーっと考えてみたものの、敦の姿はいっこうに消えない。そればかりか、何やら妙に真剣というか、悲愴というか、とにかく料理中とは思えない険しい顔で、何かを混ぜているボウルの中を覗きこんでいる。どうやらこれは現実に起きている事のようだ。
「おはようパパ。どうしたの? こんな早くに」
「ああ、おはよう真希さん。実は……実はですね……手作りチョコを作っているんですよ」
「チョコ? ああバレンタイン!」
敦は、ボウルにビスケットの破片と思しき物を入れながら、苦しそうな顔で頷いた。
「でも、なんでパパが手作りチョコを作ってるの? しかもなんだかすごく辛そうな顔して。あ、ひょっとして私に作ってくれてたり?」
敦は悲しそうに微笑むと力なく首を振った。
「いいえ、残念ながら真希さんの分ではありません。ああ、でも予備の材料も用意してありますので、作っておきましょうか?」
「え、そうなの。じゃあお願いしようかな。でも、それじゃあ……」
誰の為に作っているのだろう。そう考えて直ぐに答えが出た。
「ひょっとして
ボウルをさっくりかき混ぜていた敦の手が止まり、苦悶の表情がますます深くなった。そして、強い意志で無理矢理体を動かしているとでもいうように、ぎこちなく頷いた。こちらを見もせずに。
「そっかー。鈴奈もバレンタインを知ってるのかあ。学校で聞いてきたのかな? 小学校で話題になってるのかもね」
一人娘の鈴奈はもうすぐ小学校2年になる。毎日少し離れた距離にある小学校に元気に通う、良く言えば活発、悪く言えば能天気な娘だ。敦は、そんな娘を溺愛している。なにせ、去年の春先、ひとりだけ少し離れた地域から通学することになる鈴奈に友達ができるかどうか心配し、2km離れただけの場所に引っ越そうとしたほどだ。真希が必死で止めなければ、この場所には住んでいなかったかもしれない。
しかし、鈴菜は、そんな敦の心配などどこ吹く風で楽しそうに学校に通い、直ぐに友達もできた。そのうえバレンタインにチョコを渡す準備をしているなんて、中々うまくやっているようだ。
真希が思わぬ娘の成長に関心していると、敦はその様子にはまるで気が周らないといった様子で話しだした。
「ええ。鈴奈さんが言うにはですね……鈴奈さんにはですね……」
敦はそこまで言うと、手で顔を覆った。そして、しばらく黙っていたが、絞り出すような声で悲しげに続けた。
「鈴奈さんには……す……好きな男子ができたらしいのですよ」
「え」
なるほど。だんだん事情が飲み込めてきた。おそらく、バレンタインデーを知った鈴奈は、「好きな子に手作りチョコを渡したい」と思ったのだろう。だが、鈴菜はまだ料理ができない。まだ1年生だから、というのもあるが、そもそも敦が包丁を持たせたがらない。料理のお手伝いさえあまりやれていないというのが現状だ。
そこで鈴菜は、代わりにパパにチョコを作って貰おうと考えたのだろう。自分ではそもそも作れないし、作れたとしても、めんどくさがりなので作りたがらない可能性すらある。そこでパパの登場だ。要領の良いあの子らしい。誰が作ろうと手作りは手作りだ。そのチョコを持って、学校で配ったり交換したりしようと、深く考えもせずにパパに頼んだ。と、こんな所だろう。
「まあまあパパ。今は仲の良い友達同士でチョコを交換したりとかもあるみたいだよ。それこそ、女の子同士とかでも」
真希が適当にフォローを入れたものの、即座に敦は強く首を振った。
「いいえ。なんでもタクマくんとかいう輩に上げたいと言ってました」
「タクマくん」
タクマくんは一緒の幼稚園に通っていた男の子だ。かっこいいという訳ではないが、めっちゃ足が速い。鈴奈くらいの年代では、足の速さはとても重要なモテ要素だ。実際幼稚園時代は結構モテていた。
真希は、鈴奈の積極的にアクションを起こす姿勢に感心し、面白がっていたが、敦にはどうやら刺激が強すぎるようだった。
愛する娘が、どこの馬の骨ともわからない足の速い男に取られる。しかも、自分は指をくわえてそれを見ているしかないどころか、あまつさえ、手作りチョコを作ってサポートしてしまっているという立場に苦しんでいるのだろう。
だったらチョコとか作らなきゃいいじゃんと思うのだが、敦は娘に頼まれたミッションを断れるようなパパではない。敦にとって鈴奈のお願いへの返答は、"イエス"か"仕方ないですねえ"の2択だ。
毎回鈴奈の思いつきのようなくだらない「お願い」に真剣に取り組んでいた敦だが、今回はさすがに打ちのめされているようだ。
パパには気の毒だけど、なかなかにおもしろい状況みたいね。真希は心の中でそっと呟いて曖昧に微笑んでみせた。
敦は、悲しみの果てに何があるかを知ってしまったかのような無表情のまま、淡々とボウルの中身の材料を丸めてチョコトリュフの形に仕上げていく。
「真希さん、私は今、このチョコにめっちゃショウガを効かせてやろうかとか思っています」
「まあまあ」
「実はピンクペッパーも買ってきてしまいました」
「パパ、落ち着いて」
「これが……これが落ち着いていられますか。鈴奈さんが……鈴奈さんがどこの馬の骨ともわからない男に……ただ足が速いだけらしい輩に……」
そういうと、敦はついに肩をふるわせてさめざめと泣きだした。おおげさな。
「まあまあパパ。タクマくんだって足が速いだけじゃなくて将来ムチャクチャ立派になるかもしれないじゃない? あ、それか金メダル取るレベルまで足が速くなる可能性だってあるよ?」
「そう言うことじゃないんです!」
敦は自分で上げた声の大きさに驚いたのか、自嘲気味に照れ笑いするとぺこりと頭を下げた。
「つい大きな声を出してしまいました。すみません。親としては娘の成長を喜ぶべき所なんでしょうね。でも、真希さん……」
「うん」
「真希さん……私は寂しいのです。とても」
「うんうん」
真希がポンポンと敦の肩を叩くと、敦は寂し気に頷いて、トリュフへ溶かしたチョコをコーティングする作業を続けた。
するとその時、キッチンのドアがガチャリと開き、鈴奈が目を擦りながら入って来た。
「あれ、パパ、ママおはよう。目が覚めちゃった。2人ともはやおきだね」
鈴奈はしばらく眠そうにボーっと真希たちを見ていたのだが、敦の手元にある物が、チョコらしいと気づくと、とたんに目を輝かせて走り寄って来た。
「パパ! これチョコ!? 凄い! かわいい!」
一口サイズに丸められたチョコトリュフには、アイシングを使った模様や、どこで探してきたのかハート型や星形のトッピング用の小さなキャンディまで散りばめられていてキラキラしている。
大はしゃぎの鈴奈とは対照的に、敦は複雑な表情だ。鈴奈の前なので無理やり笑顔を作っているが、眉間の皺はいよいよ深く、その胸中は推して図るべし、といった様子だ。我が夫ながらおもしろい。
「パパ! ありがとう! パパにもひとつあげるからね!」
鈴奈が敦に抱きついてそう言うと、とたんに敦の表情が驚愕したそれへと変わった。その表情は見る間に変化し、目は潤み、口元はほころび、もはや喜びを抑えきれず感激すらしている様子が見て取れる。
「パパにもチョコをくれるのですか?」
「うん! くれるのですよ!」
鈴奈がいつものように面白がって敦の口調を真似て返事をすると、敦はいよいよ感極まったかのようだった。
「真希さん! パパもチョコが貰えるそうです!」
「ママにもくれるのですよ!」
足元で鈴奈はそう言っていたが、敦にはその声が耳に入っていないようだった。
「鈴奈さんがチョコを。きっと凄くおいしいんでしょうね」
「どうかなあ。鈴奈、味まではわかんないや」
「いえ、おいしいに決まっています。それも凄く」
「そうなの?」
「そうですよ」
「じゃあおいしいよ!」
ひと通りチョコの出来栄えを確認した鈴奈は、着替えてくると言って部屋へと駆け戻っていった。2人になると、敦は嬉しいのだけど信じていいのかどうかちょっと不安でもある、といったような微妙な表情で確かめるように話しかけてきた。
「鈴奈さんがチョコを……」
「うん。良かったねパパ」
「はい!」
敦は力強く頷くと、鼻歌を歌いながらチョコをファンシーな袋に詰め始めた。
我が夫ながら簡単だ。だいたい、自分で作ったチョコを自分に貰って感激するというのはどうなんだろう。それはアリなのか。
そして鈴奈。我が娘ながら、なかなかやりおる。自らは何も苦労をせずに、人の男を手玉に取るテクニックはあなどれない。末恐ろしい女だ。まあ、相手が敦だから成立するんだろうけど。ふふ。でも――
嬉しそうにラッピングを続ける敦を見ながら、真希はちょっと不安になった。そして、車の中に隠してある敦にあげるチョコレートの事を思い浮かべた。
私のチョコは、果たして受け取ってもらえるのかしらん。鈴奈のみたいな反応は期待していないけど。
そんな風に考えて、すぐに苦笑して首を振った。
でも、それでも渡すんだけどね。せっかくの記念日だもの。今日くらいは照れずに、まっすぐに、大好きなあなたに伝えるんだから。いつもありがとう。愛してます、ってね。
袋にリボンをかけ終わった夫が、真希を見てにっこりと微笑む。そして真希も微笑み返していつもの1日が始まる。少しだけ特別な、いつもと同じ1日が。
バレンタインデイ父さん 吉岡梅 @uomasa
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