桐谷君のメガネ

侘助ヒマリ

私の唯一の「好き」を彼は手放した。

 別に桐谷君が好きなわけではない。


 黒よりも少し明るい地毛が陽射しを含んで琥珀色に透けるのも。

 形の良い切れ長の瞳が少しグレーがかっているのも。

 私より頭ひとつ分高い背丈も、甘く綻ぶ笑顔も、わがままな私をいつも許してくれる包容力の高さも。


 そんな色々が好きってわけじゃなくって。


「なのに、どうして――――」


 私が好きだった桐谷君のその一点を、彼は手放してしまったのだろう。


「ああ、これ? 昨日自転車でコケちゃって。擦り傷ですんだんだけど、倒れた自転車の下敷きになって、フレームが曲がっちゃってさ」


 久しぶりのコンタクトなんだけどどう? と。

 桐谷君は、メガネ越しよりもわずかに小さく見えるグレーがかった瞳を細めて微笑んだ。


 その顔にイラつく。


「壊れたメガネはどうしたの? まさか捨てたりなんかしてないよね?」

「え? 捨てたよ。もう何年も使ってたし、第一あれはもう修理じゃどうにも……」

「どうして捨てちゃうのよ! 桐谷君はあのメガネじゃなきゃダメなのに……!」


 メタル素材のハーフリムにスクエアに近いオーバル形のレンズが嵌め込まれた、知的な硬質さを持った桐谷君のメガネ。

 私にとっては、あのメガネこそが桐谷君であり、あのメガネをかけた桐谷君じゃなければ好きじゃないのに。


ゆかりがそんなにあのメガネを気に入ってたなんて知らなかったよ。週末に新しいメガネを買いに行く予定だから、一緒に選んでくれる?」

「嫌! あのメガネ以上に桐谷君が桐谷君らしく見えるメガネなんてないんだからっ――」


 胃の辺りから沸き上がってくるイラつきを唾を吐くようにアスファルトに乱暴に叩きつけ、私はオロオロする桐谷君を置き去りにして足早に駅へと歩いた。


 *


 本当はメガネなんてきっとどうでもいいことなのだ。


 桐谷君が私に振り回されて困惑している姿に堪らない愉悦を覚える。

 どんなにわがままを言ったり、約束を反故にしたりしても決して怒ることなく、眉尻を下げてオロオロする様子が滑稽なのだ。

 クラス内カーストが私よりも上位の彼を従えているという優越感も味わえる。


 この愉悦と優越感に浸るために、私はさして好きでもない彼からの交際申し込みを受け入れた。

 彼のメガネが好き。

 その程度の好意を持つ相手が私には丁度いいのだ。


 *


 結局桐谷君の再三の誘いにも応じなかった私は、日曜日の午後の気怠い空気を持て余し、街へと繰り出した。


 行くあてもなく、ショッピングモールの中をぶらぶらと見て回っていると、全国チェーンのメガネ屋の店頭でメガネを選ぶ桐谷君を見つけた。


 暇なのに誘いに応じなかったのはばつが悪い。進路を変えようと踵を返そうとして、彼の隣に一人の少女がいることに気がついた。

 親しげに体を寄せ合い、様々なフレームを手に取って彼が試着する度に、鏡越しの彼と楽しげに会話をしている。


 心臓が大きく打ち、嫌な汗が背中を伝う。


 私は逃げるようにその場を立ち去り、脇目もふらずに自宅へと駆け込んだ。


 ベッドの布団に潜り込むと、緩んでいた口元から忍び笑いが漏れた。





 これは面白い────




 *


 翌日、私は逸る気持ちを抑えつつ昼休みまでなんとか待って、話があると桐谷君に声をかけた。


 メガネを買いに行っていたはずなのに、今日もコンタクトの桐谷君が嬉しそうに私の後をついてくる。


 大声を出しても差し支えない中庭の隅まで来ると、私は出来る限りの鬼の形相で桐谷君を睨みつけた。


「桐谷君……。昨日、浮気してたよね?」


 私の鋭い視線にたじろぎながら、桐谷君は「えっ?」と曖昧な声を漏らした。

 その狼狽ぶりに内心ほくそ笑みながらも、作戦はまだ序盤なのだと気を引き締める。


「私、見ちゃったんだよ? 桐谷君が昨日女の子とモールでメガネを買うところを」


 事実を突きつけると、彼の狼狽ぶりはますます加速した。


「あっ、それはだって、紫が俺のメガネを一緒に選んでくれないから……」

「だからって、他の女の子を連れて見に行くなんて信じられない! 最っ低!」


 最高────!


 今ならばどんな罵詈雑言を放っても許される。

 眉尻を下げてオロオロしている彼の姿が滑稽で堪らない。


 笑い出したいのを必死で堪えながら、私は面白いように口から出てくる悪態を躊躇することなく彼にぶつけていく。


「誠実な人だと思ってたのに、本当クズだね! 浮気者! 馬鹿!」


 気持ちが昂り過ぎて、引き際がわからなくなる。

 とうとう握り拳を作って彼に向かって手を振り上げた時、桐谷君が私の手首をがしっと掴んだ。


「何すんのよ!? 一発殴らないと気が済まないんだけど!」


「殴ってもいいよ。……けど、その前に言わせて」


 穏やかな彼の声にはっとする。

 さっきまでの眉尻を下げて狼狽えていた表情は消え失せて、グレーがかった瞳が優しく揺れている。


「紫がそんな風に怒ってくれるなんて思わなかった。俺にいっぱいわがままを言うのは甘えてくれてるからなんだって思ってたけれど、最近ちょっと自信がなくなっていたんだ。紫は俺のこと本当に好きでいてくれてるのかなって」


「は? 何言って────」


「だから、昨日妹を連れてたところを誤解して、俺が浮気してるって思い込んでこんなに怒って……。不謹慎だけど、なんだかすごく安心したんだ」


 桐谷君はそう言うと、掴んだ手首を自分に引き寄せ、呆然としたままバランスを崩した私を胸で受け止めた。

 彼の両腕が私の背中へと回る。


「かっ、勘違いしないでよっ! 怒ってるのはそういうわけじゃ……」

「はいはい。どんだけツンデレだよ、もお」


 抱きしめられたまま後頭部をぽんぽんと撫でられて、鬼の首を取ったように息巻いていた自分が急に恥ずかしくなった。


「……で、メガネ買いに行ったはずなのに、なんで今日もコンタクトなの?」

「色々探してみたんだけどさ、やっぱり紫の気に入ってくれるメガネがいいなって思って。今度の週末こそ付き合ってよ」


 顔を上げると、グレーがかった切れ長の瞳が細められ、お日様の光を含んだ髪が琥珀色に透けている。


「あのメガネじゃないなら、何を買ったってどうでもいいよ。……まあでも急ぐんだろうし、来週は付き合ってあげる」


 その一言を言った途端、顔がみるみる熱くなる。

 桐谷君はそんな私を見て甘い笑顔を綻ばせた。





*おわり*

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桐谷君のメガネ 侘助ヒマリ @ohisamatohimawari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ