後に「大帝」と呼ばれることになるスレイマンと、「大宰相」と呼ばれることになるイブラヒム。両名の想いは、向かい合っているには向かい合っている……のだが、まー、何と言うか。
なにせ猫である。液体である。掴めない。引っ掻かれる。でもすり寄ってくる。猫の小姓頭さん、困ってしまってにゃんにゃんにゃにゃーんである。ついでに猫パンチも食らう。
つまり信仰と戒律の話です。
ファトワーは下されるのです。
猫は宇宙。
にゃーん。
猫と人間の相違を通じ、「神」との向き合い方を追求するスレイマン。巻き込まれるイブラヒム。デタラメに深遠な話をしているのに、その深遠さが「我々が愛し合うとはいかなる事か?」の一点のために費やされる。そして猫は伸びをする。
ただし、なかなか像が結ばれづらいと思われた議論の数々は、最終的には一点に収斂してゆく。その経緯についてはお見事、の一言であるし、行き着いた先について言えば「爆 発 し ろ」に尽きるのだが、一方でそれは、ある意味では罪を負わずに生きることなど叶わない、我々「神の子」にとっての救い、…と呼んでしまっても良いのではないか。
……あー。
方埒に語りすぎました。
人間存在にとって「神」はあまりにも大きすぎる。波濤を前にした砂粒一粒一粒がその大小を比べあってみたところで、「神」の大きさになんの影響があるだろう。「神ならざる身で神を考えるなど何ほどか」的なスレイマンの諸発言には頷かされまくった。首がもげるかと思った。
けど、斯代の俊英たるスレイマンとイブラヒムの対話を目の当たりとして、微才のぼくは、結局のところこう思うしかないのだ。
「オッドアイの白猫さま高貴かわゆい……」
プラトンの「饗宴」に、酒に酔ったアルキビヤデス(アルキビアデス)が、師ソクラテスを、異文化、そしてBLに慣れない者からすると引いてしまうような恨み言まじりで称賛する場面がある。それから約二千年の時間と信仰の違いがあっても、愛を語るのに熱心なのは世界共通か、それとも地中海沿岸の人々の気質だろうか。
もっとも、ソクラテスたちのギリシアとは違い、男色が一応は禁忌の時代だ。だから二人は、信仰と同性愛の間でどう折り合いをつけるかについて語り合う。その試みは成功した様子だが、しかし、著者の巧みな構成もあって、その結果(同禽)より、そこに至る過程そのものが目的に映る。時にははぐらかしたり、そして時には意表を突いた形で探り合いながら、二人は言葉で互いを愛撫する。
「饗宴」の注(岩波文庫版)に、「古代人は普通、人間は直接神に近づき得ぬもの、と考えていた」とある。そこで神霊(ダイモーン)が必要になるらしい。もちろんここでの「近づく」も「神」も、スレイマンたちの場合とは異なるはずだが、現代の平凡な日本人からすると、神霊や祈りより、むしろ「問答」そのものが、直接、間接を問わず神に近づく方法のように感じる。
二人の「愛の問答」は、むしろ「問答への愛」というべきかもしれない。