猫=宇宙

後に「大帝」と呼ばれることになるスレイマンと、「大宰相」と呼ばれることになるイブラヒム。両名の想いは、向かい合っているには向かい合っている……のだが、まー、何と言うか。

なにせ猫である。液体である。掴めない。引っ掻かれる。でもすり寄ってくる。猫の小姓頭さん、困ってしまってにゃんにゃんにゃにゃーんである。ついでに猫パンチも食らう。

つまり信仰と戒律の話です。
ファトワーは下されるのです。
猫は宇宙。
にゃーん。

猫と人間の相違を通じ、「神」との向き合い方を追求するスレイマン。巻き込まれるイブラヒム。デタラメに深遠な話をしているのに、その深遠さが「我々が愛し合うとはいかなる事か?」の一点のために費やされる。そして猫は伸びをする。

ただし、なかなか像が結ばれづらいと思われた議論の数々は、最終的には一点に収斂してゆく。その経緯についてはお見事、の一言であるし、行き着いた先について言えば「爆 発 し ろ」に尽きるのだが、一方でそれは、ある意味では罪を負わずに生きることなど叶わない、我々「神の子」にとっての救い、…と呼んでしまっても良いのではないか。

……あー。
方埒に語りすぎました。

人間存在にとって「神」はあまりにも大きすぎる。波濤を前にした砂粒一粒一粒がその大小を比べあってみたところで、「神」の大きさになんの影響があるだろう。「神ならざる身で神を考えるなど何ほどか」的なスレイマンの諸発言には頷かされまくった。首がもげるかと思った。

けど、斯代の俊英たるスレイマンとイブラヒムの対話を目の当たりとして、微才のぼくは、結局のところこう思うしかないのだ。

「オッドアイの白猫さま高貴かわゆい……」