猫は神を知り、人は神に背く
崩紫サロメ
第1話 少年は朗誦する
(この子、可愛い顔してなかなかしたたかかもしれない……)
書見台の前にすっと背筋を伸ばして、美しいアラビア語で『
この子と共に『聖典』を講読し始めて約3ヶ月。
一人がアラビア語の原文を朗読し、もう一人がトルコ語に訳す。
その後、疑問点などを語り合い、役割を交代し、次を読む、という実に単純なものだ。
少年-イブラヒムの上官にあたるカッファ県知事スレイマン王子は、イブラヒムより一つ年下の16歳ではあるが、イスラーム法学者としての勉強を重ねており、イブラヒムが教えを受けているようなことも多い。
しかし、何故仕事の後に、上官と二人で聖典を講読せねばならないのか。
*
数ヶ月前に遡る。
ある夜、同僚として、友人として親しくしていたスレイマンと、夜明け近くまで語り合った。
その内容は、スレイマンが読んだり書いたりしている“物語”のことであったり、スレイマン自身の人生に対する姿勢であったり、様々なものであった。
だが、その中で、スレイマンは緊張した面持ちで告白した。
イブラヒムへの、複雑な思いに葛藤している、と。
薄らと赤らんだ顔から、それが“友情を越えた好意”であることはすぐにわかった。
(別に、葛藤など必要ない)
そう思って抱き寄せて口付けた。
今まで、自分に思いを寄せる少年にそうしてきたように。
だが……。
スレイマンは猫のような素早さで、「ばりっ」とイブラヒムの顔に爪を立て、「何をするか!?」と抗議した。
どうやら、田舎の子というのは純真で、いきなりこのようなことをするのは抵抗があるらしい。
帝都イスタンブルで、多くの男を手玉に取ってきたイブラヒムには新鮮だった。
今までにいなかった、
どうやって陥落させてやろう?
イブラヒムは秘かに楽しくなった。
*
(だが、この状況、おかしくないか?)
スレイマンは、自分たちの思いを、行いを、聖典に照らし合わせて振り返ろうと言い出した。
法学者志望のスレイマンだから、仕方がないと思った。
イブラヒム自身、聖典は暗唱しているが、一緒に読み直して、新たな発見もあり、そもそも、スレイマンと語り合うこと自体が楽しい。
だが、冷静に考えてみておかしい。
例えば先日、「飲酒」の禁忌について様々な解釈があることを聞いた。
「飲酒」はイスラームにおける禁忌とされているが、オスマン帝国では広く飲酒が行われている。
それは、「飲酒」の定義を「酒を飲むこと」ではなく、「酒を飲んで泥酔し、嘔吐すること」と解釈しているからである、と。
このように、「禁忌」とされる事柄も、解釈次第で「合法」とされる。
となれば、今、自分たちの間で問題になっている「禁忌」、つまり「男色」についても解釈次第でなんとでも言える。
つまり、わざわざこのように勉強会などを毎日開いて、その是非を読み解く必要はない。
その気がないのなら、「男色は禁忌だ、近寄るな」と言えば済む話。
(結局スレイマン様は……)
隣に座っているスレイマンは、朗読を終え、笑みを浮かべてイブラヒムを見た。
その肩を抱き寄せて口付ける。
しばらく、目を閉じて身を任せるかのような素振りをみせたスレイマンであったが、ぐっと身体に力を入れたかと思うと、思い切りイブラヒムの腕を振り払った。
「何をしている、訳せ」
眩しいほどの笑顔を作ながら、威嚇するように言い放った。
イブラヒムはしぶしぶ、目でアラビア文字を追いながら、訳していった。
近習学校でアラビア語をたたき込まれた身には、造作もない作業だ。
(私を挑発して、焦らして楽しんでいる……?)
聖典を訳す口元に、スレイマンの視点を感じながら、そう思わざるを得ない。
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