第2話 夢のある俗説
イスタンブルで遊び慣れた自分と、純真で擦れていない田舎の王族。
自分たちをそのように対比したこと自体、間違っていたのではないか。
確かに、実体験として、スレイマンは色恋の経験などないのだろう。
だがこの状況はどうだ。
誘いにすぐには応じない、かといって拒絶もしない、中途半端な距離まで近付いて身を翻す。
そのようにすることによって、自分の価値を高く見せ、相手の執着心を煽る…まさに“手慣れた者”のやり方を地で行っている。
訳読を終え、少し休憩をすることになった。
スレイマンは立ち上がって、扉を開けた。
「……誰ですか?」
「トルハン」
毛足の長い茶色い猫がのっそりと部屋に入ってきた。
スレイマンが飼っているというよりも、県庁自体で世話をしている猫たちの一匹だ。
「おいで、トルハン」
スレイマンに取られる前に、イブラヒムはトルハンを膝に載せて抱き締めるように撫でた。
「……ずるい……」
自分だけ猫を撫でているイブラヒムに、スレイマンは拗ねたように言った。
「お望みならスレイマン様にもして差し上げますが」
「……そういう意味ではない」
久々にスレイマンを軽くあしらえて、イブラヒムは少し溜飲が下がった。
「そういえばスレイマン様、ちょっと質問してもいいですか?」
「ん?聖典の?」
茶を飲んでいたスレイマンが顔をあげた。
「近いところです。昔からこう言いますよね。犬は人間を神だと思っているが、猫は神がいることを知っている、と。あれは本当なのですか?」
普通に誰もが言っていることだが、スレイマンなら真偽を知っているのだろうか。
「正統教義ではない。だが、夢のある俗説だ」
スレイマンはイブラヒムの膝の上のトルハンを撫でながら言った。
「それから、正統教義ではないということと、真実ではない、ということは別物だ。正統教義ではないが、現実として地球は丸く、回っているように」
地球が丸く、回っているということは、他のあらゆる宗教の教義にもない。
だが、一千年以上前にギリシア人が既にそれを明らかにし、地球の大きさまで計算している。
何故神がそのことを預言者たちに告げなかったのか、その真意は分からないが、地球が丸いことを否定すれば、様々に論理的な矛盾が出てくる。
近年ではそれを否定していた西方の人々も、それを実証しようとしている。
ならば、正統教義でなくても、猫が神を知っているというのも、もしかしたら真実だったりするのだろうか。
「それで、そなたは、この講読を通して、何か結論が出ると思うか?」
スレイマンは、少し慎重な顔になった。
「結論とは、我々のあり方ですね」
「そう。私とそなたが互いに好意を持っている…という状況において、肉体的な関係を持つことが、イスラーム法において妥当性を持つのかどうか…ということだ」
スレイマンは普段、すぐに赤面する割に、こういう堅い言葉を並べ始めると、やけに冷静になる。
結論も何も、イブラヒムは元からそのあたりには抵抗がない。
「みんなやっている」、よって「問題なし」。
至って単純な結論だ。
「それで、スレイマン様はどうなのですか。結論は出そうですか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます