愛の問答か、問答への愛か。

 プラトンの「饗宴」に、酒に酔ったアルキビヤデス(アルキビアデス)が、師ソクラテスを、異文化、そしてBLに慣れない者からすると引いてしまうような恨み言まじりで称賛する場面がある。それから約二千年の時間と信仰の違いがあっても、愛を語るのに熱心なのは世界共通か、それとも地中海沿岸の人々の気質だろうか。
 もっとも、ソクラテスたちのギリシアとは違い、男色が一応は禁忌の時代だ。だから二人は、信仰と同性愛の間でどう折り合いをつけるかについて語り合う。その試みは成功した様子だが、しかし、著者の巧みな構成もあって、その結果(同禽)より、そこに至る過程そのものが目的に映る。時にははぐらかしたり、そして時には意表を突いた形で探り合いながら、二人は言葉で互いを愛撫する。
 「饗宴」の注(岩波文庫版)に、「古代人は普通、人間は直接神に近づき得ぬもの、と考えていた」とある。そこで神霊(ダイモーン)が必要になるらしい。もちろんここでの「近づく」も「神」も、スレイマンたちの場合とは異なるはずだが、現代の平凡な日本人からすると、神霊や祈りより、むしろ「問答」そのものが、直接、間接を問わず神に近づく方法のように感じる。
 二人の「愛の問答」は、むしろ「問答への愛」というべきかもしれない。