あなたに借りた鉛筆を、返せる時を待っています

遠藤孝祐

ピンク色した花柄の鉛筆

 限界まで尖らせた鉛筆の切っ先。

 細く削りすぎて、紙に触れさせた瞬間、折れてしまいそうな脆さを秘めていた。

 でも、なんでかな。

 あっさりと砕けそうな黒炭の芯は、わたしを突き刺すナイフに見える。

 生き急いでいるわけでもなければ、死に急いでいるわけでもない。死のイメージは当然に恐怖で、思うだけで体が震えてたまらない。廊下で首を絞められた時、死の気配は感じたけれど、生きたいからこそ抵抗したのだ。

 人並みかはわからないけれども、人並みには死にたくない思いを持っている。

 それでも、思う。ただ鉛筆を極限まで鋭く削っている時、思う。

 もしもわたしが死ぬのであれば、黒く鈍った鉛筆で心臓を貫かれて死にたい。

 流れる血液は何も生まないだろうし、そこにはきっと感動もカタルシスもないだろう。後にポツポツと悲しみめいたものが生まれるかもしれないけれど、ひと時の感傷が過ぎ去れば日常は帰ってくるのだろう。わたしが死んだところで、そんなもんだ。

 いつかわたしを刺し殺してくれるかもしれない彼は、ちっぽけな命を奪い去った後は、ブサイクにでも笑ってくれるだろうか。

 想像なんてつかないな。

 もう彼の笑った顔すら、思い出せないのだから。



「鉛筆忘れたんだろ? しょうがないから貸してやるよ」

 ハニカム彼の笑顔は、大袈裟ではなく太陽のように見えた。目には見えないけれども、人が放つ輝きは確かにある。オーラというか雰囲気というか。その強さは決して同一じゃなくて、人としての強さや明るさがなんとなく伝わってくる。人は目に見えない何かを感知できる力があるから、彼とは住む場所が違う人間なんだと、わたしはずっと思っていた。

「ごめんね。マークシートには鉛筆を使わなきゃいけないってこと、忘れてた」

「折田ちゃんって、真面目そうに見えるけど、意外とドジだったりする?」

 席替えでたまたま隣り合った女子生徒に、ほぼ初会話でちゃん付けをする彼は、チャラいと言ってしまえるんじゃないか。わたしが過敏なだけなんだろうか。非難に聴こえる内容の言葉でも、柔らかく瞳を丸めて、人懐っこく甘い口調で言われれば不快ではなかった。

 クラスの中心で周りもはばからずに笑い声を散らす、教室のトップカーストに彼は属していた。ムードメーカー的な雰囲気で、調子に乗った行動をして、誰かが嗜める。そのような流れができていた。教室でいきなりバンドの真似をして歌い出しても、雑巾やほうきで野球を始めても、彼らなら許された。キラキラ、地味、くすんだ色、どこにも属さずポツポツと付けられたシミなど、教室の中にも様々な色はある。けれど、全体のカラーを彩っているのは彼らだった。一番強い輝きが、ちっぽけな教室を染めているんだ。

「真面目ってわけでも、ドジってわけでもないと思う」

「そうなんだ。まだ折田ちゃんのことをよく知らないし、これから教えてよ」

「すぐにそんな風に言えるのって、なんかすごいね」

「すごいって、俺ほめられた?」

「ある意味、そうかも」

「やったぜ。特に何もしてないけど」

「なんていうか、人に近づくことをなんとも思ってない感じが、すごいなって」

「ほめられてるかビミョー。色んな人と仲良くなりたいって、フツーのことなんじゃない?」

 そんな恥ずかしいセリフを、なんでもない風に言ってしまえることがすごいって言うんだよ。

 でも、どうなんだろう。誰かと仲良くなりたいって口に出すことを、恥ずかしいと感じてしまう気持ちの方が不自然なのかもしれない。

 生きていくにつれて、自分を象っていく壁は分厚く、高くなっていく。心の防壁は築かれる。

 言いたい言葉も覆い隠して、わたしは笑みに見えるように口元を上げた。

「そうだね。普通のことかもね」

「だろ?」

 勝ち誇った笑みには、わたしとっては純粋な光のようで、向けられた側としてはちょっとだけ陰る。



 彼とはたまに話をするようになる。隣の席だから当然だけど。

 でも所属しているグループが違うから、交流の機会はごく短い時間のみだった。例えば授業の合間。物を貸し合う時。学校の中での隙間を縫うような交流は、少しだけ壁を解きほぐしてくれる。

「ごめん。今日も貸してもらっていい?」

「しょうがねえな。ほら」

「ありがとう」

 わたしはよく鉛筆を忘れる。必要な時に限って、ほぼ必ずだ。

 最近では彼もそのことをわかっているのか、決まったものを貸してくれるようになった。男子が使うには可愛すぎる、ピンク色をした鉛筆だった。あしらわれた花柄が、さらに可愛らしさを主張していた。

 この鉛筆を使って描く絵は、少しだけ浮ついているように見える。書き連ねた字は、弾んでいるようにも見える。気のせいだと思うし、気のせいだからなんだろう。

 ふと彼に聞いてみたくなる。わたしに鉛筆を貸してくれる時に、一体どんな気持ちなんだろうか。花柄でピンク色の鉛筆なんて、買った時はどんな気持ちだったんだろうか。

 チラッと横目で隣を見る。伸ばし気味の前髪が瞳に向かって垂れている。切っ先まで視線が辿り着いた時、彼もこちらを見てわたしは目線を背ける。沸騰するほどではない。けれどじんわりと太陽が内部で燃える。燃料を注ぎ続ければ、もしかしたら大きく育って爆発してしまうのかもしれない。

 そんな想像をしてしまうけれど、わたしは無理やり打ち切った。身の丈というものを考えてしまう。

 突出したものなど何もなくて、クラス内だけを見ても立場が違う。すでに平穏で穏やかな色に染まっているわたしは、華やかな色彩に塗りつぶされることはできない。

 そう思いながら過ごしていたある日の放課後。派手で強気な女子生徒である緒形さんが、弾丸のように教室から飛び出していく姿を目撃した。

 教室で怪物でも出たんだろうかと恐る恐る覗いてみると、佇んでいたのは隣の彼だった。横顔しか見えないけれど、普段の彼には似つかわしくない雰囲気に、息が止まった。

「折田ちゃん?」

 名前を呼ばれて、今度は心臓が跳ねた。色っぽい意味ではなく、後ろめたさによる感情が大きい。

 かける言葉が見つからなくて、緩慢な動作で教室に入った。忘れ物を取りにきただけでわたしに落ち度はないはずだ。けれども、見てはいけないものの一部を目撃してしまったことに、妙な罪悪感で満たされていた。

「なんか、ごめんね」

「見てた?」

「何があったかまでは、見てない。緒形さんが走り去っていったところだけ」

「そっか。俺の方こそごめんな。気を使わせちゃってるみたいで」

「別にいいよ」

 嘘だけど。

 足早に自分の机から荷物を持ち出した。かけるべき言葉は見つからなくて、鉛を飲み込んだような息苦しさから早く逃れたかった。

 教室から出て行こうと扉に手をかけたその時。

「断ったから、俺」

 なんのことかは言われなかった。

 けど、なんのことかは、なんとなく察していた。

 なんでそれをわたしに言うの。今のこのタイミングで。

 止まっていた手を無理矢理動かし、ドアを開けて教室を出ていった。自然と早足になっていた。ずっと教室に居続けていたら、何かが変わってしまいそうな予感がした。

 変わってしまえばいいと受け入れるには突然すぎて、一度冷静になりたかった。

 借りっぱなしの鉛筆は、筆箱にはしまわずにポケットにつっこんでいた。ポケット内が汚れてしまっているかもしれないけれど、構わなかった。

 右手で鉛筆を握りしめる。細く脆いちっぽけな繋がり。また返さなきゃいけない。

 圧倒的な緋色の煌めきは、強すぎてわたしの目は眩む。



 這い上がるには時間が必要だけれど、転落は一瞬にして始まってしまう。

 クラスで輝くグループ内でも、当然序列があるようだった。内部で発生するはずだった青春がふいになったことで、グループ内は不穏な空気にまとわれてしまったようだった。

 いじられ、笑いを生むだけだったやりとりには、どこかトゲが混じるようになっていた。トゲから排出された毒は蔓延していって、いつしかいじりは度を超えていった。その中心にいるのは、彼だった。

 緒形さんは時折、氷のような視線を彼にぶつけるようになった。そんな時は決まって、同じグループにいる男子は遊びに収まらない暴力性を発散しているようだった。

 じゃれあいに覆い隠された拳が、彼の体を傷つけていった。それでも彼は笑っている。わたしには見たことのない笑みだった。感情の全てを覆い隠すような、強固に作られた鉄の仮面を見ているようだった。仮面の裏に潜んでいる素顔には、誰も踏み込んだりしないようだった。

 壊れた秩序の後には、新しい秩序が生まれていて、誰しもが何かを思いながらも今ある秩序に従っているようだった。目に見えない絆は、枷に繋がれた鎖のように冷たく硬質だった。

 その秩序に繋がれたわたしも、結局は他の人と変わらない。暴力を奮う人も、奮わなくて傍観を決め込んでいる人も、等しくはなくても同罪のように思う。誰も罪を見ようとしないけど。わたしも含めて。

 どんどん彼がくすんでいく姿を、わたしはただ見ているだけだった。

 とある日、そのまま川に飛び込んだようにびしょ濡れな彼が廊下で膝を抱えていた。男子トイレから水滴が彼まで続いていた。トイレで水をかけられたのだろうか。

 周囲に人がいないことを確認した。その行為に自分でも嫌悪感を覚えた。

 誰もいないようだったから、彼に話しかけることにした。

「だいじょうぶ?」

「折田ちゃん……だいじょうぶだいじょうぶ。ちょっとドジっちゃった」

 いつか向けてくれた笑顔とはほど遠い、笑顔の形をしただけの何か。

「これ、良かったらどうぞ」

 ハンカチを渡した。全身を拭ききれるわけじゃないことはわかっているけど、何かできるのであれば何かしたかった。

「ありがとう」

「別にいいよ」

 むしろこんなことしかできないことに、わたしの方が申し訳なく感じた。

 彼は何も言わずに、ハンカチを見続けていた。表情はみるみるうちに歪んで、表情を隠すように彼は顔を膝の間にひそめた。

「どうしてこうなっちゃったんだろう」

 彼は問う。心からの疑問を。今まで言ってこなかった弱音を、吐き出した。

「あなたは悪くない。悪くないよ」

 慰めにもならないとは思いながらも、善めいた言葉を言う。決して行動に移されない耳障りのいい言葉だけを投げかけた。根本的に何か変わるわけじゃなくても、言わずにはいられなかったわたしは、ただの偽善者だと思う。

「俺は、悪くないよな。悪いのはあいつらだよな」

 ぶつぶつと、呟くように彼は言葉を紡いでいった。タガが外れたように呪詛の言葉が彼から漏れ出していた。一度決壊したダムは、勢いのままに水が流れ続ける。わたしは見抜けなかった。たった一言で、思いが溢れ出てしまうほどに彼が追い詰められていたことを。

 ふいに彼は立ち上がり、真正面から両肩を掴まれた。痛いくらいに彼の指が食い込んでいる。痛みに顔をひしゃげても彼はお構いなしだった。

 かつてないほどに、彼は近くまで顔を寄せてきた。その瞳は涙に濡れながらも血走り、鋭さを増した相貌に身が震え上がりそうだった。あらゆる悪感情を詰め込んだような醜悪な形相に、声も出なくなった。

 わたしは、イヤイヤと首を振ることしかできなかった。

「折田ちゃんまで、俺をいじめるのか? 俺が悪いって、いじめるのか?」

 語気が荒くなり、悲しみの色が浮かび上がっていた。

 彼は両手でわたしの首を包み込んだ。恐怖は増大して、パニックに陥った。思考も感情もぐちゃぐちゃになり、何が何だかわからなかった。

 首が締まり、息が苦しくなる。後悔も懺悔もする暇もなく、生命が脅かされていた。

 その行動は意図的なものではなかった。気がつけばポケットから鉛筆を握りしめ、芯の部分を彼の手の甲に突き刺していた。

「ああああ。痛い。痛いいいいい」

 首から手は外され、何度か大きく呼吸を繰り返した。苦しさにむせ込んで、涙も溢れてきた。自分がこんなにも暴力的な行動をとってしまうとは思わなかった。生命が脅かされたことで、生きようとする本能の結果だったのだろうか。

 何も喋れないわたしは、力も入らず廊下にうずくまった。ここから逃げなきゃ行けないとは思うけど、ぐちゃぐちゃの感情に阻まれて身動きがどれなかった。

 精一杯の力を振り絞り、顔を上げた。

 彼はわたしを見下ろしていた。

 色をなくした、その瞳で。

 真っ白でも真っ黒でもなく。

 そこは何もない、虚空のような。

「ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい」

 フラフラとした足取りで、彼は立ち去った。

 赤く染まった鉛筆だけが、その場に取り残されていた。

 ようやく動けるようになって、手が汚れることも構わず、鉛筆を握りしめて、わたしは泣いた。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。



 それから、一度として彼の姿を見ることはなかった。



 いじめの対象がいなくなったからといって、クラス内に漂う不穏な空気が澄み渡ることはなかった。行き場を無くした暴力性は、別の対象に向かって行っただけだった。

 うんざりとした日常を過ごしていると、奇妙なことが起こり始めた。

 いじめに積極的に関わっていた人物が、謎の大怪我を負っていく出来事が続いていった。ある人は腕を折られ、ある人は内臓を痛めて入院までする事態となっていた。

 誰もタブーのように口にしなかったが、共通の認識を感じているように思っているようだった。

 きっと彼の復讐が始まったのだ。

 いじめの主犯格が軒並み怪我を負って行く様子に、不謹慎だが喜んでいる人もいた。自分たちは何もしていないのに、悪は罰せられるんだと正義感のみを振りかざす傍観者たちだ。

 自分たちの罪悪感を、誤魔化してしまうように声を高らかに囀る声に、ただただ吐き気を感じた。

 しかし、被害者は主犯格のみに留まらなかった。何かしらの法則があるのかはわからないが、いじめに関与していないクラスメイトたちも軒並み怪我を負っていった。

 まるで、加害者はクラス全員だとでも言うように、怪我人は増えていった。

 わたしは、毎日を少しだけ楽しく感じるようになった。いじめた奴らだけでなく、ただ何もしなかった奴らも罰をくらうことを、清々しく思っていたんだ。

 そして、日々を楽しみにしている。

 目を逸らし続けたわたしの罪を、早く罰してくれないかなと、焦がれている。

 彼の復讐に胸を踊らせるこの気持ちは、きっと恋人とのデートを待ちわびる気持ちに似ているのかもしれない。

 毎日綺麗に鉛筆を削る時は、まるで口紅を塗るようなドキドキを感じている。

 彼はまだ、ハンカチを持ってくれているだろうか。

 もし彼がハンカチを返してくれたのなら、わたしも鉛筆をやっと返せる。お互いの貸し借りを無しにできる、理想的な展開だ。

 青春が染み込んだような青空は、今日も変わらずに真っ黒だ。快晴のいい天気。雨が降っても真っ黒だけど。

 極限まで削った花柄の鉛筆は、今日も肌身離さず持ち歩いている。

 もしかしたらの可能性を思うと、過去を悔やんでしまうこともある。ごめんなさいと繰り返して泣いてしまう夜もある。

 ただどんなに後悔しても、自分の行為をなかったことにはできないし、行為を覚えている人がいる限り影響は連鎖していく。

 わたしは今日も待っている。

 傷つけてしまった彼に、わたしの精一杯のプレゼントをあげられる日を。

 そうすればやっと、彼に借りた鉛筆のような色に、染まることができるのだろう。

 大きすぎるワクワクに身を凍えさせながら、淀んだ色の馴染みきった教室に、わたしは勢いよく踏み込んだ。

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