第163話 《操気術》



 東の空が白みはじめ、やがて山々の輪郭が明らかになっていく。

 それまで影に沈んでいた街――――ノウレジア王国の首都カレジラントも夜の静寂から目覚めようとしており、中ではすでに人々が動き始めていた。


 人々の朝は早い。

 いかに主要な街路に建てられた《魔導灯》と呼ばれる設備があろうとも、市民が自宅で無駄な明かりを使うわけにもいかない。

 この発明により人類圏主要都市を包む夜の闇は部分的に払われ、人々の活動できる時間が拡大したというが、それでも一日の仕事は日のあるうちに済まさなければならないのがほとんどだ。

 それゆえに、日がまだ昇らぬうちから人々は動き出す。


 その様子を、俺は屋敷の裏庭に生える一番高い木の上から眺める。

 朝の冷え切った空気が風に運ばれてきてそっと肌を撫でていった。


「……街が目覚めたな」


 目を凝らすと薄闇の中でも明かりが灯り、人々がにわかに動き出していた。

 遠くから運んできた荷駄を無事に納めることができて安堵の表情を浮かべる商人たち、届けられた各種の荷物を自分たちの店に並べていく者たち、そして彼ら商売人に提供するパンを焼く職人たちや、ひと仕事終えた後に労働者たちが立ち寄るであろう食事処の店員たち――――それらが一斉に自分たちの仕事を開始する。

 もうしばらくすれば、商品を買い求める市民がこの輪へと加わることだろう。


 ひとつの都市を形成するからには、多くの人々の間には生活するだけで目には見えない“糸”があちこちに張り巡らされ、見知らぬ者同士がそれでつながっている。

 無論、この大陸に限ったことでなく、遠く離れた八洲やしまの地でも細部は異なれど同じ光景だった。

 街を活気づかせる彼らと直接的なつながりはなくとも、俺たちとてその糸とは無縁ではいられない。

 それを煩わしいとは思わない。“孤高を気取りたがる病”の歳はとうの昔に過ぎている。

 今はただ平穏な日常が続いていると確信できる光景に安堵を覚えるばかりだ。


「いい景色だ……」


 誰にでもなくつぶやくと同時に、山のいただきから顔を覗かせた巨大な恒陽が眩いばかりの輝きを放ち、目が慣れるまでわずかながら時間を要する。


 もうしばらく先に夏を迎えようとしているから――――いや、冬であっても朝日は夜を駆逐しようと光を惜しみなく発していたか。

 久方ぶりにゆっくりと景色を楽しめたような気分になり、口元に小さな笑みが浮かぶ。


 さて、景色は十分に堪能した。


 そっと身を虚空に躍らせ地面に着地。

 視線の先では、眠っていた草木の葉についた朝露が眩いばかりの陽光を受けて輝いている。

 夜の間に冷やされた空気は、早くも顔を覗かせた太陽によって徐々に温められ、この露たちもそう遠くないうちに空へと戻っていくことだろう。


 次第に青味を増していく空の下で歩を進めると、剣を構えた状態で目を瞑り静止した少女の姿があった。


 女性にしてはかなりの長身を持ち、流れるような長い白金色プラチナブロンドの髪に、優美な曲線を持つ長い鼻梁が白い肌を誇示する顔の中心へと備わっている。今は閉じられて隠れているが、意志の強さを湛えた瞳と相まって強い意志を感じる美貌が存在すると俺は知っている。

 しなやかな曲線を有しながらも鍛え上げられた細身の身体を包むのは、華美にならない程度の装飾が刻まれたミスリル銀の鎧。それも急所だけを最低限隠すことで機動力を発揮するための軽装だった。

 この大陸の騎士が使う籠手ガントレットと比べるとかなり薄手の手甲を着けた両手で握りしめた幅広の両手剣は、刀身に至るまで魔力由来と見られる蒼の輝きを宿しているため遠くからでもひと目で業物とわかる。


 目を瞑っていながら微動だにしない体幹の鍛え方と、それに反するように漂う気品ある立ち振る舞いを見れば、彼女が武人にして高貴な身分に身を連ねているとすぐに気づくことができよう。


 オウレリア大公国の“姫騎士”リーゼロッテ・レヴィア・オウレリアスの身体からは、ほのかに湯気が立ち上っていた。鍛錬を開始する前に命じた走り込みを終え、身体が熱を帯びているためだ。


「わずかだが、呼吸が乱れたぞ」


 投げかけられた言葉に小さく肩が震え、開かれた蒼い瞳がこちらを向く。

 咎められたことでリーゼロッテ――――リズは無意識のうちであろうがバツの悪そうな表情を浮かべていた。


「ユキムラ殿……」


 形の良い唇が小さく動き俺の名を呼ぶ。

 

「周りの状況の変化――――誰がどう動いたか、また新手の有無などは気配でざっくり感じ取れるようになる必要はあるが、それで呼吸が乱れるようでは戦いには使えない」


 暗い中を散々に走り込んで体力と精神力を消耗し、また気が昂った状態で休む暇さえ与えず正反対の訓練を行っているのだ。ちょっとした周囲の気配の変化に敏感になってしまうのは無理もないことだった。

 自分でも割と無茶な要求をしている自覚はあるが、それでも彼女が求める強さを手に入れるためには必要な技術なものだ。


「ましてや全身に“オーラ“を循環させながらともなると、より緻密ちみつな動作を要求される」


 そう口にして、持っていた袋竹刀を放り投げ軽く跳躍。

 爪先――――右足の親指に《オーラ》を流し込み、そこへ固定するようにして。先ほど木の上に立っていた時にやっていたことと同じだ。


「えっ……!?」


 リズの瞳が驚きに見開かれる。


「これも《操気術》のちょっとした応用だ。意味があるかと問われると困るが、これくらいできれば使いこなせていると言えるかな。もちろん、身体の均衡を制御できなければまずすっ転ぶが」


 今現在、リズに課している鍛錬は通常の剣術に類するものではなく、より強化した身体能力によって圧倒的優位を得るための技――――その入り口だった。


 人でありながら人を超えんがため、八洲の武士が編み出した究極にして狂気の産物――――《操気術そうきじゅつ》。


 敵が四方八方から襲いかかり、空からは魔法と矢が降り注ぐ戦場で、自身が戦う術を喪失し、肉体を死が覆い尽くす瞬間まで、強引に傷を塞ぎ、寿命を燃やしてでも敵を駆逐せんと駆け抜ける魂の過剰燃焼オーバーヒート


 幾多の選ばれし猛者がそれを使って戦場を駆け抜け、そして散っていった《死に至るための作法アート・オブ・ウォー》でもある――――などとはいつぞや《眷属ミディアン》との戦いの際に語った言葉だが、実際にはそこまで勿体ぶったものでもなければ、寿命を食い尽くす悪鬼の術でもない。


 八洲ではこの《操気術》を会得して大往生を遂げた侍は、俺が知るだけでもごまんといるのだ。

 類稀なる剣の使い手であり、天下原で騎馬突撃を阻止してくれた柳生宗貞やぎゅうむねさだのジジイもまた、当然のことながら《操気術》など朝飯前であり今でものうのうと生きていやがる。いったいどうやったら殺せるのか不思議なくらいの男だ。

 一方、幾度となく戦場いくさばまみえた上椙憲心うえすぎけんしんは名立たる将家当主の中では割りと早めに死んでいるが、あれは単純に毎晩毎晩味の濃いさかなで尋常じゃない量の酒を飲みすぎて身体が根を上げたせいだ。

 あのおっさんが尾前長舩鉦光びぜんおさふねかねみつ作の 《武俣鉦光たけのまたかねみつ》で召喚した軍神 《毘沙門天びしゃもんてん》を伴って戦場いくさばを暴れ回ったせいでえらい目に遭わされたというのに、なんとも呆気ない死に方をしたものだ。……いや、むしろ人生を駆け抜け続けた武将らしいともいえるかもしれない。


「わたしには難しすぎるよ……」


「そう簡単なものでないのはたしかだが、あの征十郎でも会得できたんだ。リズにできないこともないと思うぞ」


「リズちゃんを元気づける物言いにしても、俺を引き合いに出すなんてひどいなぁ、兄者は」


 そこで新たな声。

 八洲からの古い付き合いとなる剣士、吉丘征十郎よしおかせいじゅうろうが苦笑を浮かべて近付いて来るところだった。


「セイ殿!? まるで気付かなかった……」


 俺は押し殺した気配の接近にも気付いていたが、リズは意識がこちらに向きすぎていたせいでわからなかったようだ。

 だが、公女は何かあれば重要人物として狙われる立場だ。追々はこのあたりも鍛えていかねばならないだろう。


「そりゃ朝の鍛錬をしているって聞いてたからね。俺の気配を掴むのも修行の一環だよ」


 飄々とした態度で征十郎は答えた。

 玲瓏たる剣士はその見た目に反してまるで掴みどころのない性格をしている。おそらくリズのようなまっすぐなタイプはあまり得意としていないはずだ。


 となると……


「よし、リズ。ちょっと征十郎と手合わせをしてみよう」

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魔王殺しの《死に狂い》 さすらいの侍は更なる強者を求め続ける 草薙 刃 @zin-kusangi

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