第6章~夜を統べし者~

第162話 サイレントヴォイス



 夜空に浮かぶ雲の群れは星々の輝きを覆い隠し、地上に漂う闇の濃度を高めていた。


 オレリアント公国の北西部に位置するバルベニア王国。人類圏の西の雄として存在する国家の首都バルタザクトには、国力の象徴たる王城が中心部に聳え立つ。

 北に連なる万年雪を纏ったデキストリアス山脈から流れ込む豊富な水を湛えた堀が白亜の城を囲むように二重に張り巡らされており、これと堅牢な城壁の組み合わせが荘厳な城と街を難攻不落の要塞として作り変えていた。


 はるかな昔、建国王バルトロメウスが強大な魔物の生息地であったこの地を平定、超常の力で魔物を討ち滅ぼすと同時に大河を生み出し、そこへ己の王国を築き上げたと伝えられている。

 歴史というよりは伝説に等しいため真偽のほどは定かではないが、いずれにせよ歴史の中で拡張を続けてきた運河、それに堀と城壁が、バルベニアを魔物と他国から守り続けてきたのは紛れもない事実であった。

 これを凌ぐ都市は、おそらく大陸南部のイルジニス王国にある湾内に築かれた“水の都”と謳われるヴェルティーヌくらいであろう。


 しかし、大陸西部に広く知られたその城は今や不気味なほどに静まり返っていた。

 城だけではない。周辺に広がる街さえもが静けさに包まれている。


 先般、 “黒き森”と呼ばれる巨大な領域で突如として生物災害スタンピードが発生。

 何らかの理由で住処から溢れ出た魔物たちが一斉に東進を開始する事態にまで発展したが、バルベニアはそれにより滅ぼされたわけではない。

 西。王都が被害を受けることはなかったのだ。


 にもかかわらず、バルタザクトは元来の姿のまま、そこに暮らす人の気配だけが限りなく希薄になっていた。

 人々は固く戸口を閉じ、息を潜めるように夜が過ぎ去るのを待ち続けている。


 魔王軍との戦いにより魔物が活性化していることもあり、夜は人間が活動を許された領域ではないが、かといってここまでのものでもなかった。


 がこの街――――国を大きく変えてしまったのだ。




 城の奥深くに作られた謁見の間。人の存在しない広大な空間の最奥に設けられた玉座に腰を下ろしているのは白髪の男だった。

 細面にやや切れ長の瞳と。長い鼻梁が描くのは石膏から削り出した芸術品のような美貌と若さを形成する。その一方、白磁を思わせる肌は美しさを通り越して血の気がまるで感じられない。

 白を基調とした豪奢な服に身を包み、ひじ掛けに乗せた左腕で頬杖をついて老人のように物憂げな表情を浮かべている。

 異様なまでに静まり返った世界の中で、青年とも老人ともつかない彼だけが何事もなく存在していた。


 国王カスパール・ラドゥ・バルベニアではない。

 今ではその存在を知る者も皆無となって久しいが、名をヴィンツェンツ・レヴィアン・クリムゾンという。

 遥か古の時代にこの大陸を支配していた超越者たちの一角、《真祖エルダー》のひとりにして、エミリアの実の兄でもある。


「じつに退屈であるな……」


 所在なさげなつぶやきが漏れる中、青年――――ヴィンツェンツは傍らに置いたサイドテーブルから赤い液体の入ったグラスを取り口元へと運んでいく。

 

「……不味い。弱き者どもの血をいくら飲もうとも、我が渇き、まるで満たされはせぬ」


 口唇を朱く染める男。そこに付着した液体の濃さから、余人が目にすればそれが葡萄酒の類ではないことに気が付くであろう。

 人間の血と葡萄酒ワイン混合液カクテルだった。


「しばらくぶりに目覚めてはみたが……」


 世界はまるで変っていた。

 息吹のひとつで幾多の国を滅ぼしてきた邪竜ザッハーク世界牛ベヒモス、天使を名乗る超生物の脅威もない、じつに退廃した世となっていた。

 気まぐれで因縁のある国をひとつ手中に収めてみたが、それでも渇望が満たされることはない。


「バルトロメウスよ、先に逝けた者は案外幸運であったかもしれぬぞ」


 誰にでもなく漏らし、ヴィンツェンツは赤い液体を飲み干す。


「失礼いたします、マイロード。密かに放っていた《眷属ミディアン》たちが夜魔の秘宝の奪取に成功しました」


 音もなく進み出てきた血の気のない男が無表情のままかしずいて報告の言葉を発する。

 《真祖》の王子の姿勢は依然として変わらぬままであったが、眉が小さく動いていた。


「……そうか、よくやった。生物災害スタンピードの進路を逸らすことで、ノウレジアへ仕向け、それを陽動に使っただけのことはある」


 ほんのわずかに表情を崩して、ヴィンツェンツは身体を預けていた腕を倒し、姿勢を正す。

 前回の失敗により、学園の地下迷宮の警備体制は大幅に強化されていた。


「はっ、光栄に存じ上げます。……しかし、その中で妙な噂を耳にしました」


 普段は余計な言葉など口にしない《眷属》の男が立ち去らずに言葉をつづけた。


「申してみよ」


「生物災害の群れが壊滅したと……」


「弱き者どもの集まりとはいえ、国の全戦力を投入すればさすがにどうにかできよう。もっとも、その後に国のていを維持できるかはわからぬがな」


 配下の言葉に、ヴィンツェンツはすぐに興味を失った。

 その程度の報せでは、彼の枯れ果てたともいえる感情を動かすことはできない。


「いえ、王都の西にある街で食い止められたと。また、飛来した竜と思しき存在も確認されております」


 その言葉に一瞬ヴィンツェンツは表情を硬直させた。


 ――――まさかザッハークが蘇ったとでも言うのか? だが、そうであるならば国ごと滅んでいなければおかしい。魔物の群れを滅ぼした程度でヤツが止まるはずもない。


「“夜魔の秘宝”が届き次第、儀式の準備を急げ。次の満月には確実に執り行う。そして、終わり次第、我らは世界に打って出る。兵たちには準備をさせておけ」


「はっ」


 主の言葉に男は深く首を垂れ、そのまま部屋を出ていく。


「そういえば、派遣した《眷属ミディアン》たち――――シャッテンとシュヴァルツを退けた者がいたな。よもやとは思うが……」


 ふたたびひとりになった空間で、ヴィンツェンツはワイングラスの横に置いてあった羊皮紙へと紅蓮の瞳を向ける。

 そこには“ジュウベエ・ヤギュウ”という文字を筆頭に先日の襲撃事件の顛末が書かれていた。


「はるか東の地より現れた侍を名乗る者か……。なにやら面白そうな存在ではないか」






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