五日目
虹介たちが木暮家を発つ時刻は、十時頃と決めてあった。今日はもう、〈本の部屋〉に行く時間はない。
裕一と律子よりも先に準備を終えた虹介は、ぼんやり庭に出ていた。日ざしを浴びて、ひまわりは今日も咲き誇っている。
ガラス戸を引く音と、軽い足音が耳に届いた。ふりかえると、案の定稚奈だった。
「おはよう、虹介くん」
「おはよう稚奈ちゃん。見送りに来てくれたの?」
稚奈は頷いて、虹介の隣に並んだ。淡い緑のワンピースが、ふんわりと風にふくらむ。風鈴の音が遠くに聞こえた。
虹介は、再びひまわりに視線をやった。稚奈も、つられるようにひまわりを見上げる。
「虹介くん、ひまわりが好きなの?」
「うん」
虹介は晴れやかな声で答えた。
「昔あの部屋で読んだ本にね、ひまわりが出てくる話があったんだ。僕、それがすごく好きで。だからひまわりを見るたびに、その本を思い出すんだ」
「……大事な本なんだね」
「うん。大事な、思い出の本だよ」
虹介は、稚奈にふわりと笑ってみせた。
もう一度ガラス戸の音が聞こえて、二人は同時にふりむいた。律子が部屋の中から呼びかけていた。
「虹介、もう出るわよ」
「わかった」
「じゃあ、そろそろ行くわ」
「忘れ物はない?」
「今度はうちにも遊びにおいで」
「そうね。こっちにも来て」
律子とみつ子、郁哉が話しているのをしり目に、虹介は、旅行かばんをトランクに運びこんだ。すでに別れの挨拶まで済ませた裕一は運転席だ。車はまだ木暮家の駐車スペースに止まっているが、出発まであと僅かだった。
虹介は、玄関の前の道路に佇んでいる、伯父一家と律子、みつ子に加わった。
稚奈は両手でワンピースの裾をにぎって、ぎゅうっと眉を寄せ、虹介を見上げた。
「ほら、虹介くんにさよならしなさい」
由里が、そっと稚奈の背を押す。それから虹介に向きなおって言った。
「虹介くん、稚奈の相手してくれてありがとうね」
虹介はぶんぶんかぶりを振る。
「そんな、こちらこそ楽しかったです。――またね、稚奈ちゃん」
「またね」
稚奈は、ほとんど聞こえないくらいの小声で言った。虹介は明るく微笑んでみせた。
また、あそこで本を読もうね。
稚奈は、笑い返すことはできなかったけれど、くちびるをひき結んで頷いた。
「虹介、もう車に乗って。由里さん、楽しかったわ、ありがとう。今度はぜひ、うちにも来てくださいね」
律子が慌ただしく言った。虹介は、最後にもう一度稚奈に笑いかけると、手を振った。
「ばいばい、稚奈ちゃん」
後部座席に乗りこんで、窓を開ける。律子も助手席に収まると、開いた窓から叫んだ。
「じゃあね! 母さん、ありがとうね」
「またおいで」
外の大人三人は、めいめい手を振った。車が駐車スペースを出る。
虹介は、窓から頭を突き出した。
「ばいばい、虹介くん!」
稚奈が大きく手を振る。虹介も手を振り返した。
「またね、稚奈ちゃん!」
車は角を曲がり、すぐに木暮家は見えなくなった。
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