三日目
翌日も、虹介は稚奈を〈本の部屋〉で待っていた。
ドアに近いほうの肘掛椅子に腰を下ろす。今日は、まだ読んだことのない本を開いた。
大人組は昨日ですっかり意気投合したらしい。今日は少し遠出すると言っていた。虹介と稚奈、みつ子は今日も留守番だ。
昨晩伯父一家が帰るとき、稚奈は別れ際に、虹介に一瞬だけ微笑みかけた。虹介もこっそり笑顔を返した。それは、秘密を共有する者どうしの笑みだった。
大人たちの知らない、〈本の部屋〉の温もり。
しばらくしてから、稚奈が部屋にやってきた。虹介は顔を上げて出迎えた。
「おはよう、稚奈ちゃん」
「おはよう、虹介くん」
稚奈は、昨日虹介が座っていた回転椅子を引きずって、彼とつかず離れずの位置に据えた。場所を変えたのは、そのままだと、机のわきに積まれた雑多な物たちの陰に隠れてしまうからだ。この部屋の中には本の塚以外にも、危なっかしく積まれた塔や城がいくつもある。
稚奈は本を取りに行こうとして、昨日自分が肘掛椅子の上に置きっぱなしにしていた、赤い本に気づいた。本棚に戻そうと拾い上げる。
本棚の前まで歩み寄ってから、稚奈は、手の中の本に目を落とした。ふりむいて読書中の虹介の顔と見比べる。
もう一度赤茶色の本を見つめてから、稚奈は口を開いた。
「ねえ虹介くん」
「ん? なあに?」
虹介は顔を上げて、稚奈を見つめた。稚奈は赤い本を、胸の前に掲げて見せた。
「虹介くんは、これも読んだことある?」
「うん、あるよ。それも好きだな」
稚奈は、少し何か考えた後、訊いた。
「どの場面が好き?」
「そうだな……。あー、あそこ。嵐の夜に、カイたちが暖炉の前にいるシーンあるでしょ? そこんとこかな」
稚奈は、相槌代わりにゆっくりと頷いた。虹介は開きっぱなしにしていたページに指を挟んだまま、本の表紙を閉じた。
「稚奈ちゃんは?」
「わたしは……あの、石を見つけたところ」
虹介はうんうんと頷いた。
「あそこもいいよね。あの石みたいなのが、どこか、僕の近くにも隠されてないかな、なんて」
稚奈もそんな空想をふくらませたのか、ふわっと笑った。
「うん、ちょっと探しに行きたくなっちゃった。……あのね、今虹介くんが読んでるのにはないけど、たまに、こういうの、あるよね」
「えっと、こういうのって……」
唐突な稚奈の言葉の意味を測りかねて、虹介は、自分の手の中の本と、赤い本を見比べた。
この二冊のあいだにある違いは……。
内容のことではないだろう。古さなら、どっこいどっこいだ。大きさは、あちらは上製本でこちらは文庫。あとは――。
虹介は「あ」と呟いた。
「ふせんのこと?」
赤い本に挟まれた、白い紙切れ。
稚奈は頷く。
「うん。わたしね、ふせんがついてる本を、選んで読んでるの」
「へえ! そうなんだ」
虹介は目をまるくした。
まさか、そんなことが起こるなんて。
「このふせんが貼ってあるところって、たいてい大事な場面なの。でも、大事なところぜんぶに貼ってあるわけじゃないし、ちっちゃい場面のこともあって」
稚奈は、そこで一息ついて、すりきれた赤い表紙を見つめた。指先でそっとふせんに触れる。
「読んで、考えてるうちに、思ったの。これは〈白さん〉が、〈白さん〉の好きなところに貼ったのかなって」
虹介は再度驚いて、くりかえした。
「シロさん?」
「この白いの、貼った人」
稚奈は、ちょっと恥ずかしそうに言った。
「そう呼ぶことにしたの」
「そうなんだ」
「うん。でね、読んだあとにもう一回ふせんのとこを開くと、〈白さん〉がどんな場面が好きなのか、わかるでしょ? それで、『どうしてここが好きなのかな』とか、『わたしはここが好きだな』とか、考えるのが好きなの」
「へえ……」
虹介はしみじみと言った。
稚奈は本棚に向きなおると、赤い本を棚の隙間に戻した。その姿を見つめていた虹介は、不意に叫んだ。
「そうだ!」
「え?」
稚奈がびっくりしてふりかえる。
「あの、ちょっと待ってて!」
虹介は、持っていた本を椅子の上に置くと、〈本の部屋〉を飛び出した。
息を切らせて帰ってきた虹介は、手に、緑色のふせんを一束握っていた。
「稚奈ちゃんもさ、好きな本にふせんを貼ってみたら? その――〈白さん〉、みたいに」
稚奈は目をみひらいて、虹介を見つめるばかりだ。虹介は、そんな稚奈に笑いかけた。
「白いふせんが〈白さん〉の足あとになったみたいに、稚奈ちゃんのふせんが、いつか、誰かの道しるべになるかもしれない」
虹介がさし出した緑のふせんを、稚奈はおずおずと受け取った。
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