ひまわりのみた夢
音崎 琳
一日目
小さな庭の一角には、ひまわりが三つ咲いていた。空を見つめる花たちは、いっぱいに日のかけらを受けとめて、まるで、それ自身が光を発しているようだ。そよ風にあおられた風鈴が、網戸越しに澄んだ音を響かせている。
「……へえ、あそこも大変ねえ……」
座が盛り上がってきた頃合いを見計らって、
瀬谷家が、虹介の母方の祖母、みつ子の暮らす
長い間帰省できなかった原因は虹介だ。晴れて高校一年生となったことで、ようやく受験から解放されたのである。
受験から解放されても勉強から解放されるわけではなく、今はもっぱら数式に頭を悩まされている。けれど、お盆休みの間くらい忘れていたって、罰は当たらないだろう。
居間のドアは開け放したまま、玄関の前を通り二階へ続く階段へ。
くたびれた黒い階段に足を掛けると、ぎし、と小さく軋んだ。床と同じ冷たさが心地よい。ぺたぺた階段を上がっていった。
もっとずっと幼い頃は、この階段にも子供心をくすぐられた。ずっとマンション住まいの虹介には、家の中の階段はもの珍しかったのだ。そのうえ、上りはじめてすぐに右へ曲がるので、一階の大人たちの視界から外れることができる。
どうにも口許が緩んでしまうのは、懐かしさのためばかりではなかった。抑えきれない喜びがこみ上げてくる。静かな緊張が、少しずつ鼓動の速さを上げていく。
ああ、やっと、〈本の部屋〉に帰ってこられた。
〈本の部屋〉――それは、彼が密かにつけた名前だ。今はほとんど物置代わりに使われている、亡き祖父、哲哉の部屋のことである。
重要なのは、その部屋には哲哉の蔵書が、そっくり残っているということだった。一口に『蔵書』といっても内容は様々だ。虹介が小学生の頃から親しんでいる物語の本も、何冊もある。めったに人の来ないその部屋でひとり静かに本を読むのが、虹介の、木暮家でのいちばんの楽しみだった。
電気を点けていない二階の廊下はほの暗かった。半開きになった〈本の部屋〉のドアから零れた、やや傾いてきた陽ざしが、床に、くっきりと光の道を刻みつけている。
少し温まった、白いその道を辿って部屋に踏み入った虹介はしかし、そのまま歩みを進めることができなかった。
部屋のいちばん奥、古い大きな肘掛椅子に、一人の少女が収まっていた。
西向きの大きな窓に掛けられた、レースのカーテン越しに射しこむ陽の光が、部屋を金色に染めあげている。少女は椅子の上に、横様に体育座りになっていた。
全身に光を浴びて、一心に、膝の上の本のページに目を落としている。二つに分けて低い位置で括った髪と、文字を追う大きな瞳が、茶色く陽に透けていた。
光に包まれた少女の姿に、虹介は言葉を失った。
一幅の西洋画のような、清らかで完成された光景。
虹介がようやく言葉を絞り出すには、数秒を要した。
「あの……
今この家にいる女の子といえば、伯父夫婦の一人娘である、いとこの稚奈しかいないはずだ。彼女はたしか、小学生だったか。
少女はぱっと顔を上げて、虹介の顔をまじまじと見つめた。黒目がちの大きな瞳が、驚きにみひらかれている。
少女はにわかに本を閉じると、椅子から飛び降りた。白いスカートが軽やかに揺れる。そのまま彼女は、あっという間に虹介のわきをすり抜け、部屋から駆け去ってしまった。虹介は何も言えないまま、少女の後ろ姿を見送った。
しばらくしてから、彼はようやく息をついた。水色のTシャツを着た小さな背中が、目に焼きついている。虹介はそっと苦笑した。
「ピーターラビットみたいだ……」
水色の上着を着た、小さなやんちゃうさぎ。足運びに合わせて揺れる髪も、まるで、野うさぎの耳のようだった。もっとも彼女は、ピーターラビットのようないたずらっ子には見えなかったが。
肘掛椅子には、少女が読んでいた本が残されていた。虹介は近づいて、その本を拾い上げた。
彼も読んだことのあるその本は、この部屋のものに間違いなかった。背の上下は擦り切れ、赤茶色の表紙は色褪せている。虹介は、懐かしさに頬をほころばせながら、ぱらぱらと本のページをめくった。
その本の中ほどには、折れ曲がった白いふせんが貼ってあった。
* * *
ふと手許が暗いことに気づいて、虹介は顔を上げた。金色だった窓の向こうの空は、いつの間にか茜色を通りこし、紫に沈みかけている。庭のひまわりは、名残惜しそうに西を向いたままだ。
虹介は、そのまま稚奈が残していった本を読み返していた。彼は立ち上がって電気を点けた。一、二回瞬いてから、白い人工の光が部屋を浮かび上がらせる。眩しさに、虹介は少し顔をしかめた。
本を椅子の上に置いて、カーテンを閉める。首をめぐらして時計を探そうとして、やめた。この部屋の時計は、たしか、止まっているはずだ。
今は何時だろう。もう夕飯の時間かもしれない。
虹介は慌てて部屋を出ると、階下に降りた。こっそり居間に入る。
居間にいたのは、虹介の父親の裕一と、伯父の郁哉だった。稚奈の姿はない。
座卓の端に、さりげなく腰を下ろす。いま一つ現実に戻りきれていなくて、頭の隅にはまだ、本の世界の切れはしがひっかかっている。
台所では、夕飯の支度が始まっているようだった。みつ子や伯母の由里、母の律子の声、何かを炒める音なんかが聞こえてくる。
由里が、お盆と布巾を持って現れた。
「ご飯の支度、できたわよ」
どうやら、伯父一家もこの家で夕飯を食べていくらしかった。
由里が、座卓の上に残っていた、コップやお茶請けの入っていた皿を、次々とお盆に載せていく。裕一と郁哉もそれを手伝った。
郁哉は由里からお盆を受け取って、台所へ運んでいった。由里が、布巾で座卓の上を拭いていく。
今度は律子が、先ほどのお盆でご飯茶碗を運んできた。郁哉が戻ってきて、再び腰を下ろす。
手伝ったほうがいいかな。でも台所には、お祖母ちゃんも母さんも伯母さんもいるし。
手伝うべきだとは思うのだが、その三人が揃っていれば手を出す余地はない気がして、虹介は落ち着かない気持ちで座っていた。
同じ子供のよしみで稚奈を目で探すと、サラダの大皿を運んでくるところだった。どうやらずっと台所にいたらしい。慌てて立ち上がろうとした虹介に、律子の小言がとんできた。
「ほら、虹介も手伝いなさい!」
やれやれ。
無事に全ての料理を運びおえ、食事の用意が整う。七人ぶんの器を載せた座卓の上はぎゅうぎゅう詰めだった。
味噌汁もご飯も炒めものもかぼちゃの煮つけも、ほかほかと白い湯気を立てている。その湯気と共に、ふんわりと良い匂いが漂ってきて、虹介は、こっそり空っぽのお腹を押さえた。
最後まで立ち働いていたみつ子も腰を下ろしたのを見届けて、律子が真っ先に箸を取った。
「いただきまーす」
律子は、久しぶりに実家に戻って、相当にくつろいだ様子だった。無意識のうちに、心のどこかが昔に返っているのかもしれない。
律子にならって、他の面々も箸を取る。虹介も「いただきます」と手を合わせた。
「明日も晴れるみたいね」
「せっかく四時間もかけて来たんだし、どこか遊びに行くだろう?」
「そうねえ。どこがいいかしら」
大人たちは明日の話をしている。その傍らで虹介は、ぼんやり今日の遭遇を思い返していた。はす向いでは稚奈が、黙々と口を動かしている。その動作はずいぶんとゆっくりだ。
全然顔を上げないなあ、と、何とはなしに眺めていて、虹介はようやく思い出した。
そういえば稚奈ちゃんって、人見知りをする子だったっけ。
だから〈本の部屋〉でも、あっという間にいなくなってしまったのだろう。今ひたすら食事に集中しているのも、よく知らない人間が三人もいるからに違いない。
思い起こせば、郁哉たちがこの家に到着したときも、両親の陰に隠れていると思ったらいつの間にかいなくなっていた。きっと、さっさと〈本の部屋〉に逃げこんだからなのだろう。
彼女の楽園に。
そう思うとじわじわ罪悪感がこみ上げてきて、虹介は口の中のかぼちゃを噛みしめた。怯えたうさぎのような瞳が、瞼の裏によみがえる。
僕があの部屋に入ったとき、あの部屋の主は彼女だった。それなのに。
虹介にとって〈本の部屋〉は大切な安息の地だが、それは稚奈にとっても同じだろう。
虹介は決して、稚奈の邪魔をしたかったわけではなかった。あの場は、一度出直すなり何なり、もう少しやりようがあったはずなのに……。
虹介がため息をこらえた瞬間、声が降ってきた。
「――ね、虹介もそれでいい?」
「え、は、え? ごめん、何?」
虹介は目を白黒させて、右側の二つ隣に座った母の顔を見つめた。
「聞いてなかったの? だから、明日は千鳥湖に行こうって言ってるの。いい?」
「あ、えっと、留守番してるよ。のんびりしたいから」
「そ」
律子は無頓着に答えた。虹介はこっそり安堵する。
「お母さん、虹介置いてっていいかしら」
「もちろんよ」
みつ子は頷いてから、虹介に確認した。
「虹介くん、本当にいいの?」
「うん、なんか疲れちゃったし」
「明日になったら気も変わってるかもしれないしな」
裕一がつけ加える。虹介は二人に曖昧に笑ってみせた。
「そうだ、兄さんたちも来ない?」
律子は、今度は郁哉たちを誘った。
「そうだな、僕はいいけど」
「私も行きたい。稚奈は? どうしたい?」
由里が、自分の右側でもそもそサラダを咀嚼している稚奈に優しく問いかけた。
稚奈は、顔を上げて由里の顔を見つめると、微かに首を傾げた。顔は無表情に近かったが、少し下がった眉で困っているのが見てとれた。
大人たちの間で、どっ笑いが起こる。
「どうした稚奈。今日はずいぶんお澄ましさんだな」
郁哉の言葉に、律子は稚奈に笑いかけた。
「知らない人がいっぱいで、びっくりしてるのよね」
「明日、お母さんや叔母さんたちと一緒に、お出掛けしたい?」
由里がもう一度訊きなおす。稚奈は小さくかぶりを振った。聞き取れないくらいの小声で答える。
「お祖母ちゃんちにいる」
「いいですか、お義母さん」
稚奈が遊びに来るのはいつものことなのだろうか、由里は慣れた様子でみつ子に訊いた。
「ええ。一緒にお留守番してようね、稚奈ちゃん」
みつ子は嬉しそうに目を細めて、稚奈に声をかける。孫娘がかわいくて仕方がないのだろう。
虹介は話の輪の外側で、ひとり確信した。
明日、稚奈ちゃんは〈本の部屋〉に来る。
今日のことを謝るのなら、その絶好の機会を、逃すわけにはいかなかった。
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