二日目
虹介は、ふっと本から顔を上げた。
〈本の部屋〉には、昨日稚奈が座っていたものともう一つ、同じ型の肘掛椅子が、入り口から見て右手の少し奥に置いてある。虹介はその椅子に座って、傍らに積まれた本の塚の、いちばん上にあったものを読んでいた。本の最後のほうには、白いふせんが挟まっている。この本も、読んだことがあるばかりか、大好きな本のうちの一冊だ。
虹介がこの本を初めて読んだのは、小学校を卒業した春だった。虹介はその時のことを思い出して苦笑した。
もともとこの本は、棚の高い位置にあった。それを取ろうとした虹介は、うっかり手を滑らせ、床に落としてしまったのだ。幸い、逆さまに不時着した本は、壊れることはなかった。
虹介はふと耳を澄ませた。小さくしか聞こえないが、階下からの物音で、郁哉たちが来たのがわかった。
虹介は朝食を摂ったあと、まっすぐ〈本の部屋〉に来た。そしてそのまま、せっせと読書に精を出していた。
窓は西側にしかないので、今はレースのカーテンを引き、電気を点けている。虹介はまた時計を確認しようとして、やめた。たぶん九時半くらいだろうと、適当に当たりをつける。
すでに断ってあるし、その場にいない虹介を、わざわざ探しに来たりはしないだろう。虹介は再びページの間に戻っていった。
どのくらい時間が経っただろうか。虹介は再び顔を上げた。
読み終えた本を閉じる。ふわりと、古い紙の香りが届いた。
右手に本をつかんだまま、立ちあがって伸びをする。
不意に直感して、虹介は、開け放たれたドアから廊下に顔を出した。
入口のすぐ左に、稚奈が、膝を抱えてうずくまっていた。自分を見下ろした虹介の顔を、目をみひらいて見つめている。
虹介は、なるべく優しく微笑んだ。
「おはよう、稚奈ちゃん」
稚奈は、虹介の顔をまじまじと見つめつづけるばかりだ。
昨日のように駆け去ってしまわなかったことに力を得て、虹介は言った。
「……部屋の中に、入らない?」
稚奈は、やがてこくりと頷いた。
虹介は、先ほどまで座っていた椅子を通りすぎ、昨日の稚奈の椅子の近くにある、書き物机と対になった回転椅子に腰を下ろした。その後をついてきた稚奈は、昨日と同じ肘掛椅子にちんまりと腰掛ける。
意外にも、先に口を開いたのは稚奈だった。視線は虹介の手の中に注がれている。
「その本、わたしも知ってる」
「あ、うん、そうなの?」
虹介は、持ちっぱなしだったさっきの本を軽く持ち上げた。
「もう読んだ?」
稚奈は小さく頷いた。
「良い本だよね。僕、結構好きなんだ」
稚奈は、しばらく間を置いてから答えた。
「……わたしも」
「そっか」
虹介はにっこり笑った。
「あ、それでね、昨日のことなんだけど」
虹介は、改めて稚奈に向きなおった。稚奈は、何を思ったかうつむいてしまう。虹介は少し焦った。だが、避けて通るわけにはいかない。それこそが、稚奈を待っていた理由なのだから。
「昨日は、いきなり邪魔しちゃってごめんね」
「……わたしも」
先ほどよりも長い間のあとに、稚奈は言った。
「いきなり逃げて、ごめんなさい」
「いいよ、気にしないで――おあいこってことで、さ」
それを聞いた稚奈は、ようやく、微かに笑った。柔らかな頬に、えくぼができる。小さな野の花のようだった。
「僕、よくこの部屋で本を読むんだけど、稚奈ちゃんもそうなの?」
稚奈はこくりと頷いた。茶色がかった二つ結びが揺れる。
「そっか。あのさ、僕がお祖母ちゃんちにいる間、僕もここで本を読んでていいかな?」
「うん」
稚奈は、今度は声に出して答えた。
稚奈は、虹介が昨日肘掛椅子の上に戻しておいた、読みかけの本を手に取った。それを見て、虹介は手の中の本を机に置くと、新たな本を取るために立ち上がった。
「稚奈ちゃーん、虹介くーん! お昼よー! 二階にいるの?」
みつ子の声が、〈本の部屋〉まで聞こえてきた。
回転椅子の上で、虹介は慌てて本を閉じた。隣の稚奈も、肘掛椅子の上に本を置く。
「お昼ごはんだって。行こっか」
虹介の言葉に稚奈が頷き、二人は連れ立って部屋を出た。
稚奈の歩みに合わせてゆっくり階段を下りながら、虹介は言った。
「また、一緒にあそこで本を読もうね」
「うん」
それが、少し変わっていて心地よい、不思議な時間のはじまりだった。
* * *
「虹介くん」
虹介は、はっと顔を上げた。いきなり名前を呼ばれたので、少し驚いていた。
「お母さんたち、帰ってきたみたい」
稚奈は、虹介の前に立って言った。あの赤い本はもう読み終えたらしい。
虹介は耳を澄ませた。下が賑やかになっているのが聞こえてくる。
「みたいだね。行こう」
虹介は、読んでいた本を机に載せて立ち上がった。今度は稚奈の先導で部屋を出る。
黒い階段を一段ずつ、確かめるように下りていく。一歩ずつ、夢から現実へ戻るように。
温かい空気に浸りながら言葉を辿るのが、こんなに満ち足りた、幸せなことだなんて。
さえぎられるのが嫌で、本はひとりで読むのが習慣だった。でも、こんな風になら、誰かと一緒なのもいいかもしれない。こうやって穏やかに、お互いを感じるような感じないような距離でなら。
稚奈はふりかえって虹介を見上げて、昼前の彼と同じ言葉をくりかえした。
「また、一緒にあそこで本読もうね」
ひょっとしたら稚奈も、虹介と同じことを思ったのかもしれなかった。そうだといいな、と、虹介は思った。
だから自分も、昼前の稚奈と同じ言葉をくりかえした。
「うん」
日だまりの色をした小さな秘密が、二人を結びつけていた。
心の中に咲いた、小さなひまわりの花のように。
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