3
湯を沸かした鍋にボウルを浮かべ、その中に生クリームを100ml入れて湯煎で温める。
温まったら、ダーク、ミルク、ホワイトの板チョコを一枚ずつ砕いて入れ、ゴムヘラで優しく混ぜる。色の違うチョコレートがゆっくり溶けて混ざり合っていく。
去年も、おととしも、あたしは蓮太朗にチョコレートを渡した。
蓮太朗はいつも恥ずかしそうに「ありがとう」と言って照れる。
そしてホワイトデーには可愛く包装されたマシュマロを必ずくれる。
でも、今年のバレンタインデーは今までとは違う。蓮太朗に彼女が出来たからだ。
中学校ではそれほど目立っていなかった蓮太朗が高校に入ってから急にモテだした。
髪を茶色く染めて、声が低くなって、いつの間にか見上げるほど背が高くなっていた。
中学校であたしが好きになった地味で目立たない宇井っちは、高校ではみんなに蓮太朗と呼ばれる華やかな雰囲気の別人になった。
だから私も宇井っちと呼ぶのをやめた。でも好きでいることはやめられなかった。
あたしも変わりたいと思った。
宇井っちが変わったように。
それであたしはダイエットをした。12キロやせた。つらかったけど頑張れた。
蓮太朗が好きなアニメのキャラクターを真似て髪型を変え、眼鏡もかけた。
高校ではクラスは同じにならなかった。お互い部活にも入っていないから会うことがほとんど無い。
だから余計に会えたとき嬉しい。遠くからでもすぐに蓮太朗を見つけられる。見つけて、目で追う。蓮太朗が髪をかきあげる仕草や友達と笑い合う顔や低くなった声を聞くだけで心が満たされた。
他に男子がたくさんいるのに、どうして蓮太朗じゃないとダメなんだろう。
蓮太朗の彼女の斉木絵梨花は、校内でも有名な美人で、中学生の時に振った男子の人数が二桁だと噂で聞いた。
同性のあたしからみても斉木さんは可愛くて、魅力的だ。
あんな風に可愛くて、モテる女の子から見た景色はどんなだろう。蓮太朗と手を繋いで帰る道は、あたしが一人で帰る道とはどんな風に違って見えるんだろう。
斉木さんと蓮太朗は二人でいると絵になる。
悔しいけれど、お似合いなのだ。
でもあたしが蓮太朗と並んで歩く可能性はゼロじゃない。人の気持ちは変わるものだし、努力次第で運命だって変えられるとあたしは信じている。蓮太朗と両想いになれるなら何だってする。今思い付く限りのことは実際してきた。あとはもう、神頼みしかない。おまじないとか魔法とか。
そうだ。
あたしは思い付く。
すっかり溶けて液状になったチョコのボウルから手を離す。
包丁が目に入るけどそれは怖い。
壁に貼ったカレンダーの画鋲が目に入りこれだとひらめく。
刺さっていた金色の画鋲を抜く。カレンダーがばさりと床に落ちたけど気にせずに放置する。
針の先をキッチンペーパーでこすり、左手の薬指の腹に画鋲の針先をあてる。
「うぅ」思わず声が出る。
深呼吸してから画鋲を押さえつけ、一気に力を込める。
「痛っ!」
薬指の腹に赤が見える。
小さい赤が玉のように膨らむ。
チョコを溶かしたボウルに薬指をかざす。
指に貼りついたまま赤い玉は垂れない。
血の出た薬指の根元を締め付けると赤い玉が膨らむのが少し速くなる。
指の色が変わるくらい締め付けても、あたしの血は指から落ちない。最終行程でココアを振りかけるのに使うため出しておいたティースプーンに擦り付けるようにして、なんとか微量の血液を採取することができた。
冷めて周りが固まりはじめたボウルの中のチョコにスプーンを沈める。
あたしの血はチョコに混ざって見えなくなる。
ティッシュで傷ついた薬指を押さえる。
血はすぐに収まり、皮膚に空いた穴がどこかわからなくなる。
あたしは唱える。呪文みたいに。
蓮太朗があたしを好きになりますように。あたしと蓮太朗が両想いになりますように。
魔法をかけたチョコをボウルから型に流し込む。トントンとテーブルに軽く打ち付けて空気を抜く。ふわりとラップをかぶせ、冷蔵庫に入れる。
固まるまで待って冷蔵庫から取り出す。
包丁で格子状に切る。一度切るごとに熱湯に包丁をつけて温め、濡れた布巾で拭いてから切ると包丁にチョコが付かず綺麗に切れる。
ダイス型になったチョコに小さなふるいでココアパウダーを振りかける。綺麗な形のチョコを八つ選んで箱に納める。
チョコの包装をほどく蓮太朗を想像しながら丁寧に包む。メッセージカードは入れない。直接言うって決めてる。
赤いリボンで口を結び、そこに花の飾りをつける。箱にちょうど良いサイズの小さな紙袋にチョコを入れる。
受け取ってくれるだろうか。ふと不安になる。
彼女がいる人にチョコを渡すのは反則なんだろうか。彼女がいるのに他の女の子からチョコを受けとるのは?
付き合ったことがないからその辺のルールがわからない。
もしかしたらあたしがチョコをあげると蓮太朗が困るかもしれない。
だからあたしは斉木さんに伝えることにした。
それで斉木さんにダメって言われたらどうしよう。あたしはそれでも渡したいのだと引き下がらずに言おう。蓮太朗に渡せますように。紙袋に念を込める。
バレンタインデーの昼休み、斉木さんと同じクラスの女子に居場所を訊いた。「知らない」と言われて次々に訊いて回った。六人目の女子が「北校舎の階段を登っていくところを見た」と教えてくれた。
昼休みの終わりが近づいていた。あたしは焦った。
走って北校舎の階段を登った。上から降りてくる斉木さんが見えた。
「斉木さん!」
斉木さんは怯えた表情であたしを見た。あたしは歩を緩めゆっくり階段を登り、斉木さんの立っている場所より数段下で止まった。
「あたし、宇井くんに、チョコレート渡すから」
蓮太朗と呼べば良かった。斉木さんに遠慮してしまった。
「だからなに」
斉木さんは怒った顔で言った。でも、許されたと思った。
「斉木さんには言っておこうと思って」
斉木さんの背後に人影が見えた。階段の踊り場の陰に頭が二つあった。男子だった。
あたしは後ろに隠れている男子にあたしたちの会話が聞こえていればいいと思った。
蓮太朗のことが好きだと、斉木さんと付き合っていても好きなのだと、大きな声で言おうと思った。
みんなにあたしの気持ちが知れ渡ればいい。
けれど斉木さんはあたしが次の言葉を言う前に「好きにすれば」と言って走り去ってしまった。
あたしがそこで立ち尽くしていると、踊り場のほうから堪えきれずに漏れたような笑い声が聞こえた。
「何してんの」あたしが言うと笑い声はピタリと止まった。
放課後、蓮太朗を探した。斉木さんと一緒には帰っていなかった。
蓮太朗が他の男子二人と一緒に校門を出ていくところを二階の窓から見つけた。
あたしはまた走った。校門を出て、蓮太朗がいつも帰る道を追った。
でも思っていた方向に蓮太朗たちはいなかった。
引き返して門を過ぎ、反対の方角へ走った。見つからなかったらどうしよう。泣きそうになる。神さま、神さま、お願いします。他になんにも望まない。蓮太朗に、このチョコを、渡せるだけでいいのです。お願い、お願い。
大通りに出る手前の路地で、立ち止まって話し込んでいる蓮太朗たちを見つけた。叫びたいくらい嬉しかった。
彼らがすぐには動かない様子なので息を整えた。
カバンから紙袋を出し、お願いします、と優しく撫でた。
「マジで!?」と蓮太朗と一緒にいる男子の声が聞こえた。もうあたしは蓮太朗のもとへ少しずつ歩み始めていた。「ヤバいじゃん」ともう一人の男子が言って振り向いて、目が合った。
三人とも、暗い顔でこちらを見た。
「あ」蓮太朗が言う。
「蓮太朗……」
あたしが言うと、蓮太朗以外の二人が察して離れる。
「先行ってるわ、蓮太朗、あとで」そう言って男子が電話するジェスチャーをする。
「わりぃ」と蓮太朗は二人に手を降る。
蓮太朗があたしに向きなおす。
あたしは顔をあげ蓮太朗を見た。
「これ」
紙袋を差し出すと、蓮太朗は顔を歪めて「んぁぁ」と唸った。
そして、少し考えてから「ごめん……」と小さく言った。
やっぱり。とあたしは思った。だからあたしは言った。引き下がる訳にはいかないのだ。
「斉木さんには許可とったから」
「へ」
「蓮太朗にチョコをあげてもいいって、斉木さんの許可をとった」
蓮太朗は怪訝な顔で「あいつなんて?」と言う。
「いいよって、好きにすればって」
蓮太朗はあたしを見てるのに、その向こうに微かにチラついた斉木さんを探すような目をしていた。
「だから受け取って欲しい」
蓮太朗は黙ったままあたしが持っている紙袋を見た。迷っているのだと思った。
「受け取るだけでいいから。お返しとかいらないから!」
お願い、神さま。
「もらってくれるだけでいいから。食べなくてもいいし」
お願い、お願い。
「捨てても……いいから」
もう蓮太朗の顔も見れなくなって、うつむいてあたしは言う。
本当は捨てて欲しくなんかない。食べて欲しい。神さま、お願い。
「言わないでくれる?」蓮太朗は言った。
「みんなに黙っててくれる?」
あたしは顔を上げうなずく。
「斉木にも、あいつらにも、お前が俺にこれ渡しにきたことバレちゃってるから、渡そうとしたけど受け取らなかった……ってことにしてくれる?」
「わかった。受け取ってもらえなかったことにする。絶対言わない」あたしは答える。
「お前からこれもらったこと、お前と俺だけの秘密な」
「うん。約束する」
蓮太朗が紙袋に手を伸ばし、チョコであたしと蓮太朗が繋がった瞬間に言う。
「好きなの。蓮太朗のこと、ずっと」
チョコはすっかり蓮太朗の手に渡り、あたしから離れた。
蓮太朗は紙袋の底に手を添え、両手で大切そうに持つ。
「知ってる」と優しく頬笑む蓮太朗は、もう地味で目立たないあの頃の宇井っちではなかった。
「そうだよね」
あたしたちは見つめ合って笑った。蓮太朗もきっと、去年とおととしのバレンタインデーを思い出しているのだと思った。こんなふうに、あたしが蓮太朗に「好き」と伝えて渡した手作りのチョコレート。
「ありがとう」
あたしが言うと、蓮太朗は「大事に食べるわ」と言って紙袋を少し持ち上げる。
背中を向けて歩き出す蓮太朗を、あたしはいつまでも見送った。
一人の帰り道、ずっとにやけた顔が収まらなかった。
あたしと蓮太朗は秘密を持ったのだ。
二人にしか知り得ない秘密を。
あたしがチョコにかけた魔法は、二人だけの秘密になったことで効果が強くなるに違いない。
思ってもみなかったご褒美を神さまがくれたのだ。
家に着き、誰もいないリビングで制服のまま考えた。
どうしてあたしは蓮太朗が好きなんだろう。
例えば誰かに蓮太朗を好きな理由を聞かれたら、あたしは答えるだろう。カッコいいとか、優しいとか、そういうことを。けれどそれは仕方なく当てはめた言葉で、蓮太朗を好きになるのに本当は理由なんかなかった。
頭や心で考えた感情なんかじゃなく、もっと何か神秘的な力が働いているとしか思えない。
その証拠に、あたしはあたしが蓮太朗を好きでいることをやめられない。他のどんなことも我慢できるのに、蓮太朗を好きな気持ちだけは、自分ではどうすることも出来ない。
家族が順番に帰ってきて、いつものように夕御飯を食べた。父親には買ってきた義理チョコを渡した。喜んでいたけどそんなことどうでもよかった。
お風呂の順番を待つ間、ソファーでクッションを抱えて「お前と俺だけの秘密な」と何度も言ってみた。蓮太朗は、何をしているかな。そればかり気になった。
ああ神さま、どうかあたしの魔法が効きますように。
すぐにじゃなくてもいいから、蓮太朗が、あたしを好きになりますように。
今頃蓮太朗は、ピンクの紙袋から取り出しているだろう。箱をいろんな角度からながめ、意を決したようにテーブルに置き、小さな花の飾りを取り、赤いリボンをほどく。
ベージュとゴールドの包装紙をはがし、箱を開けると甘い香りがする。
そして、蓮太朗は口に運ぶ。
あたしという成分が入った、チョコレートを。
了
チョコレート 楓 双葉 @kaede_futaba
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