氷の根

 青いターバンをなびかせた人馬の群れが、大平原を駆け抜ける。夜の匂いが溶けた風を起こして、白馬のたてがみと、それを囲んだ怪しい光が重なり合い、星空が吐き出した息吹のように白く濁った。


 夜明けが近づく頃、周りには緑の草原があった。大平原の中で、そこだけ先に春が来たように草が群れていて、緑の色が一番濃いあたりには泉が湧き、星明かりを映して白く輝く。



 来たよ、来たよ。ここがいい。

 ここで暮らそう。次の春までここにいよう。



 日の光が届き始めるのと同時に、白馬の群れを囲んでいた「お狐様」は泡が弾けるように膨らんで霧のごとく散った。


 やがて、迎えに戻った男に導かれて、女たちが追いついてくる。小さく畳まれた天幕が再び広げられて家になり、家は一つ増え、二つ増え、真ん中の空き地に円い柵ができ、羊が群れる。夜のあいだ駆け続けた白馬は繋がれ、日が暮れる前に見たのと同じ景観が仕上がった。





 ミレイの目には、包帯が巻かれた。手当てをした婆は、唇に笑みを浮かべて繰り返した。


「お狐様は慈悲深い。すぐに治るよ」


 腫れて赤黒くなった目元が布で覆われていく間、ハーンは息を飲んで見守った。誰もいなくなったらミレイに声をかけようと、時が過ぎるのをじっと待つが、それは叶わない。


「客人、ちょっと」


 声をかけたのは、ミレイの手当てをした婆だ。天幕の外へ出ろと合図をしている。


 年のわりに背の高い女で、もとは色白だったのか、頬はそばかすだらけだ。ゼキの妻や娘と同じく宝石をふんだんに使った衣装に身を包み、白くなった髪を覆う深紅の頭巾も、魚のうろこのように連なる金の円板で輝いていた。


「客人に言いたいことがある。横恋慕はやめておきなさい」


「横恋慕?」


「ミレイのことだよ。あの子に惚れても無駄だよ。あの子は一年後、族長の妻になる娘だ」


「族長?」


「ゼキだよ」


「ゼキって――」


 息を飲んだ。


「なんで――。あの人、奥さんも娘もいるじゃないかよ」


「それがどうした。客人には相容れなくても、どんな一族も、古くからそこにある習わしに沿って生きているものだよ」


 婆はため息をついて見せ、こう話した。


 そもそも、ミレイは囀り娘で、囀り娘になった時に、お狐様に捧げられた身だ。

 あの子の唯一の友はお狐様で、あの子の今の夫もお狐様だ。いいかい、あの子はお狐様の持ち物だ。

 さえずり娘は、二十はたちになったらお役目を終える。族長の妻となるのは、神に捧げた娘が人の世に戻ってくるのを大事に迎え入れるからだ。旅の神のおさがりを、一族で一番の男が受け取るからだ。


「悪いことはいわない。あの子を思うなら、去りなさい。ここはおまえさんには合わないようだし、どうせおまえさんは、あの子に何もできない」


「でも――」


 婆は笑った。


「諦めなさい、客人。お役目に就いているあいだ、囀り娘はお狐様のためだけに生き、関わりをもつのもまたお狐様だけだ。お狐様から離れゆくのは、おのれを否定することになる。おまえさんはあの子に、『おまえの苦労も、人生も、すべて無駄だった』と言いたいのかい」


「でも」


 それは、おまえ達のせいじゃないか。歌以外の言葉を教えず、話そうともせず、同じ場所に生きているのにいないもののように扱い、狐だかなんだか知らないが、あの妙なものにすがるしかないほど、あの子を追いつめるから――。


 文句が喉元までつきのぼるが、まっすぐにこちらを向く婆と目を合わせているうちに、消え失せた。


「囀り娘は一族の生き神だ。務め上げた娘は、役目を解かれた後は、誰よりも豊かに幸せに過ごすのだよ。――私もそうだった」

 




 ここを出ることにした。故郷を探して旅に出るよ。ゼキにそう言うと、寂しがった。


「そうか。残念だが、旅人は風の使いだ。遠きかたから来て、遠き方に去りゆくものだ。おまえに風の加護があるように」


 本当は、まだ立ち去る気にはならなかった。けれど、「出ていく」と口に出して言わないといけないような、心のけじめがつかない気がして、それも選択肢の一つだと、自分に言い聞かせた。


(そうだ。どうせ俺は何もできない。ここを出たほうがいい)


 ミレイのことは心残りだった。十日たらずの間にすっかり虜になって、囀り娘というものがなにやら胡散臭いと感じればなおさら、そこから救い出したかった。


 大移動から五日が経ったが、ミレイの目にはまだ包帯がある。目が使えないミレイは天幕の中にこもっていて、前は大平原に聞かせるようだった歌声も、つぶやくようにかすかにしか聞こえない。


 その歌声も、ハーンがそばに行くとやんだ。


「ミレイ――」


 天幕の入り口にかかった毛織の布を押し上げて中に入ると、目を布で覆ったままのミレイがはっと振り向き、背中を丸めて小さくなった。


「去って。来ないで、去って」


「――お別れを言いにきたんだ。ここを出ることになったから」


「ここを?」


「ああ。旅に出ようと思う」


「いなくなるの?」


「ああ、いなくなる」


 ミレイの声が細くなる。目元が包帯で覆われていて無表情すら見えないが、ハーンは密かにほっとした。


「少しは寂しがってくれるかな。俺は、きみと離れるのが寂しいよ。前にきみに言ったことは本気だから。俺はきみのことが好きになったんだ。きみは綺麗で、可愛くて――」


 どうか、あの夜のことを思い出して。あの時、目を合わせた時に何かが伝わったと、俺は思ったんだ。


 すがるようにそばに寄って膝をつき、ミレイの手を取る。指は細くて、柔らかい。愛らしい――と、握ろうとするが、跳ねのけられる。


「触るな。おまえがそばに来ると歌が零れ落ちていく。邪魔だ。近づくな」


 ミレイの声が震えた。包帯の向こうで泣いているようだった。


「おまえの近くにいるのは耐えられない。おまえなんか嫌いだ。おまえの顔も、指の……あぁ、消えない、あの時のあの、気味の悪い感じも早く忘れたいのに……今も……おまえがわたしに触るから」


 虫を振り払うように、ミレイは白い指を乱暴に振った。


 でも、声は泣いている。文句を言いながら、ミレイは寂しがっていた。それがわかると、ハーンも泣きたくなった。


「どうしてそんなことを言うんだよ。俺はきみに恋したんだ。好きになった。これまで出会ったどの女よりも最高の女だと思ったんだ。きみも――」


「わたしは恋など知らない。一生覚えなくていい。そんなものを覚えたら歌い方を忘れてしまう」


 ミレイの喋り方は喚くようだった。拒絶の言葉だったが、ハーンの胸に響くのは裏腹の言葉だ。



 おまえといると楽しい。これまで、誰かからそんな風にされたことはなかった。

 楽しかった。おまえと一緒にいるのが好きだった。



「じゃあ、なんでそんなに苦しそうに言うんだよ」


 ハーンの声も震えた。ミレイは、伝わってくる想いと真逆の言葉を口にしている。身構えるように背中を丸めているが、その向こうで何かをこらえている。時おり震える華奢な背中を目で追い続けるうちに、ハーンは決意した。


(決めた。この子を攫う)


 丸まった背中に手のひらを置いて、耳元に唇を寄せる。


「なあ、ミレイ。一緒に行こう。俺と一緒にここを出よう」


 ミレイの喉が、慟哭をこらえる風に強く震えた。でも、返事はない。


「聞こえただろう? 俺と一緒に行こう。昼間、みんなが出払ってるうちにこっそり出てしまえばいい。行こう、ミレイ。俺と行こう――」


 早口になる。ミレイの声は震えた。


「行けない。わたしが歌わなかったら、お狐様が迷う。みんなも迷う」


「どうにかなる。きみがいなければ狐も連中もべつの方法を探すよ。――連中のことなんかどうでもいいだろう。連中のために、きみはどうなるんだよ。一緒に行こう」


 ひっくと喉が鳴る。ミレイの顔が上がり、ハーンを向いた。包帯の奥で泣いているようだった。


「わたしが歌わなかったら、お狐様が迷う。わたしは歌い続けてきたんだ。歌うのが嫌いでもない。それなのに――おまえが突然やって来て、わたしを歌えなくするからだ」


 ミレイの手がハーンの胸を突く。離れろとばかりに突き飛ばした。


「そばに寄るな。その目で見るな。おまえがいるとおまえのことばかり気になって、歌が遠のくんだ。ほら――話し言葉に慣れてる。わたしには歌以外要らないのに、喋るのがうまくなってる。――どこかへ行って。触らないで」


 言葉で平手打ちを食らい続ける気分で、意識が朦朧とした。


「嘘だ、だって――」


 ミレイが心にもないことを言っているとしか思えなかった。本心は違うのに、これまで自分が務め上げてきた役目が果たせなくなるのを怖がって、うそぶいているとしか。


 思い切って、小さな身体を抱きしめた。ミレイの身体の小ささや細さ、柔らかさを身体で確かめた。抱きしめても、ミレイはじっとしていた。むしろ、力が抜けていく。身体を預けられていく。


 ほら、きみだって――。やっぱりさっきの言葉は嘘じゃないか。


「ミレイ――」


 耳元で囁いて、もっと包み込もうと腕に力を込める。すると、我に返ったようにミレイの身体がびくりと跳ねて、めちゃくちゃに突き飛ばされた。


「離れろ、触るな。次に歌えなくなったら、目だけじゃなくて、腕も脚も胴もちぎって口だけにしてもらう。だから、去れ」


 それから、もうミレイは話をしなくなった。包帯が巻かれた目は別の場所を向いて、口は歌い続ける。


 わたしはここを動けない。ここにしかいられない。おまえのことなど、もう二度と見ない。おまえなど知らない。


 歌いながら、開きかけた心を閉ざしていくようだった。





 立ち止まることができなかった。


 ミレイのそばを離れてすぐにゼキのもとへ行って、水と食料を分けてもらう。もともと荷物などない。すぐに旅立つことにした。


 「水場はたぶんあっちの方角だから」と聞いたが、どうでもよかった。少しでも早くここを去りたかった。


 居住区を出て、日が暮れて、空が青黒くなった頃だ。一つ、また一つと、白い光が後ろから追いかけてくる。見間違いか、光虫か。はじめは気にしなかったが、足をとめた。暗がりの草原を歩き続けるハーンの足元につきまとう光があった。小さな獣くらいの大きさで、脚のような突起があり、虚空を歩くようにちょこちょこと動かしている。顔と尻尾らしき形の突起もある。振り返れば、自分がたどってきた足跡の上には、後を追うように同じ形をした光の群れが伸びていた。


 足を止めると、追いついた光から順にぞろぞろとハーンを囲む輪を作る。虚空を歩く光だ。小さな輪っかが仕上がると、その上に、そのまた上にと重なっていき、光の壁を成していく。海の中を群れで泳ぐ魚のようだった。


「なんだ、追いかけてきたのか。見送りか?」


 お狐様と呼ばれる奇妙な光だった。「狐」と呼ばれはしているが、目も鼻も口もないし、鳴くこともない。威嚇するでもなく、尻尾を振るでもなく、光は静かにハーンを囲んでいった。


 やれやれ。土の上に腰を下ろした。


「もしかして、嫉妬したのか。おまえらの嫁を俺が口説いたから」


 言いながら、少し気が済んだ。相手が得体の知れない奇妙な光だろうが、「俺の女に手を出すな」と責められるほうが、無視されるよりもいい。攫わせてくれと抱きしめた記憶をなかったことにされるよりは、ずっとだ。


 光の群れが作る壁はどんどん高くなり、地べたにしゃがみ込んだハーンを見下ろした。目はないが、数百とも数千ともつかないそいつらの真ん中で、一つ一つから見られていた。ミレイの無表情のように、そいつらには感情がある。ハーンは苦笑した。


「なんだよ、憐れんでるのか。あぁ、そうだよ。俺はふられたんだ。ミレイはさ、おまえらと一緒にいるのがいいんだってさ」


 自分を嗤うついでに馬鹿にされてやったが、「お狐様」の気配が「可哀そうに」とハーンを慰めるように変わるので、舌打ちをした。


「勝ち誇ってやがる――いやな奴。ふざけんな」


 地面に寝転がる。すでに日は落ち、天は暗くなり、星が瞬いている。でもいま、ハーンの周りには狐に似た形の光が数百数千と集まってできた光の壁がある。真下から見上げると、なかなか壮観な眺めだが、光が強すぎて星は一つたりとも見えない。


「で、何しに来たんだよ。あぁそうだよ、俺はへこたれてるよ。おまえらの嫁に横恋慕したが、顔も見たくない、近寄るなって追い払われちまった。なんだよ、恋敵がむなしくしょげてるところを覗きに来たのか? どうだ、満足か」


 けらけらと笑う。すると、光の壁が小さく閃いた。


「――え?」


 聞き返した。何かを聞いた気がして、耳を澄ます。気も尖らせた。すると、なんとなく胸に響く問いがあった。「お狐様」は、尋ねていた。



『こっちにくるか。おまえも混ざるか?』



 ハーンは黙った。長い無言の後で、問い返した。


「なんだ、おまえら、俺を食いにきたのか?」


 光の壁を作る「お狐様」は、今度は何も言わない。光をちらつかせることもなく、光の壁で囲んでハーンを見下ろす。光の壁が明るいものだから、その奥に見えるはずの星空が、やはり見えない。


 そうか、そうか――。と、うなずくごとに、から笑いが漏れる。けらけらと笑い続けた。


「あぁ、思い出した。狐追いの民っていうのは、あの世とこの世の境を行き来してるんだっけ。たしか、この世のどこよりも先に春が来る場所を探して旅をする幻の一族だとか。幻なのは、その一族を見た奴も、どんな暮らしをしているか知っている奴も誰一人いないからだ」


 「昔々、あるところに」と、幼い頃に母親が寝床で聞かせた物語が蘇る。


 ハーンは、土に肘をついた。頬杖をついて寝転んで、光を見上げた。さっきよりも、壁の口の部分が狭くなっている。いまや「壁」ではなく「壺」だ。内側に何かを留め置く「壺」、何かを閉じ込める「壺」。


「誰も知らないのは、迷い込んだ奴が誰一人帰って来ないからかな? おまえら、いつもこういうことをしてるのか? 迷い込んだ奴は生きて返さないの?」


 ひでえな。と、腹が立っていたかもしれない。でも、ハーンはどうでも良くて、笑い続けた。


「狐追いの民っていうのは、おまえらみたいな化け物と仲良く暮らしてる一族、なのかな? 知らねえけど」


 訊いたものの、どうでも良かった。


「いいよ。おまえに食われておまえに混じったら、あの子の夫になれるんだろ。――見るのも嫌だ、どこかへ行けって、こっぴどくふられてさ、怒る気にもならないんだ」


 恋した娘を助けたいと願ったが、おまえに何がわかると追いやられたばかりで、抗う気力も今はない。


 ミレイは来年、囀り娘の役を解かれて、ゼキに嫁ぐのだと婆が言っていた。それなら――。両腕と両足を伸ばして、真上の光を見上げる。さあ食えと、睨んだ。


「おまえに混じったら、あと一年はあの子のそばにいられるんだろう? なら、俺を食っていいよ」


 もし、本当にこの光に混ざることができたなら――。ミレイは、この光に混じった俺に気づいてくれるだろうか。無表情の奥のミレイの心に俺が気づいたように、気づいてくれるだろうか。そうだといい。「おまえを忘れるためなら、目など要らない。次に歌を忘れたら口だけにしてもらう」と言ったミレイに競り勝てるくらい、きみのそばにいたいと願ったと、伝わればいい。


 本当に、きみのことが好きになったんだ――。


 光の壁は、もう「壺」でもなかった。入り口は重なり合って塞がり、逃げ場になりそうな隙間はない。光の壁は崩れてよじれ、ハーンの身体を覆い尽くすように光が降りてきた。まるで、獲物の肉をむさぼるようだ。


 光は、冷たかった。肌に触れるとひんやりするが、その冷たさが、やがて肌の隙間のあちこちから身体の中枢へ向かって染み込んでくる。まるで、土に根を張るようだ。氷のように冷たい細いものが、身体の奥深くへと入り込んでくる――それがありありとわかる。


「ぐ……」


 唸り声が出た気がするが、それもわからなくなる。菌糸のように細く長く伸びた光が肉体を貫いて、さらに奥へ入り込めと蠢いている。冷たい、動けない、苦しい、怖いと思ったが、それもわからなくなる。


 もう声も出ない。身体の感覚もなく、動きたいとも思えない。


 あぁ、これは死ぬな。


 そう思ったあたりで、意識が遠のいた。冷たい。消える。身体が消えていく。俺も消えていく。消えた――その後は、もう覚えていない。






「大丈夫か、兄ちゃん」


 身体が消えた。当たり前だ、お狐様とかいう光に喰われたから。


 光がまぶしい。それはそうだ。獣が死肉にたかるように、光に包まれたから。


 指先が冷たい。あぁ、あの光が氷のように冷たかったからだ。身体中が冷たい。


「目が開いた。大丈夫か、兄ちゃん」


 声が聞こえる。声? と、耳を澄ませてみる。


 すると、光しかないと思っていた光の中に、男の顔が見えた。それも、いくつもいくつも。心配げに覗きこむ男の輪が、真上にできていた。輪の奥には、青いものも見える。ゼキのターバン……そう思ったが、違う。青空だった。


「俺は――」


「目が覚めたかい、兄ちゃん。大丈夫か」


 水音が聞こえる。川のせせらぎの音――ハーンは河原に寝転んでいた。渓谷の手前で、高い崖が背後に見える。川が運んだ小石の上に寝転んでいて、遠くに茶色の地平線が見える。大平原だ。


「身体が冷たい――」


「水浸しだもんなぁ。よく生きてたなぁ、サンジャ川を流されたのか」


「俺は、谷に落ちて――狐追いの民に助けられて――」


「狐追いの民?」


 目の前にいる男が笑った。


「春を追って春風と移動するっていうあやかしの風の民か。あぁ、うちの一族の爺さんが、その一族の末裔らしいぞ。なんでも、その一族が百年前にこのへんを通ったとかでさ」


 伝説だよ。誰も信じちゃいねえけどな。と、隣にいた男も笑う。 


「百年前?」


 そうだ――。狐追いの民といえば、どこにいるとも知れない幻の民で、「五年前にここにいたらしい」「三十年前にここを通ったらしい」「我が村の長老は百年前にここを通った狐追いの民の末裔らしい」と、伝説ばかりはあちこちに残るが、どんな姿をしてどんな暮らしをしているのかは、誰も知らない。


 もう何がなんだかわからない。


「夢かな」


 これまでのことが夢だったのか。それとも、光に喰われて死んだ後に見ている夢なのか。それとも、谷底に落ちた時にすでに死んでいて、激流に流された後のことがすべて――今も、夢なのか。


「まあ待て。族長を呼んでくる」


 やってきた族長という男は、ゼキではなかった。身なりも違う。でも、似たようなことを言った。


「さあ、我が里へおいで。まずは手当てをしよう。旅人ははるか遠きかたから吹き込む風の使いで、一族をあげてもてなすのが我が一族の作法なのだ。あなたが礼をしたいというなら、あなたが次に旅人に出会った時に、その方へなさればいい」


 身体には、あちこちに打ち身と傷があった。激流を流されるうちに岩場に身体を打ち付けたようで――なら、川に流されたところまでは現実なのか。


「大丈夫か、兄ちゃん」


 歩くのを助けてもらいながら居住区へ案内されると、よろよろと歩くハーンをじっと見つめる娘がいた。色白の肌をしていて、丸顔で、濃いきりりとした眉の下に大粒の黒の瞳があって――。


 ハーンも、じっと見つめ返した。


「あの子……」


「あぁ、挨拶もせずに突っ立って、無礼ですまんな。口がきけない子なんだよ。生まれた時から、朝晩の挨拶と、飯の挨拶しかできない」


 働くは働くんだがね。三代前からずっとらしいから、呪いか、あやかしに悪さをされたんだ。気を悪くしないでくれ。


 肩を貸す男が聞かせる話は、ほとんど耳に入ってこなかった。その娘を見つめる目が優しく細まっていく。


「喋れなくても話はできるんだろう? それに、歌なら歌えるかもしれない」


 これは、現実なのか。夢なのか。光に喰われてから百年後の世界なのか。そもそも俺は、初めから死んでいるのか。正しいことはわからない。けれど、ハーンがあの光に身を差し出したのは、恋に落ちた娘に「きみのそばにいたい」と伝えたかったからだ。それが叶うなら死んでもいいと願ったからだ。その、恋をした娘と同じ顔をした娘が、今、目の前にいた。


 狐は人を化かすというけれど、俺も化かされているのかな。――まあいい。死ぬほど誰かに惚れたのだけは間違いない。


 熱に浮かれるように微笑んで、ミレイにそっくりな顔をした娘へ話しかけた。


「なあ、この歌知ってる? ええと……」


 ミレイの歌声を思い出してみるが、そういえば、ミレイが歌っていたのは、狐という恋敵のためだった。そう思えば、思い出すのも癪になる。


「まあ、いいか。知らなくて。はじめまして。俺、ハーンっていいます」


 娘は無表情をしていた。けれど、やがて、唇の端にじんわりと力が入る。夜に咲く大ぶりな花びらが開いていくように、娘は笑った。



                                       ....end

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銀色狐が飛ぶ晩に 円堂 豆子 @end55

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