狐の舞

「風?」


 言われれば、少し風が強くなった気がする。でも、雨の匂いもしないし、寒くもない。


「風がどうしたんだよ。そんなに驚くこと――」


「はじまる」


「なあ、ミレイ。返事は? 俺は愛を囁いたつもりだったんだけど」


 せっついても、絡めていた指は勢いよく離れていき、手ごとぱしんと振り払われてしまった。


「邪魔」


 胸が押しやられる。ミレイは、ハーンを衝立か何かの置物のように押しのけて、立ち上がる。人が変わったようで、ハーンのことなど見えないとばかりに背を向けて、炎に向かう。


 遠ざかっていく娘の後ろ姿に、ハーンは肩を落とした。振り払われた手のひらにも目をやった。



 なんでだよ、突然。いい雰囲気だったのに。

 さっきの、なかったことにされるのか? 真剣だったのに。

 嘘だ。すげえかわいかったよ。

 俺は、好きになったよ――。



 拗ねていたが、呆けていたのはハーンだけだ。


 ミレイは歌い出していた。歌声を聞きつけた連中も、慌ただしく動きはじめた。


「天幕をたため。羊の柵を抜け。急げ」


 ミレイが歌う歌は、いつもと違った。高い音を歌ったと思えば、すぐに低い音へ移る。まるで急襲を告げるラッパだ。


 そういえば、ミレイは祭りのあいだは歌おうとしなかった。祭りに遠慮していたのかもしれないが、今は、ミレイは歌で祭りを終わらせた。


 さすがは旅をして暮らす一族で、住居だった天幕が布と柱の棒にばらばらにされていくのも、持ち運びしやすいように包まれていくのも、あっという間だ。人と羊が暮らした場所はまたたくまに草原へと姿を戻していく。


「ハーン、おまえも来い。男は先に行く。馬には乗れるか」


 力仕事を終えた男達は、それ以上の片付けを女に任せて、白馬にまたがっている。


「荷物は――」


 白馬は揃って身軽だ。天幕や鍋や食器や、家財道具はまだ女達がまとめているのに、男がまたがる白馬は荷をひとつすら付けていない。


「女が運ぶ。重いと遅くなる」


 重い物を乗せれば馬は速く走れないし、疲れやすくなる。でも。


「そんなに急いでどこへ――」


「風が――」


 もはやハーンを気にかける者はいない。揃って後方を振り返って固唾を飲む。後方は、東。祭りは夜遅くに始まったので、もうじき朝が来るはずだ。夜天を見上げれば、日が暮れた後よりよほど空が澄んでいる。星も月も動いて、雲はなく、西の果てへ向かった大きな満月が青白い光を降らせている。月光を浴びた白馬の群れは青みを帯び、彼方まで続く草原では、途方もない数の砂粒がほのかな影をまとった。


 ミレイの歌声が響いている。月光を纏うような歌声は、子守歌のように変わっていた。



 おいで、おいで。友よ。夜の原に出ておいで。

 我も行く。おまえを追いかけて、風になる。



 白馬に乗るのは男ばかりなのに、ミレイは馬にまたがっていた。ゼキの馬に一緒に乗り、ゼキの胸に華奢な背中を預けて歌い続ける。


「来る、来る――」


 後方を見つめる爺の声が高ぶる。ハーンも振り返った。いったい何が来るのか。


(夜明けを待ってるのか?)


 東の方角なら。でも、違った。びゅん、と風が吹く。生暖かい風だ。


「来た」


 男達が手綱を握りしめる。ひん、と馬のいななきも揃った。


「来るぞ。行け」


 ゼキの足が馬の腹を蹴る。タン、と跳ね音が鳴り、三十頭近い馬の駆け音が続いた。


 先頭を駆けるゼキは、背後をしきりに振り返っている。後ろから吹いてくる風を見ているのか。しかし、違った。


 後ろから、風が追ってくる。生暖かい春風のような空気の塊で、月光を固めたような白い色をしている。いや、そうではない――何か――生き物の群れだ。


 後ろから、風のように夜を駆ける何かの群れが迫ってくる。月光のようにうっすら光りながら、怒涛のごとく草原を駆ける白馬の群れを追いかけ、ぐんぐんと距離を狭めてくる。



 おいで、おいで。友よ。夜の海に出ておいで。

 我も行く。おまえを追いかけて、風になる。

 


 ミレイの歌声は、駆け音とは別の次元で優しく響く。歌声に吸い寄せられるように、後ろから来た不思議な生き物の群れは白馬を囲んだ。


(狐――?)


 生き物は狐に似ていた。おそらくは「お狐様」と呼ばれていた奴だ。とはいえ、大きさや形が狐に似ているだけで、狐どころか、動物でもない。光り輝く不思議な光の群れで、小さな獣の形をした霊魂か何か。「狐」の群れは地面ではなく虚空を駆けていて、上下に重なり、月光の色の壁を作っていた。白馬の群れは、不思議な生き物が作る壁で囲われると速さを揃え、ミレイは、その真ん中で歌い続けた。



 おいで、おいで。友よ。夜の原に出ておいで。

 我も行く。おまえを追いかけて、風になる。


 先に見えるは黒き山。山の壁は衝立のよう。

 黒の山は滝だらけ。黒い滝は水無しで、白い滝は一つだけ。

 西へ向かって十番目。黒い滝を十個過ぎても、白い滝は一つだけ。



 素早く駆けているのに、狐の群れはほとんど音を立てない。ミレイの歌声に聞き入るようで、ミレイの歌に合わせて速さを増したり、落としたり。草原を駆けながら虚空で踊るようだった。


 しばらくして、気づいた。目の前に黒い影になった山が見えていた。山肌には黒い線模様が上下についている。滝の跡だ。雨が降った時だけあらわれる滝の跡が岩肌に残っていて、狐の群れに囲まれた白馬の群れは、そのそばを駆け抜けた。



 白い滝は、白いだけ。四年で枯れて、つまらない。

 美味しい水が欲しいなら、黒い山はつまらない。

 赤い山まで待つといい。千年枯れない、美味しい泉。



(なんだこの歌、道案内?)


 ミレイの歌は、水の在りかや道順を知らせていた。「黒山の横を右回り。黒い滝のそばを右回り」と歌えば、狐の群れも白馬の群れも右に大きく旋回して岩場を回る。「草の上を、まっしぐら。つまらなくても、まっしぐら」と歌えば、まっすぐに駆け続ける。


(そうだ、道案内だ。――狐が、笑ってやがる)


 狐と呼ばれるものは、小さな白い光の塊で、目も鼻も口もない。顔や尻尾のようなものがあり、手足に似た細長い突起を動かして虚空を走っている。三十頭の馬の群れをすっぽり覆い隠す大群を成し、数は、数百、数千か。それが、揃ってミレイを向いていた。目はないのに、見ていた。


 ミレイは、ゼキが操る白馬にまたがって唇を大きく開けている。真顔をしているが、気分良さそうに喉をひらいて歌声を響かせる。


(生き神――)


 妙な光の大群を歌声で従えるミレイは、たしかに人には見えず、精霊や何かに見える。でも、それが悔しい。手が、まだミレイの肌の柔らかさを覚えていたからだ。


(こっちを見ないかな)


 ミレイは目を閉じ、光の群れのために歌い続ける。唇の端がほんのり上がっているのに気づくと、嫉妬した。


(あの子の笑顔は俺だけが見たと思ったのに)


 ミレイが自分以外の誰かに笑ったのが悔しい。その相手が奇妙な光の群れでもだ。


(一瞬でいい、こっちを見て。俺もここにいるんだからさ。なあ)


 歌声の美しさに聞き惚れて、人ではない精霊のように月光を浴びる白い頬に見入るたびに、白い光に腹が立つ。恋敵のようにも感じた。


(ミレイ――)


 願い続けたのが叶ったのか。一度、ミレイは視線に気づいたふうに目をあけた。不思議なものの在りかを探すように、さっと振り返る。目の先には、ハーンがいた。


 白馬にまたがって歌うミレイは、月光を浴びて夜を飛ぶ女神のようだ。美しい、可愛い娘だと思っていたが、今は神々しくもある。その娘が自分を向いて、目が合った。それだけで、胸が高ぶった。


 ミレイの歌声が止まった。時が止まったように歌の節が立ち消えて、白馬の駆け音だけが残る。歌っていた時のまま、ミレイは唇を大きく開けていたが、青ざめた。ハーンを見つめた目が、恐ろしいものを見たようにこわばっていく。


 ゼキ達も顔色を変えた。


「歌が止まった」


 駆け音がばらつく。動揺したのは人と馬だけではなかった。目がないはずの光の群れも、こぞってミレイを向いた。数千の光がミレイを凝視する。白馬の上で、ミレイの顔は蒼白になった。


「歌を……忘れた……歌が出てこない」


 細い身体がしなる。目に涙が浮かんだその時、ミレイの目はハーンを向いていた。「おまえのせいだ」と言いたげに怯えて、猛っていた。


 どどっ、どどっと、馬の駆け音が所在なさげに響き続ける。駆け音は少し小さくなった。どこへ進めばいいのだと、人も馬も光も目配せをし合っている。


 ミレイの頬を、涙が伝った。


「ごめん」


 ミレイが語りかけた相手は、光の群れだ。ミレイを凝視していた光は、今はいたわるようにミレイを囲んだ。


 光はミレイに優しかった。「どうした。大丈夫か」と、聞こえない声で話しかけるようだった。しかし、ある時。ハーンはぞっとなった。周りを囲んで青白い壁を成す妙な「狐」から、一斉に睨まれた。


『ミレイから歌を奪ったのは、おまえか?』


 嫉妬だった。さっき光の群れを相手にハーンがしたのと同じものだ。得体の知れないものから睨まれた恐怖で心臓が貫かれたと感じ、馬にまたがっていることすら忘れた。責められた一瞬が永遠にも感じた。


「違う、わたしが忘れた。ごめん」


 ミレイが首を横に振る。ハーンを庇うようだった。その後、ミレイの目はもうハーンを見なくなった。


「お願い。目をつぶして。歌を忘れたのはあの男が目に入るからだ。何も見えなくして」


 息を飲んだ。待て、なんの話だ。声を出したいが、出ていかないし、身体にも力が入らない。身体が消えたようだった。


 ミレイの嘆願を、光は了承した。


『いまだけだよ』


 ちかっと、光の壁が閃いた。そうかと思えば、顔のようだった突起が矢のように尖って、ミレイの顔に伸びた。光の先が向かったのは、ミレイの目元。虚空を横に滑る稲妻のようにミレイの目に光が集まると、ミレイは悲鳴を上げた。


 痛みをこらえるような悲鳴だった。光の隙間から、血しぶきがあがる。矢のように尖っていた光が狐の形に戻った時、ミレイの白い頬には血の涙が流れていた。



 おいで、おいで。友よ。夜の原に出ておいで。

 我も行く。おまえを追いかけて、風になる。



 歌声が戻った。光の壁の気配も戻った。けれど、白馬を駆けさせる男達の顔は一様に苦くなる。男達は一言も発しなかった。血の涙を流して歌い続ける娘に黙祷を捧げるように、じっと無言になった。


 ハーンは、何も考えられなかった。目から血を流して歌い続けるミレイを見るのも、馬を駆けさせ続けるのも、何もかもが、目に入るたびに胃の腑から吐き気がこみ上げてたまらない。いま、何が起きた。俺は何をした。あの子はどうなった――。夢だ、これは夢だ。夢じゃないなら、落馬して、踏みつぶされろ。その子じゃなくて俺を襲え。俺を襲え――。喉を震わせながら、無言で泣いた。

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