囁き祭

 ハーンが狐追いの民のもとで世話になってから十日ほど経った頃、夜になっても天幕に入らず、野外で星を眺める男が増えた。


 そういう男は日に日に増えて、とうとうある晩、一族のすべての男が夜空を見上げた。


「まもなくだな」


 男達は、夜空の星を指の囲いから覗いたり、星と星の離れ具合に指の関節を合わせたり、しきりに何かを数えている。


「占星ですか」


「ああ、星占いさ」


 ハーンに答えた爺は、目を細めて頭上から目を離さなかった。


「仕方ない。明日にしよう」


 ゼキがそういった途端、ため息が漏れる。良かったとも、落胆ともつかないため息で、うつむくのは若い青年ばかり。その父親や爺あたりの年の男は笑っていた。


「明日、なにが起きるんですか」


「囁き祭だ。その後で大きなことが起きるかもしれんから、先に片付けなければならなくなった」


「囁き祭?」


 聞き慣れない名前の祭りだが、翌日になってみてわかった。囁き祭というのは、結婚式だ。


 年頃の娘と青年が十人ほど集落の真ん中に集まって、歌い踊る。楽器を奏で、手拍子をうって、我こそが一番の器量よしであると、求婚者を募る。


 蓄えてあった薪をすべて使い切るように贅沢に火が焚かれて、その周りに、爺達が奏でるウードやカマンチェの音色が重なった。


 ゼキは、ハーンのことも誘った。


「妻が欲しければおまえも来なさい。私の娘は一族の宝なので、旅人のおまえに欲しがられるのは少し困るが、おまえがどうしてもと言って、娘がうんと言えば……」


「いえいえいえ」


 親切はありがたいが、妻にするなら、好みくらいあるというものだ。


 ゼキの娘にもほかの娘にも、こういっては失礼かもしれないが、どうも食指が動かない。あの美しい娘なら話は別だが――と、耳を澄ませてみるが、その晩にかぎって、いつも響いていた歌声が聞こえない。


 あの子はどこにいった。


 若者達の晴れ姿に手拍子をうって囃し立てる男連中、料理をふるまう女達に、羊特有の甘い脂の香り。羊肉を噛み千切り、唇を脂でぎらつかせながら、みんな笑っている。一族の連中すべてが炎の周りに集っているはずだが、一人一人の顔を追ってみても、あの娘はいない。


 火明かりに背を向けて、羊の柵囲いに沿って歩いていると、ようやく見つけた。その娘は、土に腰を下ろしてぼんやりと膝を抱えている。ここに迷い込んでから、その娘はいつもその顔をしていた。そばに誰かが来てもろくに目も合わせず、笑いもしない。


 土を踏んで、ほんの小さな砂粒がこすれる音を鳴らせば、娘はゆっくり目を上げた。でも、「あぁこの男か」とばかりに、すぐにもとの姿勢に戻る。そばに来たのが誰でもいいし、誰が来ようが、誰も来なかろうがどうでもいい――そんなふうだ。


(人形みたいな子だな)


 歌声は人を惹きつけてやまないのに。ひとたび唇を閉じれば、その娘は人にすら見えなかった。土産屋で壁にかかった可憐な細工物のようだった。


「あの――きみ、ミレイっていうんだろ」


 娘の名は、ミレイ。それはゼキから聞いていた。


「隣、座ってもいい?」


 一応尋ねてみるが、娘は無反応。瞳も動かさない。ハーンは笑った。


「座るよ?」


 ミレイという名のその娘は、ほとんど飾りを身に着けていない。頭のてっぺんから足の先まで宝飾まみれに飾られたゼキの娘とは真逆で、ミレイの身を飾るものといえば、胸元に丸い金飾りを連ねた魚の鱗に似た宝飾模様だけだ。


「あの――俺がきみのところに来たのはさ――」


 ミレイを探したのは、祭りに馴染みきれずに居心地が悪かったせいもあった。けれど。


 ベルトにくくった革袋に指を突っ込んで、袋の底から小さなものを取り出す。


「これ、やるよ。母親の形見なんだ」


 手の上に載せて差し出したのは、小さな金輪。外側に少し削れた部分があって、そこを爪で掻いて、ミレイに見せた。


「これ、うちの紋章なんだ。大方のものをゼキと交換しちまったからさ、もうこれしか渡せるものがなくてさ」


 ミレイの視線が、手の上に落ちる。けれど、表情は変わらない。無表情のまま見下ろして、同じ顔のままハーンを見上げた。


「――そんな顔すんなよ。喜んでくれると思ったんだけど……」


 「なぜそんな真似をするのだ」と真顔に責められた気がして、思わず口をついて出る。


「あ、贈り物ってわけじゃなくて、まあ、金になるからさ」


 ミレイの無表情は変わらない。眉根をついと寄せて、唇を開いた。


「どうして、これをくれる」


「どうして? そりゃ、助かったから」


「――なにが」


「なにが? その、歌声がきれいだったから。俺はさ、じっとしてるのが苦手なんだ。それなのに、三日も四日もじっと寝てられたのはきみの歌が聞こえたからだ。おかげで傷が治った。ずっと聞き続けて、きみの歌声の虜にもなった。だから、その礼だ」


 ミレイはしばらく黙って、そっと地面を指でさした。


「わかった。もらってやる。そこに置いていけ」


「いや、だからね。これさ、俺の母親の形見なんだよね。地面に置くとかさ、罰当たりなことをさ――」


 ミレイは表情を変えない。でも、月光に照らされた娘の目が、なんとなく困惑しているようにハーンは感じた。


「――うまく伝わってないのかな? 俺もよくわからないんだけど――わかった――いや、わからないんだけど。とりあえず、つけてやるよ。指を出して」


 手のひらを差し出すと、ミレイは眉をひそめて、恐る恐るというふうに手のひらを宙に浮かせた。


 白い肌だった。日に焼けた自分の肌の色とくらべると、ミレイの手は、肌に映し込んだ闇の色までが澄んで見える。宙に浮いた指先を、指で支える。肌が柔らかくて驚いたが、なんでもないふりをして、うつむいた。


「きみ、指が細いからなぁ。親指がいいかなぁ」


 形見の指輪がはまりそうな指を探しながら抜き差しをして、ちょうど良さそうな指にはめてやる。そのあいだ、ミレイはずっと金の指輪を目で追っていた。親指の付け根に金色の輪っかがはまると、顔の正面まで指を掲げて、しげしげと眺めた。


「どう? 悪くないだろ」


 尋ねるが、返事はない。でも、ミレイはまばたきを忘れたふうに目を丸くして、じっと見つめてくる。ハーンは吹き出した。


「なに、その顔。――わかった、嬉しいんだよな」


 言葉も表情もなかったけれど、無表情の向こう側でミレイがかすかに笑った気がして、笑いがとまらない。ハーンも嬉しかった。


 だんだん、ミレイのことがわかってきた。ミレイは無口だし、表情を変えることもないが、感情がないわけではない。親指の指輪が気に入ったようで、何度となく指を目の高さに上げたし、なにかいいたそうにハーンを見つめることもあった。でも、言葉になることはない。


 ハーンは、それでいいと思った。


 言葉を交わさなくても、ミレイのそばにいるのが心地良かった。


 賑やかな笑い声が、闇に滲んで伝ってくる。ぱちぱちと夜を焦がす炎の周りで、たった今誰かが大声をあげたとか、笑いが起きたとか、だいたいの気配は伝わってくるが、なにを喋っているのかまでは聞こえない。ハーンとミレイが並んで腰を下ろしたあたりは祭りの場から離れていて、居住地の中で、そこだけが祭りの喧騒から切り離されていた。


「どうしてここにいるんだ。祭りに出ないのか」


 爺たちの手で奏でられる楽曲は、神聖な儀式が似合う荘厳な調べに変わっていた。ゼキらしい背の高い男の影のそばに、娘の影も見える。相手が決まったのだろうか。


「今日って、結婚式なんだろう。きみの相手はいないの?」


 ミレイも、十八か、十九か。年頃の娘だ。ほかの娘のように、男から求婚されてもいいだろうに。


 ミレイは目を丸くする。無表情だが「なぜそんなことを訊く」と驚かれた気がしたので、笑う。


「好きな男はいないのか」


「――」


「恋はしないの?」


 ミレイは首を傾げた。


「わたしは恋をしない」


「どうして」


「歌を、たくさん覚えるから、ほかのことを覚えない」


「――歌を?」


 ぎこちなく、こくりとミレイはうなずいた。


「歌のほかは、言葉を知らない」


「――いま、俺と話してるじゃないか」


 ミレイの唇が歪んだ。顎を小さく横に振った。


「少しだけわかる。でも、歌のほかの言葉を知らない」


「知らない?」


「誰も、わたしに言葉を教えないから。おはようと、いただきます、おやすみしか習わなかった。それしか、みんな話さない。わたしには」


 ミレイは、「囀り娘だから。わたしは人じゃないから」と付け加えた。


「親も、家族もない。どこかからつれてこられたって。囀り娘になるために」


「――それって」


 炎の周りで結婚を祝う連中の笑い声を聞きつける耳や目が、恐ろしいものを覗いた風にこわばった。


「どこかから攫われてきたってこと?」


 ミレイの顔を覗きこんで、息を飲んだ。ゼキ達とミレイの肌の色は、少し違っていた。ゼキ達はよく日に焼けたような濃い肌をしていたが、ミレイの肌は白い。顔立ちも、言われてみれば系統が違う。


「さらわれ? その言葉は、知らない」


「知らないって――」


 舌打ちが出た。もし本当にそうなら、他所から攫ってきた子供に「おまえは攫われてきた」などと教えないだろう。――囀り娘。生き神。誰もこの娘に言葉を教えない。誰も話さない。これまでどこかで聞いたことを胸で繰り返すごとに、怒りが湧いた。


「あいつらがきみを人扱いしないってこと? きみだけには何も話しかけないで一人にしておくってこと?」


「囀り娘だから。わたしは歌のほかは言葉を話さないし、みんなもわたしには何もしない」


 ミレイの唇の端に、じんわりと力が入る。夜に咲く大ぶりな花びらが開いていくように、ゆっくり笑った。


「だから、話すのがへた。はじめて、たくさん話した、こんなに」


 




 聞こえてくる音楽が変わる。風も砂も舞い上げるような曲調に変わって、合いの手も揃い始めた。荘厳な儀式が終わって、宴に移るのかもしれない。


 でも、今のハーンには、軽快な旋律は悪目立ちする子供の足音に聞こえた。意地悪で、皮肉屋で、笑顔を浮かべて飛び跳ねながら、誰かを見下して嗤っている嫌な子ども。


「そうか、だからきみはここに――一人で」


 ため息をついた。


 だから、誰もミレイの話をしないのだ。同じ一族のはずなのに、いない者のように扱われて、祭りだというのにこうして端っこでうずくまっているのだ。


 ミレイの目の先に、宴の喧騒があった。手を繋いだ若い男女の姿が、火明かりの手前で影になって跳ねている。


「うらやましい?」


 尋ねてしばらく経ってから、ミレイが顔を上げた。「私に訊いたの?」といいたげな真顔をして、首を横に振った。


 うらやましくない。そう言っているのだろうか。


「踊りたいなら、俺、きみと踊るよ?」


「――踊れない」


 ミレイの目が丸くなる。ハーンは苦笑した。


「俺もあの踊りはわかんないよ。でも、どうにかなるだろ」


 手をとろうとしたが、ミレイは逃げるように細腕を引く。夜闇の中に浮き上がる白い顔の、凛とした黒目がじっと見つめてくる。ミレイの目は綺麗だった。月夜によく似合う美しい顔だと、ハーンは見惚れた。


「俺は、わかんないな。どうしてあいつらはきみみたいな子を放っておくのかな」


 ミレイの眉根が狭まって、首が傾げられる。「意味がわからない」とでも言いたげだが、ハーンは笑うのを止められなかった。


 十八か、九か、年相応の落ち着いた容貌かおをしているくせに、幼子のように首を傾げる仕草が可愛い。四日四晩聞き続けた歌声のように、ミレイの顔も、凛とした黒目も、飽きることなく見ていたかった。


「きみのほうが、ほかの娘よりずっときれいだよ。俺好みだ。俺だったらきみに求婚するけどなぁ」


「求婚?」


「そうだよ、求婚。俺の妻になってくださいってお願いするってこと」


「妻?」


「それもわからない? どういえばいいのかなぁ。なんていうか、ずっと俺だけのそばにいて、俺だけの女になってくださいって――こう、頼みこむというか……」


「――」


 ミレイはぽかんとしてしばらく黙った。


 わからないらしい。なら、この話はよそう。


「なんでもない。あの――」


 話を変えようとしたところだ。ミレイの顔が、真っ赤に火照った。唇の端に力が入って、懸命に真顔を保とうとする。慌てふためいたように眉が歪んで、涙目になった。悲しいとかつらいとかではなくて、恥ずかしそうで、今にも逃げ出しそうな真顔で首を小刻みに横に振る。


 いやだ、むりだ、いやだ、と、焦った声が聞こえてくるようで、何度も何度もミレイは首を振った。でも、目は、ハーンを見上げたまま逸れない。


「あの、ちょっと、待って。そんな反応されたら、俺も照れる。照れます――」


 口説かれたのが本当に嫌なら、どうか目を逸らしてくれと胸で願うが、ミレイの目は逸れなかった。じっと見上げてくる大粒の瞳にとりつかれていくようで、見つめ合うほど、この目が欲しい、もっと近くに行きたい――と、気が逸る。知らずのうちに、膝頭が土を掻いていた。ミレイのそばに寄ろうとした。


「あの」


 軽快な音楽は続いている。揃いの足さばきで火の回りを跳ねる影に合わせて、上機嫌な笑い声も途絶えない。


(そのまま、そっちでやってろ。こっちを向くな)


 今いいところだ。邪魔をするな――と、身体の芯が緊張で高ぶっていく。


 ミレイの顔は影を縫われたかのように上を向いていて、二人の視線は糸で繋がったように合わさったまま。目を逸らさないで、このまま。もっと来い――と、視線で捕まえるように、ミレイの黒目の奥を見つめた。


 近づいた手が、ミレイの指に触れていた。ミレイの膝の上でぎこちなくかたまっていた手をとって両手で包み込んだが、触れた瞬間に肌が騒いだ。ミレイの肌は柔らかくて、かさついた自分の肌とくらべると、精霊の手のようだ。


「なあ。誰かと手を繋いだこと、ある?」


 ミレイは首を横に振った。


「手を繋ぐってわかる? 手と手を合わせてさ、指と指をさ、こう――」


 ミレイの指の隙間に、自分の指を絡めていく。まずい、やりすぎだ――と、我に返るものの、人差し指、中指――と、互いの隙間を埋めるように一本ずつ絡めると、気が遠くなる。綺麗だ。俺好みの可愛い子だと、それしか考えられなくなった。


「なあ。誰かと、こうやってくっついたこと、ある?」


 ぶんぶんと、ミレイは首を横に振った。頬がさっきより赤らんでいるし、目も少し潤んでいた。


 怖いのかな。嫌なのかな。――どうか、違うと言ってくれ。拝むような想いも湧いた。


「なあ。誰かから、俺のためだけに生きてくださいって頼まれたことは、ある?」


 指を絡めて繋いだミレイの手を、ぎゅっと握った。


 駄目だ、もうやめておけ。自分を止めようとする男と、今のうちだと囃し立てる男が喧嘩を始めた。


 せめて、もう少し。頬や髪に触れたい。唇とは言わない。抱きしめるのもまだ早い。でも、もう少しだけ近づきたい。せめて、言葉だけでも――。


「いま俺が、きみにしてるんだよ。今日が恋の祭りなら、俺も誰かに恋をしていいんだよな。なら、俺は、きみを――」


 好きです。好きになりました。


 祈るように唇を動かした、その時のこと。


 ミレイの顎が、はっと上がった。


「風が吹いた。お狐様――」

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