銀色狐が飛ぶ晩に

円堂 豆子

囀り娘

 あんな馬鹿の命令をきけるかと、昨日のうちに逃げればよかった。


 追い詰めたはずの異国軍に挟み討ちにされるなどと考えもせず、伏兵の存在に気づかずに谷川の吊り橋を渡るなど。


 戦で一番恐ろしいのは、敵軍ではなく、味方の愚かな上官だ。谷底を流れる冷たい川に流されながら、ハーンが考えたことは、そればかりだ。


 あいつの阿保面あほうづらをぶん殴ってやる。あいつの命令通りにして死んだ戦友の分まで、鼻の骨がえぐれるまでぶん殴ってやる。


 だから、そいつの顔をずっと殴っていたはずだった。そいつの顔に穴が開いて、噴出孔から吹きあがる熱湯のように血が吹きあがっても、ハーンは殴る手をやめなかった。昨日までの戦闘で五十人死んだ。敵兵に切られた吊り橋から落ちた戦友は、五十人。逃げ場を失えばそこで殺されるか捕虜になるしかないが、そういう奴らを足せば、二百五十人。全員分まとめてそいつを殺してやると、ずっと殴り続けていた。


 突然、腕が動かなくなる。


「待ちなさい、落ち着いて」


 でも、周りには何もない。あるのは、殴り過ぎて顔面が陥没した死体だけだ。闇しかない。でも、身体は動かない。「やめろ、止めろ」という声も、どこかから聞こえる。誰もいないのに、耳の真横で囁かれるようだった。



 ここは、どこだ。



 意識が戻ってまず感じたのは、なめし革の匂いだった。甘ったるいくせに、優しいのか気味悪いのかが曖昧な獣の皮膚の匂い。人の汗の匂いもした。押さえつけてくる男の腕がいくつもあって、上から押さえ込もうとする男の腹もすぐそばにあった。


 ここは――。


 声を出そうとしたが、出ない。声の出し方を忘れたように、息が出なかった。震えも止まらない。目の裏に、血まみれの男の死に顔が張り付いていた。


 殴り過ぎてえぐれた上官の顔――。違う、あれは夢だ。あんなふうに、粘土のように人の顔が凹むなんてありえない。あれは夢だった。落ち着け、落ち着け――。


 たしか、吊り橋から落ちたのだ。岩だらけの激流に飲み込まれて、何度も身体を岩にぶち当てた――よく、生きていた。


 あれは夢だ、助かった、生き延びた――そう思えば思うほど、怒りの火が弱まっていく。いくら憎いからといって、顔に穴があくほど他人を殴ってもまだ殴り足りなかった夢の中の己が恐ろしいとも感じた。人を殺すのは嫌だと、戦場で思い知ったのに――。だんだん、意識が冴えていく。


 今のは夢だ。これが現実だ。落ち着け、落ち着け。


 つばを飲み込んだ。狭い喉を流れ落ちていく唾液が苦しい。苦しいなら、やはりこれは現実だ、落ち着け。


 ここは、どこだ。


 左右に目玉を動かすと、ハーンは、自分が大きな天幕の中にいることに気づいた。硬い毛織絨毯の上に寝かされていて、腹のあたりに、小さな革布団がお守りのように乗っている。優しいのか気味悪いのか分からない、奇妙な匂いの出所だった。






「族長がくる」


「暴れるな。起きて待ちなさい」


 訛りは違うが、言葉は通じる。周りに男が大勢いて、肩を押さえられていたが、こっちが暴れていたせいだ。その手が離れていけば、待遇もそう悪くない。枕元には、細かな彫刻のある銀の水差しも置かれている。手厚い介抱の証だ。捕虜になったわけでもない。


 しばらく待つと、天幕の入り口にかかった薔薇色の布がよれて、男が入ってくる。四十過ぎで、顔は目だけを残して真っ青なターバンで覆われていた。


「目が覚めたか」


 男はゼキと名乗った。これまでの話からすれば、ここにいる男達の族長だ。


「ハーンです。俺を助けてくださったのですか。お礼を――」


「礼など――旅人ははるか遠き方から吹き込む風の使いで、一族をあげてもてなすのが我が一族の作法なのだ。あなたが礼をしたいというなら、あなたが次に旅人に出会った時に、その方へなさればいい」


 ゼキという男は、軽く頭を下げた。


「ただ、一つ頼みがある。あなたの外套と剣を、うちのものと代えてくれないか。我らは風の民。遠き方よりくる風の使いの持ち物は、風の残り香。またとない宝になるのだ」


「外套と剣?」


 いま、ハーンは寝床に寝かされていて、外套も剣も、どちらも身体から外されている。探すと、外套はきっちり畳まれて枕元に置いてある。ご丁寧に剣も隣に並んでいた。まるで「これは、これからいただきますよ」と物に語らせるような置き方だ。


(もらう気満々じゃないかよ)


 苦笑した。なんのことはない。ここで世話になるなら、武具と防具の交換が条件なのだ。


「俺の物が、お礼になるなら」


 奪われるのではなく、交換ならまだましだ。使い勝手のわからない武器だとしても、なにかは手元に残る。十分だ。


 天幕の内壁に張られた毛織絨毯は、どれも色が多く、ゼキ達も、エメラルドやルビーなど、宝石を数多く身に着けていた。ゼキと一緒にやってきた二人の女などは、黒髪を覆う頭巾一面を金色に輝かせている。硬貨のように平たい円板が魚の鱗のように重なり合って、頭巾の赤色を埋めていた。


「あなたの奥方と、娘御ですか」


 この飾りの多さなら、族長の関係者だろう。


 頭を下げると、ゼキは少し不機嫌になった。


「そうだが――。まさか、おまえは我が娘を欲しいというのか」


 見たところ、娘の齢は、十六か、十七か。嫁に出る年だろうか。


 父のゼキがそんな話をはじめるので、娘のほうもちらりと顔を合わせて愛想笑いをする。ハーンも笑った。もちろん、愛想笑いだ。


「そんなつもりじゃ――。あなたのお嬢様なら、ご挨拶をと」


「旅人は風の使い。手厚くもてなせばもてなすほど一族が栄えるというから、おまえが望めば、嫁にやらんわけではないのだが、その、私の娘は、我が一族の宝だ。もったいないというわけではなく、その、一族から奪い去るのが、私は惜しくてな」


「いえ、本当に俺は――」


 まずいぞ。と、冷や汗。


 命が助かっても、その恩人から「ぜひ娘の婿に」などと言われてしまえば、「ここから出るな」と監禁刑を食らうのと同じだ。


 さて、どうするか。ひとまず話題を変えようか。


「いやあ、天幕飾りの色鮮やかさにはため息が出ます。見たところ、あなた達は旅の一族でしょうか」


 飾りが豪華だったり、宝石を出来うる限り身に着けたりするのは、全財産を身に着けて旅に暮らす遊牧民の知恵だ。


「ところで、ここはどこでしょうか。たしか、俺が落ちたのはサンジャ川だったと――」


 サンジャ川を流されたのなら、下流に広がる草原のどこかにいるはずだ。しかし、その草原に、青いターバンを巻いて暮らす遊牧民がいるという話を、ハーンは聞いたことがなかった。


「ここがどこか、か。なら、ハーン。狐追いの民というのを聞いたことがあるかね」


「狐追いの民? ――それって」


 ゼキの目が、ハーンの狼狽をいたわるように柔らかくなった。


「名は知っているようだね。そうだ、我らは狐追いの民なのだ。ここは、バランジャ草原の端で――」


「でも――」


 まさか、そんな。問い返そうとしたが、ふと言葉を飲み込む。どこからか歌声がきこえた。草を撫でゆくそよ風のように優しい、娘の歌声だった。


 壁を隔てているので、歌い文句の一つ一つまでは届かないが、つい耳を澄ませる。弦楽器カマンチェの音色のような美声だった。


 我に返ったのは、しばらく聞き入った後だ。ちらちらと覗き見るゼキや、うしろに座るゼキの娘や妻や、介抱をしていた男達の視線が自分に集まっていた。


「――美しい声です。いい歌い手がいるんですね」


 ゼキが、誇らしげに目を細めた。


さえずり娘だよ」


「囀り娘?」


「ああ。囀り娘。お狐様を導く、我が一族の生き神だ」






 狐追いの民というのは、春追いの民とも呼ばれる。


 どこにいるとも知れない幻の民で、「五年前にここにいたらしい」「三十年前にここを通ったらしい」「我が村の長老は百年前にここを通った狐追いの民の息子らしい」と、伝説ばかりはあちこちに残るが、どんな姿をして、どんな暮らしをしているのかは、誰も知らない。


 ハーンにとっても「昔むかしあるところに」と、母親が寝床できかせた物語に出てくる一族でしかなく、本当にどこかにいるなどと、信じたこともなかった。物語に続きがあったからだ。「狐追いの民を見つけても、決して追いかけてはならない。その一族はあの世とこの世の狭間はざまを移動するから、二度と戻って来られなくなるよ」――。


(俺は、そんなところに――)


 でも、その一族の暮らしは、思ったよりも普通だ。


 簡素な天幕暮らしも、畑を耕して暮らす農民からすれば過剰に感じる飾りまみれの民族服も、旅をして暮らす一族ならそう珍しくない。天幕で囲んだ広場で家畜の羊が飼われているのは、草原にいる獰猛な獣から家畜を守るため。羊とは別に移動用の馬が繋がれているのも、べつの村で見たことがあった。


 珍しいといえば、彼らが飼う馬がすべて白馬なことくらいだ。白い馬は偉い奴が欲しがるから、都に持っていって売ればいいのに。


 あとは、一日中ずっと歌声が響いていること。


 川を流された時に散々身体を打って、ハーンはしばらく起き上がれなかった。一日中寝て過ごすのは至極退屈だが、壁越しにそよいでくる歌声をきいていれば、気は安らいだ。


(囀り娘、だっけ)


 へんな名前だ。でも、なにか特別な娘らしい。


 「いい歌声だな」と、話をしようとするたびに、そばにいた誰もがさっと顔つきを変えた。「ええ、素晴らしいでしょう」と笑顔になる奴もいれば、口数が減る奴もいる。


「駄目だ、話せない。あれは生き神で、お狐様と繋がるから」


「お狐様?」


 ひとつ、気づいたこともあった。


 ハーンは五日ほど寝床に横になっていたが、そのあいだ、同じ旋律を聴くことは一度もなかった。


 節は似ていても、歌声の主は別の歌を歌い続けた。それでいて、朝から晩まで聞き続けてもなお聞きたいと耳を澄ましてしまう、なんとも優しい美声。指触りの良いシルクのような、甘い乳菓子のような、午後の日差しのような――歌声に、惚れ込んでいった。


 歌い手はどんな娘だろう。これほど優しい美声の持ち主なら、きっと美しいはずだ。優しい顔立ちをした娘で、もしかしたら、年端もいかない童女かもしれない。


 どんな娘だろう。


 起き上がれるようになると、ハーンは歌声を追って外に出た。


 昼間だ。天幕を張って暮らしているあいだ、一族の連中は家畜に草を食ませたり、とれた毛で布を編んだり、絞った乳で料理をしたりと、男も女も忙しく働いている。


 歌声の主を見つけるのは、簡単だった。人が出払った集落の真ん中で、その娘はたった一人で家畜囲いの柵にもたれていた。


 歌声がきこえる。あぁ、あの娘だ――と、ハーンが見つけて、近づいていくあいだも、歌声はとだえることなく、日だまりを吹きぬける乾いた風に乗る。その娘は午後の日差しのもとにいて、柵木に肘をついたまま、ほとんど動かなかった。


 思っていたよりも、娘は背が高かった。


 ゼキの娘と同じか、もしかしたら年上で、身体つきも女らしい。でも、ゼキの娘のようには笑わなかった。ハーンが「やあ」とはにかんで近づいていっても、歌うのをやめない。白い肌をした丸顔の娘で、きりりとした黒眉が凛と伸びている。大きな黒目が、ちらりとハーンを向いた。けれど、そっけなく視線は逸れて、瞼はとじられる。近づいたハーンを無視して、娘は歌い続けた。


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