第4話 血に飢えた狼


 一足先に薪集めに向かっていた笠松から、俺の携帯に連絡がはいった。

「今、お堂の裏のほうの林にいるけど、ここなら人に見つかりそうもないし、塔に近いから運ぶのにも便利。最適な場所だと思うよ」

「それなら、すぐに作業にとりかかってくれ。たぶん、俺が着くまでには薪集めは終了していることだろう」

「馬鹿言うなよ。枝一本落とすだけでも大変なんだぞ」

「俺がわざと遅く行けば、多分、終わってるな」

「汚いぞ。ずるするなよ。そっちがそう言うのなら、あんたが来るまで何もしないからな」


 俺は仕方なく、笠松の待つ本堂の裏の雑木林に向かった。日当たりは良く、地面には広葉樹の落ち葉が乾いた状態で、そこらじゅうに落ちていた。

 彼は俺の顔を見ると、

「枝の位置が高いから、脚立かなんかないと効率が悪い。あんたは忍者だから幹を登ればいいけど、俺は背も低いし、年寄りだから、葉っぱ担当やるよ」

 とわがままを言った。

 自分が楽をしたいばかりに、チームの和を乱す発言だが、彼の言うことも一理ある。

「枝の百本や二百本、俺の手にかかればあっという間だ」


 俺の言葉に嘘はなかった。それどころか、笠松の集めた落ち葉より俺が切り落とした枝の数のほうが多かった。

 笠松は、高く積み上がった薪の山を見て感心している。

「どうやったら、そんなに早く枝を切れるんだい?」

 たかが数百枚の落ち葉を集めた程度で、息を切らしている軟弱な戦後生まれに、俺は言ってやった。

「俺は忍者修行時代、山一つ一晩で丸裸にしたことがある。もちろん、地主には黙ってね」

「そんなに忍者の修行ってすごいのか?」

「その程度は朝飯前さ。養殖場の真珠、二時間で全部集めろと命じられたこともある」

 三重県は真珠の養殖が盛んだ。

「それ泥棒だろう?」

 泥棒になるのが嫌で、俺は抜け忍の道を選んだ。


「前説はいいから、作業にとりかかるぞ」

 そう言って、ろくに体を動かしたこともないバブルの生き証人は、腰をかがめて落ち葉を拾い始めた。

 その光景を見て、俺はフランスの画家ミレーの「落ち穂拾い」を思い浮かべた。

 俺は芸大を出た後、パリに渡った。国内でプロの画家になることもできたが、芸術の都に行って、自分を試したかったのだ。

 今は中折れ帽子をかぶっている俺だが、当時はベレー帽を愛用していた。アトリエに籠もるのではなく、公園などに行き、その場の風景を描いていた。


 ロマン主義に対抗するように起こった写実主義は、当時の俺に大きな影響を与えた。

 初めて俺の作品を見た評論家達は、

「私をからかっているのか。誰が写真を見せろと言った」

 と怒りを露わにした。

「ジュシュイデゾレ、ムッシュ。これは写真ではありません。顔を近づけてご覧ください」

「近くで見ても写真じゃないか。こんなインチキして恥ずかしくないのかね」

「おうおうおう、人が苦労して描いた芸術作品をインチキだと。あんたも評論家を名乗るなら、目んたまひん剥いてようっく見ろ! この唐変木が」


 現実を美化せずに描く写実主義は、ハードボイルド小説に似ている。今の日本では推理小説の一分野という印象が強いが、もともとは第一次世界大戦後のアメリカ文学に登場した写実主義的手法だった。その先駆けとなったヘミングウェイの特徴は、ハードボイルド・リアリズム(非情のハードボイルド)と呼ばれる。

 かくいう俺も、ありのままの現実を非情に描写する。


「芸術のうんちくはいいから、早く枝を切ってよ!」


 彼に催促され、俺は作業を急いだ。効率を上げるため、両足で幹に巻き付き、猛烈な勢いでのこぎりを引いた。地面に落ちた枝は、すぐさま笠松が塔の裏手に運んだ。

 一時間もすると、さすがの俺にも疲れが押し寄せてきた。

「ここらで一服するとするか」

 俺はポケットからシガレットを取り出し、百円ショップで偶然見つけた、本当ならば時価十万はしそうなレアもののジッポーで火を点けた。一仕事した後の一服はとりわけうまい。


「作り話はやめて、働けっていうの!」


 そう言う笠松は落ち葉を集めて、山を作っているだけだ。まるで子供の砂遊びだ。

「いっそのこと、この葉っぱ使って、塔に火を点けるか。薪なんかより良く燃えるぞ」

 と面白くない冗談を言って、自分で受けている。


「俺はそんなこと言ってない。それより、忍者なら枝くらい何とかしろ」


 そこまで言われると、忍者のプライドが許さない。俺は、長身を活かして、のこぎりを持った両腕を上にのばし、手頃な枝を切り落としにかかった。

 作業すること二時間。

「はあ、疲れた。思ったより手間取ったな。なめてかかるんじゃなかったな。こんなに疲れるとは思わなかったよ」

 俺は腰の辺りを手の平でさすった。やる気は十分あるのだが、体のほうが悲鳴をあげていたのだ。

 だが、薪を集めただけで、作業はまだ終わってはない。

 俺は山のように積み上がった薪を、塔の裏側に人目を気にしながら運んだ。すでに冬の女王達は帰っていったが、万が一誰かに見られたら、計画が水の泡になるからだ。


「よし火を点けるぞ」

 俺は枯葉を一枚手にとると、ジッポーで火を点けた。薪の上にかけた葉っぱに近づけ、火を移した。

 火はすぐに燃え広がり、もうもうと煙を上げている。

 俺は携帯を手にとり、島の消防団に連絡を入れた。

「すぐに来てください。塔の中に人がいるんです」

「その人、塔から出られませんか?」

 消防団の青年がそう聞いた。

「夏の女王が来るまで出られません。あんたも島の人間ならわかるだろう?」

「そういう非常事態だったら、出してもいいんじゃないでしょうか」

「千年間続いた行事ですよ。責任はとれるんですか?」

「そう言われてもな……」


「作業してくれてるのはいいけど、しゃべらずにやればもっと作業がはかどると思うけど」

 笠松は、体を動かしながらそう言った。

「ゴールを思い描くことで、人はモチベーションがあがる。俺の言葉は一種のイメージトレーニングのようなものだ」

 俺は口を動かすが、もちろん手も動かす。そう、俺の言葉は労働歌なのだ。

「まあ、聞いてて嫌な気はしないけど」


 しかし、一時間もすると……。


「もう体が言うことをきかない。やっぱり歳だな」

 笠松は、地面に腰を下ろしている。

「若くても同じだぜ。手がしびれてきた」

 俺も、明らかに作業ペースが遅くなっていた。

「なんか伊賀忍法で簡単に解決できないか? もちろん、冗談だけど」

「冗談抜きで、この状況を打破する奥義がある」

「なんだい、その奥義と言うのは?」

「俺が忍者だった頃の頭領だった、十七代目服部半蔵様直伝なんで、詳しくはいえない」

「なんだ、また作り話か」

「詳しくはいえないが、名前だけなら教えてもかまわない」

「なんという技なんだ?」

「伊賀忍法、奇門遁甲図羅袈留。略して、とんずら」

「それ、いいねえ」

「やってみようか」

「是非」

 こうして、俺達は困難な状況を解決し、その日のうちに小豆島に到着していた。


 小豆島では、予約なしで粋な宿に泊まることができた。以前、大阪の割烹で料理長だった板前のさばく新鮮な魚は絶品で、俺達は思う存分瀬戸内旅行を満喫した。

 翌朝、フェリーで本土に到着し、その日のうちには、笠松ビルに戻ることができた。


 笠松保育園はもう閉まっていたが、飲食店は営業中だった。俺と笠松は一階正面左のそば屋に入った。その時間にはもう客は少なく、店主は俺達を見ると機嫌よく挨拶してきた。

「よっ、いらっしゃい。昨日から顔みないなと思ったら、二人揃ってご旅行かい。うらやましいね」

「ちょっと瀬戸内海周遊旅行にね。これお土産」

 笠松はカウンターに「最高級エクストラバージンオリーブオイル ¥1,000で詰め放題」を置いた。

「詰め放題は余分だよ。すまないね、管理人さん。ところで探偵さん、あの綺麗なおねえさんは一緒じゃないの?」

「たまたま協会の会合と重なって」

 と俺は嘘を吐いた。

「嘘って、男作って逃げられちゃったの? 所長がしっかり見張ってないからだよ」


 俺は本当の理由を言えなかった。今頃、彼女は寒さに震えながら、助けが来るのを今か今かと待ち望んでいるに違いない。

 俺は、我が子のようにかわいがっているアシスタントを見殺しにした奴らが心底許せなかった。

「どこのどいつだ。そいつらは」

 俺は怒りで体を震わせ、拳を握りしめた。

「これ以上言わないほうがあんたの為だよ」

 笠松はそう俺に忠告した。

「なんか事情あるの?」店主が聞くと、

「いや、別に」と笠松は答えた。


 そば屋の奥の壁のドアは、隣のトンカツ屋につながっている。そば屋とトンカツ屋は兄弟で、天麩羅蕎麦屋だった先代の店を分割して使っている。そば屋からトンカツを注文することができ、その逆も可能だ。

 俺達はトンカツ屋に行き、そば大盛りを注文した。

「毎回言ってるけど、そば食べたきゃそば屋で頼め」

 店主は機嫌が悪そうだ。そこで俺は、岡山名産「広島の牡蠣」をカウンターの上に置いた。

「つまらないものですが」

「つまらないとか面白いとかいう問題じゃなくて、小豆島名物『明石焼き』って何の冗談だ?」

 広島の牡蠣は話を盛り上げるための俺の脚色だが、明石焼きは本当に土産物屋で売っていたものだ。

「瀬戸大橋ができてから、小豆島は明石圏内に入っている」

 その場で思いついた理由だが、あながち嘘ともいえない。明石から橋を渡り、淡路島、香川、瀬戸大橋を経て岡山に行き、また明石に戻れば、小豆島を囲んでしまう。


 それから笠松は他のテナントに挨拶をしに行き、俺は事務所に戻った。

 戻ったと過去形で言ったが、ドアを開ける前に中の明かりが点いていることに気づき、ドアの前で立ち止まった。


 出かけるとき施錠したはずだ。管理人は俺と同行していた。何者かが管理人室に忍び込み、鍵を盗み出し留守の事務所に侵入したとしか考えられない。


 中に誰かがいる……。


 俺はドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。そっとドアを開けた。


 応接セットのソファに女が座っている。若い女だ。彼女は俺を待っていたようで、俺を見ると立ち上がった。


「四つ門島にいるんじゃなかったのか?」

 俺は響子に聞いた。

「そっちこそ、どうしてここにいるのよ?」

「それはその……え~と、そうだ。笠松大五のお祖母さんが今朝亡くなられたので、急遽戻ることになった」

 我ながら完璧な言い訳だった。絶対に嘘とは見破れまい。

「六十歳のおじいさんのお祖母さんがまだ生きているっていうの? もう少しまともな嘘を考えなさいよ」

「その前に一言いいかな?」

「どうぞ」

「塔に籠もっているはずの、君がどうしてここにいるんだ? 春の女王がここにいては、冬の女王は塔から出られない。すぐに塔に戻るんだ」

「実は、塔の扉には鍵がかけてなくて、適当な頃合いに帰ってくださいって、儀式の直前に民宿のおばさんにこそっと耳打ちされました。私は一時間くらいは粘ろうと思いましたが、中は薄暗くて埃くさくて、十分くらいで出ました。それから民宿に行くと、私の前の冬姫さんがいて、彼女は午前中から中で待っておられたそうです。正午前に私が来ると聞いていたみたいで、いろいろうるさく言われました」


「すると、俺が枝を刈っていたとき、もう塔の中は空だったのか……」

 必死でがんばったことが無意味だったと知って、俺はその場に崩れた。

「逃げ出したくせに……そうだ。もうすぐ大切なお客さんが来るから、所長にもいてもらおうかしら」

 彼女の言葉が合図になったかのように、ドアが開いた。

 大切な客は笠松大五だった。

「どうぞ、こちらにおかけください」

 俺は、丁重に彼を応接セットに案内した。

「え?」

「それでご用件というのは?」

「用もなにも、もう家に帰るから挨拶しとこうと思って、覗いただけなんだけど」

 響子はむっとしている。

「まぎらわしいタイミングで来ないで!」

 と言って、笠松を追い払った。

 彼女からみれば、俺と同罪なので頭に来たのだろう。


 そして、五分後。

 ドアが開いた。

 罠ともしらずに、真犯人がのこのこやって来たのだ。


「ふふふふ。罠とも知らずにまんまとひっかかったな。飛んで火に入る冬虫夏草とはおまえのことだ」

「相変わらず馬鹿だね」

 顔のもさっとした若い女は、俺が五年の歳月を費やして考えた渾身のギャグを一蹴した。

 それから、つかつかと応接セットまで歩き、響子の向かい側に腰をおろした。

誰だ?

「誰だじゃないよ。何回でも会ってるでしょ。足立です」


 足立ねね……ゴ、ゴミ屋敷のシンデレラ……。

「シンデレラはいいけど、ゴミ屋敷は余分。だってもう家の周り綺麗だし」

 しかし、彼女はとっくの昔に死んだはずではなかったか?

「誰と勘違いしてるの?」

 な、何故彼女がここに?

「そっちが呼んだからでしょ」

 俺は呼んだ記憶がない。

「私がお呼びしました」と響子が言った。

 すると、大切なお客さんというのはこの女のことか。笠松大五ではなかったのか。

「まだくだらないこと言ってる」


 響子は、客のほうに向き直った。

「それでは話を始めます」

「で、何の用だった?」

 ねねは、ぶっきらぼうに聞いた。

「しらばっくれないでよ。あなたが塔に籠もりきりになるって脅すから覚悟して行ったら、交替の儀式だけで終わり。なんで嘘吐いたの?」

「そうだったっけ」

 ねねは開き直った。

「その理由を説明しましょうか?」

 響子は、なんで嘘吐いたの? と自分から質問しながら、その理由を説明しましょうかと申し出た。理由を知っているなら、最初から質問なんかしなければいい。

「所長は黙ってて」


「何が言いたいの?」

 今度はねねが響子に質問した。

「最初からあなたは、塔にずっと籠もる必要がないことを知っていた。私からお金を巻き上げるため、父親の田舎の風習を思い出し、それを誇張して脅しに利用しただけ。まさか私が本当に行くとは思ってもみなかったから」

「島の人から娘さんに儀式に出てくれないかって、うちの親が言われてたのは本当だったよ。儀式はすぐ終わるけど、あそこまで行くのが大変だから、断ってた。あなたが私の代わりに行くと言うならありがたいから、止めなかったというわけ」


 実は俺は、四つ首塔の因習が形式だけのもので、足立ねねがそれを利用して響子に金をだすように迫ったことを、とっくの昔に知っていた。今まで何故、それを黙っていたかというと、とても言い出せるような空気ではなかったからだ。

 瀬戸内海まで行って、薪を集めているときも、すでに塔の中は空っぽで自分のしていることが全く意味がないと自覚していた。それで忍術を装ってその場から撤収したのだ。

 よし、これで辻褄が合う。


 しかし、まだ疑問は残る。

「ちょっと待った」俺は響子に聞いた。「前に君は、島の人間からしつこく塔に籠もるよう言われているから、彼女は家をゴミ屋敷にしたと説明したけど、今の言い分だと、ゴミ屋敷にする理由がないではないか」

「ゴミ屋敷にしたのは、ポーカーで負けたからよ。お金を払わずにすむよう、相手が家に来られないようにしたというわけ」

「彼女は、勝ったはずじゃなかったのか?」

「私には勝ってるけど、他のプレーヤーに対して大負けしたの。勝つと取り立て、負けると隠れる。ずるい女」

「勝つと隠れ、負けると取り立てる馬鹿がいるのかい?」と俺は聞いた。

 実は一人だけいた。そいつの名誉にかけて名前は明かすことができないが、中古の軽自動車をマセラティと称して乗っている男だった。

「話が進まないから、所長は黙ってて」


 それから二人は込み入った話を続けた。所長にもいてもらおうかしらと頼まれて、事務所に残った俺だったが、邪魔者扱いされ、完全にふてくされてしまった。

「どうせ俺なんか、いないほうがいいんだ」


 俺は会話に加わることも、帰ることもできない。それでも何かひとつくらいできることがあるはずだ。

 俺は、イタリアに料理修行に行っていた頃、カフェラテの味に衝撃を受け、シェフの道をあきらめバリスタに転向した。帰国して小さな喫茶店を開いたところ、全国のコーヒー通の間で評判となり、店の前は行列が絶えなかった。

 だが二年後、近隣の住人の苦情で俺は店を畳んだ。あれ以来、コーヒーと関わるのを避けてきたが、今再び、名匠の味を復活させてみようと思う。


 俺は事務所の隅にある流し台の前に立ち、電気ポットに水道水を入れた。下手なペットボトル水より水道の水のほうがコーヒーに合う。微妙なカルキ臭がマニア向けなのだ。

 沸騰するのを待つ。お湯ができたら、二つのコーヒーカップに適量を注いだ。

 お盆の上にカップを載せ、応接セットのところまで運ぶ途中、コーヒーを入れる(淹れる?)ことを忘れたことに気づいた。

 だが、相手はずぶの素人だ。黙っていれば気づくはずはない。


 応接セットに近づくと、二人の言い争いはヒートしていた。

「母の形見でサイズが合わないから、自分の指につけずに大切にしまっていた。旅行のときは必ず水筒に入れて持ち歩くようにしている。まさか水筒盗む人いないからと、あの時あなたに話したわよね」

「私が、あなたの指輪を盗んだって言うの?」

「そのこと話したの、あなただけだから」

 途中で退席したので話の内容がよくわからなかったが、響子がねねを泥棒扱いしているようだ。

「粗茶ですが」といって、俺は二人の前にカップを置いた。二人とも話に夢中で、俺のことが全く目に入っていないようだ。


「他の人にも話したから、私だけじゃないよ」

 ねねは言った。

「そんなことわざわざ人に話すとは思えないけど、具体的に誰?」

「言わない」

「警察に届けてもいいの?」

「どうぞ。そっちだって困るから。お金を賭けてトランプしてたことばれるよ」

「お金を賭けたっていう証拠があるの? 口約束だけじゃない。それに自分だって参加してて、脅迫までしたから、万が一私が罪に問われてもあなたのほうがずっと刑は重くなるけど」

「そ、そうなの?」

 ねねの視線が不安定になった


 優勢になった響子は、カップを手にとった。

「だから、指輪返してよ」

 響子はカップの中身を口にした。

「盗んでないのに返せるわけないでしょ。第一、あなたが旅行に行ってる間、私ずっとこっちにいたからアリバイ完璧。探偵なら調べてみれば?」

 ねねも一口飲んだ。

「もちろん、あなたがこっちにいたことくらい調べがついてるわ。あなたは共犯者に盗ませたのよ」

「共犯者はいないよ。だって私、時価五百万っていうのが嘘だとわかってたもの。どうせ、安物どころかおもちゃの指輪を使って、私に盗ませるか、自分でわざと無くして私のせいにしようとしてることくらい簡単に読めた。

 だけど、あなたの作戦につき合うため、一人だけ指輪のことを話しておいた。そいつはたぶん、本当に五百万円だと思っていると思う」

 今度はねねが優勢になった。


「さすがいかさまギャンブラー。で、誰に話したの?」

「探偵だったら、自分で考えなさいよ」

「容疑者は絞ってあるわ。私と一緒に島に行った人」

 響子は俺のほうを見た。

「俺?」

「容疑者のひとりです」

 響子は、きっぱりとそう言った。

 指輪、水筒、容疑者……何のことだ。

「今の表現だと知らない可能性が高いけど、所長は、自分がしたことすぐに忘れるから、容疑は晴れていません」


 響子はもう一口コーヒーを飲んだ。ねねもそれに合わせるかのようにコーヒーを飲んだ。

「これコーヒーじゃない。ただの白湯」

 今頃ねねは気付いた。

「わかるように説明してくれ」

 と俺は響子に言った。

「私は民宿に荷物を預け、塔に向かいました。荷物の中には水筒が入っています。水筒には指輪が入っていました。私が塔から帰ると、水筒はありましたが、中の指輪がありません。何者かが盗んだのです。

 犯人の条件は、

 1:水筒に指輪が入っていることを知っている。

 2:私が当日、水筒を持参したことを知っている。

 3:私の荷物が民宿にあることを知っていて、民宿にいても不審に思われない。

 4:その時刻に島にいた。

 の四点。

 私は足立さんにしか水筒に指輪が入っていることを話してはいません。

 1の条件を満たすのは、彼女からそのことを直接または間接的に聞いた人物。旅行のときは必ず水筒を持っていくとねねさんに話したので、2は特に気にする必要なし。プロの探偵である私に気付かれないように尾行を続けるのはまず不可能なので、3と4を満たすのは、一緒に島に行った人物ということになります」


 俺はわかりやすく説明するように頼んだのに、彼女はわざと複雑な表現を用いた。その証拠に、口で説明するのにいちいちコロン記号(:)をつけてきた。

「私はコロン記号などとは言ってはいません。所長が勝手に頭の中で付け加えたんです。でも少しわかりにくかったと思いますので、もっと簡単にいいます。指輪を盗んだ犯人は、私と一緒に島に行った人の中にいます」


 こうして犯人は特定され、この事件は無事解決した。

「いつ解決したんですか?」

「今、君が犯人を指名したではないか」

「一緒に行った人の中にいると言っただけで、具体的にだれとは言っていません」

 彼女程度の頭でこの事件が解決できるとは、俺も思っていなかった。それでも、俺は無理にでも事件の幕を引こうとした。犯人の名前を知るのが怖かったからだ。少なくとも俺は犯人ではない。だが、自信はない。


 絶対に俺じゃない。刑事さん、何度言ったらわかるんですか。僕じゃありません。アリバイ? 一人で部屋にいました。それを証明してくれる人はいますか? もしかして私を疑ってるの? 

 これまで観てきたサスペンスドラマのマンネリシーンが浮かぶ。まさか世界一の名探偵が容疑者にされるとは思ってみなかった。こうなれば、俺自身で俺の無実を証明してみせる。

 それにはあの呪われた村に行く必要がある。なぜならそこに真犯人がいるはずだからだ。


「それ賛成。たしかに、所長が四つ墓村に行けば、四つ墓村に真犯人がいることになるわね」

 と言って、響子は含み笑いを浮かべた。


「まるで俺が犯人みたいな言い方だな。俺自身が犯人なら、わざわざそんな遠くに行く必要なんかないじゃないか。馬鹿らしい。四つ墓村に行くのはやめだ」

 実はそう言えたことで、俺はほっとしていた。

 俺は、一人でそこに行く自信がなかった。昨日行ったばかりだったが、二人も同行者がいたからなんとかたどり着けたのだ。船酔いするとか、大阪を通過するのが怖いわけではない。問題は新幹線乗り場だ。どの列車に乗っていいのかわからない。


「三十すぎて新幹線にも乗れない人が、小学校出たばかりでよくニューヨークで働けたわね」

「若さってやつは、ときには無謀なことにもチャレンジするものさ」

 あの頃の俺は、血に飢えた狼だった。闇雲に異国の空気を求めていた。

 ちょうどそのとき、俺はあることに気付いた。

「ちょっと待て。今、三十すぎて新幹線に乗れないって言わなかったか?」

「いいましたけど、それが何か?」

「俺は、昨日も今日も新幹線に乗った。それなのにその表現おかしいだろう」 

 響子は、俺の正論にぐうの音も出ないはずだ。

 しかし彼女は、

「新幹線に乗れるなら、四つ墓村にだって行けるはず。真犯人を見つけるため、もう一度、行ってみたらどう?」

 と言って、俺を再びあの呪われた地に送り込もうとしている。


 こうして、俺は再び、四つ門島の四つ墓村の四つ首塔に向かうことになった。

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