心鏡
新成 成之
心鏡
光が遮断された室内で、目を覚ます。布団の中で大きな伸びをし、目覚まし時計を確認すると、設定していた時刻をとうに過ぎていた。こんな事もあろうかと、余裕を持って時刻は設定されている。そんな暗闇の室内で微かに聞こえる俺を呼ぶ声。それは、リビングで朝食を作っている母親の声だった。
覚醒しきらぬ頭で部屋を出ると、洗面所に向かう。いくら寝坊しているとはいえ、まだ朝早い時間。洗面所の空気はまるで空調が効いているかのように肌に刺さる。俺は体をぶるっと震わせると、冷えきった蛇口を指先で捻り水を出し、ゆっくりと体を屈めた。流れ出る冷水を両手で掬い、間髪入れずに顔に打ち当てる。全身の筋肉が引き締まったような、そんな感覚が何とも言えない。
目を瞑ったまま蛇口を絞り水を止める。タオルで顔を拭き、鏡を見つめる。すると、そこにいたのは俺のことをじっと見つめている、俺の姿だった。夢でも見ているのか。俺は目の前で起こっている現象に目を丸くした。しかし、そんな俺とは対称的に鏡に映る俺は、にっこりと笑っている。
「よっ、相変わらず不甲斐ない顔してるな」
声が聞こえてきたのは鏡の向こう。そう、鏡の俺が喋ったのだ。最早、その動きは俺とは独立し、目の前のそれが鏡であるのかすら怪しくなってきた。
「おい、どうした?間抜けな顔がより一層間抜けになってるぞ」
それに気のせいだろうか、俺の姿をしたそいつは、やたらと口が悪い気がする。まるで、言いたいことをそのまま口にしているような、そんな不躾な性格だ。
俺は蛇口を捻ると、もう一度顔を洗った。しかし、鏡に映っているのは体を起こす俺ではなく、こちらを見つめる俺の姿だった。
「お前は、一体何だ・・・?」
顔に残った雫もそのままに、俺は鏡に映る俺に話掛けてしまった。こんな姿を母親が見たらきっと寝ぼけているのだろうと、頭を叩かれてしまいそうだ。
「俺か?俺はな、お前だよ。もっと言えばな、お前の本音ってやつだよ」
俺の顔をした奴に、自分のことを「お前」呼ばわりされるのは、それなりに頭に来るということが分かった。とはいえ、こいつの言っていることが本当ならば、こいつは俺自身であり、俺の「本音 」ということになる。普通の思考ならそんな馬鹿げたことなど信じるはずもないのだが、幾分寝ぼけているせいかそいつの言うことを信じるている自分がいた。
「す、すげぇ。お前、本当に俺なのか。すげえよ」
語彙力を奪われたかのような台詞。鏡の俺が俺のことを間抜けと形容したのもあながち間違いではなかったのかも知れない。
そんなことより、俺はこの状況に正直興奮していた。だってそうだろう。目の前にいるのは自分の「本音」を名乗る自分なのだ。俺は昔から自分自身との会話というものに憧れていた。自分になら何でも話せる。そんな気がして、それが出来たならと何度と願ったことか。それが今現実に起きているのだ。こんな機会を逃す訳にはいかない。そう思った瞬間には、口が開いていた。
「じゃあさ、お前が俺ならさ、俺の相談とか聞いてくれよ。俺、そういうの憧れてたんだよ。自分自身と自分の悩みを話すっていうのにさ」
すると鏡の俺は指でOKサインをすると、いいよ、とただ一言そう呟いた。
夢にまで見た自分自身との会話。その上、お悩み相談までしてくれる。俺はこの上ないくらい興奮していた。そんな興奮が、俺の喋りを駆り立てる。
「俺さ、好きな子がいるんだよね。それでさ、その、どうしたらいいかな?」
俺は、俺の答えがどんなものなのか、幼い頃に感じた、クリスマスのプレゼントを開ける時くらい楽しみにしていた。けれど、鏡の俺の答えはそんな期待を裏切るものだった。
「そんなの決まってんだろ。告白しろよ」
ぶっきらぼうに言い放った鏡の俺の答えは、あまりにも簡単で、かつ大胆だった。
「えっ、アドバイスとかくれないの?俺なんだからさ」
そう、俺が求めているのはアドバイスだ。そもそも、こんな相談他の人には恥ずかしくて出来ないのだから、俺自身でもある鏡の俺ならまともなアドバイスをくれると思っていたのに、正直がっかりだ。
「お前、何か勘違いしてないか?最初に言ったけど、俺は、お前何だぞ。俺はな、お前が考えた、本当のことだけを具現化しただけなんだぜ?だから、俺が言うことは、全部お前自身が考えてることなんだよ」
となると、それはつまり。
「えっ、じゃあ俺は告白しちゃえって考えてるのか?」
「まあ、そういうことだな」
俺は驚いた。まさか、自分がそんな大胆なことを考えていたなんて。確かに、うじうじ考えるよりは行動してしまった方が早いのではないか、そんなことを考えたこともある。しかし、その考えが俺の本音だったとは知らなかった。なら、俺が日頃考えていた理由というのは、そんな本音を見えなくしていたものだったと言うのだろうか。
「まあ、それで成功するかなんて俺には分かんねえけどな。俺はただ、お前が思っていることを言ってやっただけだから」
そう言うと、鏡の俺は屈託のない笑顔で俺に微笑んだ。俺は初めて見る自分の晴々しい笑顔に心底驚いた。自分はこんな風に笑えるのかと。
鏡に映っているのは自分自身。それなら、俺だってこいつと同じように笑えるはず。そう考えると、なんだか少しだけ勇気が出た気がした。
「貴史、何してるの、遅刻するわよ」
洗面所に行ったきり戻って来ない俺を心配したのか、母の声がリビングから飛んできた。
「分かった、今行くよ」
俺は、リビングにまで聞こえるような声でそう言った。そして顔を再び鏡に戻すと、鏡に向き直る自分の姿が映っていた。
一人になった洗面所で、俺は試しに少し笑ってみた。ぎこちなさはあるものの、なかなかいい顔をしているような、そんな気がした。
心鏡 新成 成之 @viyon0613
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