殺人鬼は微笑みを浮かべ愛を誓った

空伏空人

Killers Swear love with a smile on his face

「ねえ、マイフレンド。人を殺すって、一体どういう気分なのかな」

「ねえ、ディアフレンド。今度は一体、どんな本を読んだわけ?」

 学校からの帰り道。

 親友は私にこう尋ねてきた。

 私の親友は、色んな漫画や小説を読む。

 読むたびに、その物語に影響されて、よくそんな哲学を聞いてくる。

 一週間前はなんだっけな。『家族って、なにをもって家族と定義されるのか』で、その前は確か『恋心はどこから恋心である。と認定出来るのか』だったっけ。

 親友は私の顔を覗き込むようにして――私は、女性の平均身長よりも高い、スレンダー女子なのである――ニコリと笑った。快活な笑みだ。

 不安もなにもない、純粋な幸せの笑み。

 私はそれを、綺麗だと思った。


「ほら、小説とか読んでるとさ、人さっくり死ぬじゃん。殺すじゃん。ミステリとか、もう朝食昼食殺人夕食みたいに」

「そんな間食みたいな扱いにしなくても」

「ポテトで指がベタベタになったので、人を殺した」

「理不尽にもほどがある」

「そうかなあ。あのムカつきは人を殺すに十分なムカつきだと思うんだけど」

 というか。と親友は言う。


「理不尽だというのなら、人を殺すのに妥当で正当な条件ってなによ?」

「人を殺すこと自体が理不尽でしょう。端から理不尽なものに、妥当も正当もない」

「ふむふむなるほど……じゃあ、話は戻るけど、人を殺すってどういう気分なんだろうね。引き算でもするかのように人を殺しているミステリの住人たちは、どういう気分で、人を殺しているんだろうね」

「……ミステリの住人たちの気持ちなんて、さっぱり分からないけど、そうだね――」

 ホラーの住人だったら。

「――またやっちゃった。って思うかな。ディアフレンド」

 ずるずると首から頭が離れて、頭がコロコロと地面を転がっていった親友を見ながら、私は――ホラーの住人である殺人鬼は、そう結論付けた。


***


 子供の頃から私は、虫を殺すことに、抵抗のない子供だった。

 地面を必死に歩いているアリを指で摘まんで、頭と腰で、二つにプツンと千切るのである。誰しもがやったことがあるであろう遊び。頭と腰で真っ二つになっているというのに、いまだにもぞもぞ動くアリが面白くて、何度も千切ってしまうのだ。

 ただ、これは私が特別残酷だった。という話ではない。これぐらいのこと、普通の人もきっとやっていただろう。私が残酷だったのではなく、子供は無垢なまでに残酷である。というお話だ。

 ただし、私の場合、虫を殺した覚えというのがまったくなかった。

 不思議な子供だったと母は言う。

 指を見てみるとアリの頭だったり、バッタの下半身だったり、コオロギの羽根だったり、とかくとにかく、色んなものがひっついていたというのだ。

 それ、どうしたの? と母が聞くと、私は決まって「知らない」と答えたらしい。

 それは、ごまかしている風ではなく、本当に知らないようだったらしいのだ。身に覚えのない、可愛らしい殺し。私の、はじめての殺しだった。

 暫くしてから、私の家の近くで、わんこが行方不明になる事件が起きた。

 私が小学校に向かう途中、鉄格子の隙間から顔を出して嬉しそうに尻尾を振りながら私に向けて吠えてくるわんこで、名前は正直覚えてなかったけれども、とても悲しかったことを覚えている。

 そのわんこの、鉄格子の隙間から出ている部分と、庭にある部分がするっと切り離されて、中身がどろっと出てきたのを見た時も悲しかった気がする。

 そう、なにを隠そう、わんこを殺したのは私なのである。

 ただ、殺した。という実感は未だにない。

 『わんこと戯れていたら、いつの間にかスライスされて死んでて、私の手にはランドセルの中に入れていたはずのハサミと、力いっぱい肉を切り裂いた感覚が握られていた』という状況から鑑みて、私が殺したんだろう。と認識しているだけだ。私自身に、身に覚えはない。

 私は血まみれのまま家に帰って、驚きひっくり返っている親が、なにがあったと尋ねられて、初めて「知らない」とごまかした。

 知ってはいたのだ。自覚がないだけで。


「まったく、恐ろしい話だな。虫を殺すこと自体にはなんにも罪悪感も感じず、その癖、かわいいわんちゃんになると罪悪感を感じる。酷い話だ。悲しい話だ。人間としての品性を疑うね」

 この昔話をすると、彼は決まってこんなことを言う。

 どんな殺害にも罪悪感の欠片も感じない、殺人鬼としか表記しようのない彼らしい意見ではあるけれども、確かに虫には罪悪感を感じていないのはなぜだろう。小さすぎるからだろうか。それとも血が流れたからだろうか。罪悪感とは、血のことなのだろうか。

 しかし、美しい蝶の羽をもぎったときは、わずかながらに罪悪感を感じることもある。醜いことは罪か。この解答はなによりも醜いので、選択肢から外しておこう。


 さて。

 私が自分の中にある殺害衝動というものに気づいたのは、このときで間違いはない。

 しかし、一応言い訳をさせてもらうと、私は今まで人を殺そうと考えたことはないし、人を殺したいと思ったこともない。

 初めて人を殺したときも、私は決して、殺したい。と積極的にも消極的にも考えていなかった。

 動物園で迷子になって、そんな私を迷子センターに連れて行こうとしてくれた優しいお兄さんが、いつのまにかライオンの檻の中に頭を突っ込んでモリモリ食べられていて、自分の足には確かに、誰かを蹴った感覚があったりしたけれども、それでも私は、彼を殺したい。と思ってはいなかったはずだ。

 だから私の中にあるそれは、衝動のように激しいものではないのかもしれない。

 それこそそう、本能と呼ぶべきものなのかもしれない。

 静かに、理由もなく、本人の自覚すらなく、私は命じられるままに人を殺している。殺人本能とか、そういうやつに。


***


「ねえ、どうしたらいいと思う? ベストフレンド」

 アスファルトの地面に腰をついて、俯きながら私は、いつものように親友に話しかけた。

 親友はいつものように返事をしてはくれず、代わりに血をどばどばと首の断面から流していた。

 断面はひどく雑で、刃物で切り落とした。というよりは、力いっぱいに引き千切った。という雰囲気があった。手のひらを見てみると肉がこびりついている。スレンダーな私のいったいどこにそんな力があるのだろう。

 これが後々、本当は私が殺したわけではなくて、私の周りの人を狙って殺す猟奇的殺人鬼がいたのだ! なんていう結末の伏線にはならない。

 私の手には明らかに、親友の首を捩じ切った感覚が残っているからだ。

 はあ。と大仰にため息をつく。

 産まれてこの方、十六年。

 初めての人殺しは九歳の頃。

 それから殺した人の数はざっと数えて八人だ。

 今まで殺したのは、私とは直接関係のない、赤の他人ばかりだった。

 旅行先でぶつかった人だったり、話したことのない上級生だったり、誰かも分からない工事現場の人だったり。

 私の殺害本能は、本能的に、自分に嫌疑がかからないように、自分とは関係のない人を狙っているようだった。狡猾だ。セコい。本能なら本能の赴くままにしろよ。とは思ったものの、じゃあ、本能の赴くままにされてしまうと困るということは、今回のことでよおく理解できた。

 殺害本能も、本能に抗えなくなっている。

 今回は幸運にも目撃者らしき人はいないので、まだどうにかなりそうだが、次はどうなってしまうだろう。

 もしも人ごみの中だったり、教室内で人殺しをしたりしたら、今度こそ、私はもう逃げられない。

 ん。いや。

 待て待て。

 逃げられない方がいいんじゃあないのか?

 本能が本能に抗えないのなら、私みたいな人を殺し続けてしまう殺人鬼は、さっさと捕まって、さらっと当然のように死刑宣告を受けるべきではないのだろうか。

 うーん、でも、死刑が決まってから死刑が執行されるまでにはかなりの時間を要するとも聞いたことがある。

 それに娘が殺人鬼である。ということで両親がどういう風に迫害を受けてしまうか、分かったものじゃあない。

 私は責められてもいいが、両親は良い人で普通の人だ。

 できれば、両親には被害なく、私だけが消える形にした方がいいだろう。

 そうなると、まあ、残された道といえば、本能に赴くままに、私が、私を殺すぐらいか……。

 なんてことを考えたときだった。

 死を意識し始めたときだった。

 こひゅぅ。

 と。

 曲がり角の先から音がしたのは。

 下手くそな笛みたいな音。

 私は俯いていた頭をがばっとあげて音のした方を睨んだ。

 続いて聞こえたのはドサリという音。

 なにかモノを落としたのだろうか。

 ――誰か、いる?

 私はおろしていた腰をゆっくりと持ち上げて、中腰の体勢になる。

 どうする、どうする。ここから逃げた方がいい?

 でも、今のまま逃げたら親友を放置することになる。

 殺してしまった手前、こんなところに放置するのではなく、もう少し綺麗なところだったり、人に見つけてもらいやすいところに移動してあげたい……これは自己満足と罵られても仕方ないことだとは思うけれども、私はそうしたいと思っている。

 だったら、ここで見つけて貰えたらいいではないか。と言われそうだけど、そしたら私も見つかってしまうではないか。それはそれで困る。


 ――確認しよう。

 そこに人がいるのかどうか。

 逃げるかどうか決めるのは、その後でもいいだろう。

 私は中腰のまま、ゆっくりと音のした曲がり角の方へ向かった。この方が足音がしないだろう。という判断だったんだけど、傍から見たらすごく滑稽だ。近くに首なし死体と生首が転がっている風景を足すと、もはやシュールだ。エドワードゴーリーだ。

 そうっと、私は曲がり角から頭をだして、音のした方を覗き見た。


「っちゃあ。失敗した」

 そこには、一人の男の子がいた。

 多分、私と同い年ぐらい。

 困ったように頭をポリポリと掻いていて、小首を傾げている。

 だらんと垂らしている左手には刃物ナイフを持っている。左利きだ。ナイフには、血がついている。

 彼の前には、一人の女性が跪いている。外傷らしい外傷は見つからない。

 ただ一つ。

 男なら喉仏があるだろうその位置。

 そこにナイフを一突きされたであろう穴が空いていた。

 血がそこからぴゅうぴゅう出ていて、彼女が息をするたびに、大きなあぶくができて、ヒューヒューと下手くそな笛みたいな音がする。

 さっきの音はどうやら、彼女の息をする音らしい。

「年上の女の人は最近殺したばっかりじゃあねえか。失敗失敗。いやごめんな。まあ、突発的な竜巻にでも襲われたと思ってくれ」

 うけけけけ。

 彼はくだらなそうに笑うと、持っていたナイフで女性の首を何度も何度も切りつけた。首になんの恨みがある。

 切りつけられている間、女性は私に助けを求める目を向けていたが、暫くすると、その目はなにも映さなくなり、ぐてんと倒れた。

 わお、ビックリだ。

 私が人を殺している近くでまた人殺しだ。

 危険地帯すぎるだろう。ここ。


 ――早く逃げねば。

 確かに私は殺人本能のある殺人鬼ではある。

 しかし、決して殺し屋ではない。殺人鬼だ。

 殺人鬼とはつまり、人を殺すことができる人に過ぎない。殺してしまう、ただの人だ。争いなんて出来るはずがない。


「ちなみに、だ」

 さあ逃げよう。すぐ逃げよう。ついでに親友を殺した罪もこいつに擦り付けてしまおう。と思ったそのときだった。

 動かなくなった女性の首からナイフを引っこ抜いた男の子はそんな風に言った。

 私に背中を向けたままだったけれども、それは私に話しかけているのだということはよく分かった。


「これはナイフじゃあなくて、匕首あいくちって言うんだ。長さに関係なく、持っている時点で犯罪で、なおかつ漢字がカッコいいってところが気に入っている」

 振り向いて私を見た彼は、自分の持っているナイフ――匕首を指差しながら、自慢げに笑った。

 自慢できるようなものではないような気がする。

 私は笑っている彼に向けて引き攣った笑みを向ける。


「僕は冨岳とがけ。見てのとおり、殺人鬼」

「私は流宮りゅうぐう。見たらわかる、殺人鬼」

 自己紹介。

 こうして私たち孤独であるはずの殺人鬼は出会ったのである。


***


「お前はどうして、人を殺してるんだ?」

 それからの話をしよう。

 殺人鬼が二人、同じ場所で同じように殺人本能に身を任せて殺人を行った奇跡のそれからだ。

 私と冨岳は並んで歩きながら、色々な話をした。

 初めて自分の殺意に気づいたときとか(冨岳は初めてが両親だったらしい)。子供の頃の無意識の殺害についてとか(よくクラスメイトが死んでいて、冨岳は花瓶係をしていたらしい)。色々。

 冨岳はポケットの中に忍ばせていたビニール袋を取り出すと、殺した女性の、ざくざく斬った首を捻じって取った。どうしてざくざくと斬っていたのかと思ったら、首を回収するためだったらしい。なぜ。

 私はと言えば、やはり親友の死体をここに放置するわけにもいかず、首を教科書とかを入れてあるバッグの中に詰め込んで、体の方は背負って持っていくことにした。首のところにタオルを載せて、疲れている友達を背負っているように偽装はしたものの、注視されたらすぐ分かるだろう。

 親友よ、あんまり食べてないねえ軽いねえ。折り紙でつくったハリボテを背負ってるみたいだよ。私だってもう少しは食べてるよ。まあ、親友はもう腹にご飯を入れられないんだけどさ。口は体から切り離されてるんだし。

 軽い軽い親友を背負いなおしたところで、冨岳は不意にそんなことを口にした。

「んい?」

 と私は返す。

 急すぎる質問に、言葉が追いつかなかったのだ。

「どうして人を殺してるのか?」

「そう。どうしてお前は親友を殺したんだ?」

「……そりゃあ」

「殺人鬼だからってのは無しだぞ」

「どうして」

「どうしてもこうしても、それではただの人でなしだからだよ。人が人を殺すときには、必ずなにか理由がある。正しいか正しくないからは関係ない。ひたすら、理由がある。理由だけがある。あるはずだ。ないといけないんだ」

「殺人鬼だから。も理由になるでしょ」

「一理ある」

「あっちゃダメでしょ」

 さっきまでの『僕なりの哲学』はどこに行ったんだろ。


「例えば『サクラメントの吸血鬼』として有名な殺人鬼。リチャード・トレントン・チェイスは、ウサギの血を自分の血管に注射しようとして療養所に送られている。療養所ではやぶの中にいた小鳥の頭を食い千切り、顔やシャツを血だらけにしたこともあるらしい。被害者の血と臓器をミキサーにかけて飲んでいたらしいぞ」

「うへえ」

「僕らに彼を気持ち悪がる権利はないがな。むしろ、僕らよりも彼の方が人間らしいと言える」

「私はそいつよりも人じゃあないっての?」

「人じゃない。なぜなら彼には理由があるから」

 理由。理屈。理趣。

「彼は『自分の体には毒が盛られていて、血液が粉になってしまう』と思い込んでいたらしい。『代わりの血液を補充しないと死んでしまう』と思い込んでいた」

「だから、人を殺していた?」

 なるほど。道理で。

 血を補充するためならば、人を殺すしかないか。


「ちなみに彼に毒を仕込んだと吹聴したのは母親だ。十二の頃、母親に毒殺される。と父親をなじっていたらしい。今なら献血をして血を抜いたり、輸血してもらうとか色々手段はあるだろうけど。まあ、もし仮にそういう手段があったとしても、彼は人を殺しただろうけどな」

 殺人に理由はある。

 しかし、理由を他で補充できたとしても、他の行動を取ることはしない。あくまでも、理由は理由に過ぎないからだ。本質は変わらない。

 そういえば彼は女性を殺したとき『失敗した』と言っていた。

 彼にも彼なりに『どうして』があるのだろうか。

「その衝動自体に、理由が思いつかなくて、後から理由をつけていく」

 うけけけ。と彼は笑った。

「なんだろうなこれ。まるで恋みたいじゃあねえか」

「…………」

 一瞬ロマンチックに感じてしまったが、全然そうじゃあなかった。

 恋って言葉に騙された。ロマンチックパワーが強すぎる。


「あるいはジョン・ウェイン・ケイジーもそうだ。殺人ピエロとも言われている彼は、少年を愛していて、それを隠すために殺した。エドワード・セオドア・ゲインは――正確に言えば殺人鬼ではないけれども――死体を掘り返し、戦利品をつくることに執着していた。どんなものにも理由はある。言い訳はある。そうだろう? そうであるべきだろう?」

「詳しいのね」

「調べたのさ。僕だって、僕を知りたかった」

「分かったの?」

「さっぱり」

 冨岳はふるふると頭を振った。

 至極残念そうに。あるいは至極どうでもいい風に。

 知りたいけど、そこまで執着しないかなあ。みたいな。

 検索してみて出てこなかったら、それでいっか。みたいに忘れてしまいそうな、不安定さ。

 適当に過ごしている。本質についてすら。

 大丈夫なのだろうか。彼は。

 私は自分のことを棚に置いて、彼のことを心配してしまった。

 自分が殺人鬼であることを無視して隠して、それに失敗している私がである。


「さて、じゃあ再び質問だ。お前はどうして殺している? どうして、お前は殺そうと思う?」

 人の形を見ると――生きていると――。

 それも、理由としてカウントされるだろうか。

 なんだかちょっとつまんないというか、妙に恥ずかしいので、別の理由を考える。

 私はどうして――殺した?

 私はどうして――殺さなかった?

 考えられない。わけではなかった。

 ただ、魚の小骨が喉につっかかっているような、『鈍重』と書きたいのに鈍までしかおもいだせないみたいな。

 あと一歩のようで、実は全然出てないみたいな、輪郭だけはハッキリしているモヤみたいな『言葉に出来ない』と形容する事もできないみたいな……。

 つまるところ、分からない。と言ってしまえばそれまでなんだけど。

 私の中には、私の本能の中には、答えがある。

 ただそれを、言葉にすることを、また、本能は拒否していた。

 言葉にしてはいけない。そう言っている。


 私の眼の前を、一匹の蝶が飛んだ。

 久しぶりに見た。ここ最近、蝶が育てるような場所がめっきり減ってしまったからか。

 私はそれを目で追いかける。とても綺麗な蝶だ。

 そういえば、蝶はどうやって飛んでいるのだろう。羽根を動かして飛んでいるのだ。と言われたらそれまでなんだけど、どういう風に動かしているのか、頭でイメージすることができない。ひらひらと、紙吹雪のように飛んでいるイメージしかない。

「あ」

 ひらひらと飛んでいるように見えた蝶は、実際はひらひらと落ちている蝶だった。

 右の羽根が千切れていて、バランスを取ることもままならず、地面に落ちた。バタバタと飛べもしないのに蠢くさまは醜かった。


「蠢くって漢字すごいよな。春って漢字を使ってるのに、どうしてこんなに気持ち悪く見えるんだろうな」

 だからどうした。と言い返したくなるようなことを隣の冨岳が言っているが、私はそれに言い返すことはできなかった。

 私の右手。

 握りしめられている私の手をゆっくり開いてみると、くしゃくしゃになった羽根があって、手のひらは鱗粉で彩られていた。

 宝物を握りしめるように、綺麗だったものは、ゴミに変わっていた。


「エーミールごっこか?」

「そうか、そうか、つまりきみは国語の教科書を斜め読みしていたんだな」

 クジャクヤママユを潰したのはエーミールじゃあなくて『僕』だ。

 じゃなくて。

 そうじゃなくて。

 えっと。

 だから。

「私は――綺麗だと思ったから、殺すんだ」

 言葉にした。

 理解してしまった。

 ぽつりと口からこぼれるように現れた答えに、私の脳みそはぴたりと動きを止めて、信号を見失った目からは、ボロボロと涙があふれてきた。

 なんだそれ。なんだよそれ。

 綺麗だと思ったから殺す? 絵を眺めながら『わーキレイキレイ』って言いながら引き千切って引き裂くような人間だったってことか私は。

 それなら、もっと後ろ向きな理由の方が良かった。

 例えば、嫌いだから殺すとか。そんな短絡的で、後ろ向きな理由の方がまだマシだった。

「えー、なんだよそれー。僕は綺麗じゃあないってことかよー。酷いな、人権侵害だぜ。殺人鬼にだって人権はあるんだぜ」

 視界が涙で滲んで、頭の整理が追いついていない中、隣の冨岳が気楽に適当に言ってきた。

 お前、本当に人でなしだな……!

 人がこんなにも悲しんでいるっていうのに……!

「いいじゃあねえか。理由が分かった分だけ」

 強く睨みつけると、冨岳はさっと目をそらしながら、やはり気楽に適当に言う。

「だってお前、殺したくないんだろう?」

「……なんで分かるのよ」

「おいおい。腐っても僕だって殺人鬼だぜ? 死体を見ればどういう気持ちで殺したか分かる」

「どういう気持ちって」

「本能の赴くがままに。素直に。無意識に。なすがままなるがままに殺してる」

「冨岳だって」

「そう。僕だって。でも僕は、殺した後も殺すぜ? お前みたいに、苦悩することもなく。やってしまったなんて思いもしない」

 ずい。と、冨岳は私の顔に、自分の顔を近づけてきた。

 彼の髪は黒くて短い。意外と手入れをしているのか、サラサラだ。

 目も黒。じっと見ているとその黒が『塗られた黒』ではなくて『深い深い光がない黒』であることに気がつく。肌は綺麗だ。ストレスなんて感じたこともないのだろう。こうして見てみると、彼の顔は意外と整っていることに気づかされる。鼻筋はしゅっとしているし、顔は私よりも小さいのではないか? 屈託のない笑みは人を惹きつけるには充分すぎるぐらい魅力的だ。この笑みに警戒を解いた被害者も結構いるのではなかろうか。小悪魔的な蠱惑的な笑みだ。あるいは蟲毒的な笑みだ。体だってスタイルがいい。ほっそい。なにを食べてるんだ。なにを食べてないんだ。足が長い。いわゆるモデル体型というやつなのではないか? 羨ましい。ほら、この首とか私の手一つで覆えそう――。

「ほい、ストップ」

 冨岳に手首を掴まれた。そこでようやく、私は彼の首を掴んでいることに気がついた。


「……あ、え?」

「殺人鬼が本能に身を任せて人を殺しに来るところを初めて見たぜ」

 うけけけけ。

 彼は首を掴まれたまま――絞殺しようとしている私の手を掴みながら、小悪党のように笑った。

「私いま、あなたを殺そうとしてたの……?」

「殺されそうになった。まったく、殺しをしたくなさそうだったから、押さえたけど、お前、実は力あるんだな」

「あ、ありがと……殺しをしたくなさそうだったから押さえたって、じゃあ、殺しをしたそうだったら殺されてたの?」

「それもそれでありかもな」

「なしだよ」

 殺されてあげるなんて、私にどれだけトラウマ与えるつもりなんだよお前は。普通に殺すよりも性質が悪いわ。


「それよりも、だ」

 冨岳は掴んでいる私の手首をぐいと自分の方に引っ張った。ただでさえ近かった距離が更に狭まり、彼のアゴに鼻先がぶつかった。背ぇ高いなこいつ……!

 鼻をもう片方の手でおさえながら、私は彼を見上げ、ねめつける。

 彼はニヤニヤと笑ったまま、私の目を覗き込んだ――深い深い落とし穴のような黒い目で、私の目を覗き込んだ。


「お前、僕のことを殺そうとしたな?」

「……ごめんなさい」

「なぜ謝る。殺人鬼が殺されそうになって怒るわけがないだろう。殺してる癖に。殺しまくっている癖に。そうじゃあない。お前はどうして殺すんだ?」

「殺人鬼だから、殺してる」

「そうだったか? きちんと理由があるんじゃあなかったか?」

 理由?

 ああ、そう。そう。さっき分かった。私の殺す理由。

「綺麗だと思ったから、殺す」

「そう、そしてお前は僕を殺そうとしたわけだ!」

 なにを嬉しそうにこいつは。と怪訝な表情を浮かべていた私であったが、次第に、私は、こいつが嬉しそうにしている理由を理解し始めた。

 綺麗だと思ったから殺す私が、こいつを殺そうとした。ということはつまり、私はこいつのことを、き、綺麗だと思ったということで……。

 理解が脳みそに届くと、ボン! と、私の顔は一気に紅潮した。

 うわあ。うわあ。うわあ。うわあ。

 私は一体、なにを考えてたんだ!

 よりにもよって、こんなやつに!

「そうかそうか。僕は綺麗なのか。嬉しいなあ。嬉しいなあ。嬉しいなあ」

「こ、殺す! 初めて殺意を持って殺す! 殺したいと思い願って殺す!」

「うけけけけけ。その殺意甘んじて受け入れよう。綺麗な存在として受け入れよう。イケメンとして受け入れてやろう!」

「殺人鬼が見た目を気にしてるんじゃあねえ!」

「なにを言ってる。今はビジュアル重視の時代だぞ。殺人鬼だってイケメンの方がいいに決まってるだろう。最近読んだ本に出てきた殺人鬼だって美形だったぞ。しかも探偵もしてた」

「なにがしたいのか分からないもう……」

 赤くなっている顔を隠すように、私は、両手で顔を覆う。

 最悪だ。なんで私は、こんなやつを綺麗だと思ってしまったのだろう。

 私の人生の汚点だ……。しかもなんか、こいつめっちゃ嬉しそうだし……。

 顔を覆っている手をそっと離して、ちらりと冨岳の顔を見る。

 冨岳はにぃっと誰も彼もが好みそうな、人当たりの良い笑みを浮かべていた。ああ、ああ。嬉しそうに。私の本能は嘘をついていない。認めるのは癪だが、彼は確かに綺麗だ。特に目が綺麗だ。落とし穴のような目が。私を惹き寄せる。

「お前は目が好きなのか?」

 声をかけられて、私はようやく、彼の両目を抉り取らんと手を伸ばしていたことに気がついた。親指が眉間と眼球の間に押し込まれていて、冨岳の眼球の固さが親指で分かる。

「ご、ごめん!」

「だから怒らねえって。殺されそうになるぐらいじゃあ」

「そ、そう……?」

「ああ。そうだ。むしろラッキーだと思うんだな」

「ラッキー?」

「僕は殺せてない。お前は、僕を殺せていない」

「……だから?」

 確かに、私は今まで無意識のうちに、本能の赴くままに人を殺してきたけれども、殺し損じたことだけは一度もなかった。

 殺人鬼が殺し損じるということは、正体がバレることとイコールであり、私は今頃、こんな風に日常を送れているはずがないからである。

 だから冨岳は初めて私が殺せなかった相手。ということになる。

 殺意も害意もない、本能的で無意識の殺害を一体どうやって予知しているのだろうか。と思わないでもないが、やっぱり殺人鬼の感性とかそういうものがあるのだろう。

「僕のことをお前は殺せない。だから、お前はずっと僕を殺そうとすればいい」

 掴まれていた片手だけでなく、もう片方の手も掴まれた。

 両腕をがっちりと掴んで、彼は私を逃げれないようにする。

「そうすれば、お前はもう、殺さなくてもよくなる」

「本当に……?」

 それは確かに、良案だとは思った。

 思ったけど、それはあくまでも『理にかなっているだけ』だ。『正論であるだけ』だ。人間、理ではなく心理で動くものであるはずである。

「でも、それじゃあ。あなたに迷惑をかけることになるでしょ……」

「殺人鬼は迷惑かけられても文句は言えない」

「便利だなあ。殺人鬼」

 というか。

「どうして、そこまでしてくれるの?」

「暇だし」

 冨岳はさらっと答えた。

 ある意味、どんな言葉よりも安心できる一言だなとは思った。

「……本当に、信用していいの?」

「本当に。疑問に思うのなら、僕を殺してみろ」

 冨岳は、にっ。と笑った。

 それは嘘偽りのない、自信だけの笑みで。

 その笑みを、私は信じてみようと思った。


***


「そんなわけでここが僕の家だ。いやあ、良かったなあ。誰も殺さなくて済んで」

「あ、あのさぁ……」

 そんなわけでこんなわけで。

 私は無事、誰も殺すことなく冨岳の家にたどり着くことができた。

 いや、どうして私がこいつの家に行かないといけないんだ? という疑問もあったが、それよりもまず、冨岳に言いたいことがあった。

 私は隣でニコニコと笑っている冨岳の顔を睨んで、

「そ、そろそろこの手を離してくれない?」

「どうしてだ?」

 ニコニコと笑ったまま、冨岳は私の手のひらをぎゅっと握った。

 恐らく私を逃がさないようにだろう。しっかりと。指をからめて。

 彼の手首に引っかかっているビニール袋の中にある生首の、ほんのりとした生温かさと重みが、指を介して、私にも伝わってくる。

 ……いや、逃がさないようにするためなら、指をからめる必要ないよね?


「だって、その……恥ずかしいし」

「僕は気にしない」

「気にして」

 まさか親友も、殺された後、背負われた状態のまま、こんな状況になるとは露とも思っていなかっただろう。成仏してくれ。

「その死体」

 冨岳は私が背負っている親友の死体を指差した。

 途中で「重そうだな、代わりに背負ってやろうか?」なんて、女子の荷物を持ってあげる優しいモテる男子アピールをしてきた冨岳だったが、さすがに断った。彼女は私が背負わなければならない。そんな業だ。

「あのまま放置したくない。なんて言ってたけどよ、どこに持っていくのかは決めかねてるんだろう?」

「まあ……普通に、親友の家族のところに届けるべきだとは思ってるけど」

「首なし死体を? とんだアメリカドラマに出てきそうなサイコキラーだな」

 それもそうだ。

 死体を渡し、私自身は捕まることが正しいような気もしていたけど、この死体を明け渡すというのも、それはそれで悪いような気もする。

 娘が行方不明のままずっと帰ってこないのと、死体を見つけるのと、どちらがマシなのだろう。

 生きているかもしれない。という希望がある方がいいかもしれないし、それは延々と続く、生殺しであるかもしれない。

 なにが正しいのだろうか。なんて考えているけれども、加害者である時点で、殺している時点で、なにも正しくはないのだろう。

 間違っている。その中でも比較的正しいかもしれない選択肢を探しているけど、それは『うまのふん』と『うしのふん』どっちがいい? と聞いているようなものだ。


「だったら、僕の家に置いておけばいい。死体の防腐処理だって出来るぜ」

「なんで家で出来るの……」

「殺人鬼だからな」

「殺人鬼だからでなんでも許されると思うなよ」

 冨岳の家は、おんぼろのアパートだった。

 木造の二階建て。

 どうして崩れていないのか疑問で仕方ない、危険とか立ち入り禁止とか、そんな立札や黄色いテープが散乱している、廃材アートみたいなアパートだ。整理されているとは思えない。整備されているとも思えない。見た一瞬で「あ、こいつ正式な手段でここに住んでいないな」と気づけるぐらいだ。

「ねえ、ここにあんた以外住んでないでしょ」

「そりゃあ、こんなに臭うところに、誰も住もうとは思わないだろ?」

 住まない理由はそこではなく、ここがただの廃墟だからだと思うのだが、しかし確かに、仮にここが廃墟ではなくても、誰もここに住もうとは思わないかもしれない。と思えるほど、この廃墟は臭かった。

 下水道の水が地面を覆っているかのように、水を被った生ゴミが廃墟を象っているかのように、ここら一帯はひたすら臭かった。

 冨岳に手を握られていなかったら、私はこの場からすぐ逃走していたかもしれない。それぐらい臭い。

 そして私は、これが“死の臭い”であることを、本能で理解していた。

 彼が人を殺し、あるいは殺し、または殺し、ときおり殺して家に帰ってきて、それが積み重なって、この臭いを形成したのだろうか。

 いや、彼は防腐処理も出来る。と言っていた。

 つまり、家に死体を持ち帰ることもあったということだ。

 ――死体の隠し場所を思いつけないのは、誰も一緒か。

 多分、この廃墟の中は探せば探すほど、腐った死体、あるいは腐っていない死体だらけなのだろう。

「ねえ、私。こんな臭いところに親友を置いておきたくないんだけど」

「だったら早く、親友が眠れるところを探すんだな。ほら、行くぞ」

 ぐい。と手を引っ張られて、私は廃墟に誘われた。彼が住んでいるのは二階らしい。赤錆だらけで、地面との接着面はよく見てみるとアスファルトから外れている。歩くたびにぎいぎい揺れて、なんでこいつは二階に住んでるんだろう。いつか死ぬだろこれ。なんて疑問を彼にぶつけてみた。

「僕みたいなやつ。いつ死んでも問題ないし、だったら、二階の方がテンション上がる」

 ということだった。

 多分冨岳は、二段ベッドの上を取るのに必死になるタイプ。

 つまるところバカ。

 というか。さっきから聞いていると、冨岳はどこか、自分のことを卑下しているような気がする。いや、違う。卑下ではない。卑下することすら意味のない、どうでもいいもの。としか扱っていない気がする。

 死ぬ気はないけど、例えば崖から落ちたら、必死に掴まろうとせずにそのまま死んじゃうような――自分の生死すら、適当に思っているようで。

 生きることに執着せず、死ぬことにも固執しない。

 ……私も似たようなものか。

 人を殺しておきながら、死のうと思いながら、こうして図々しく、なあなあでなんとなく生きてしまっている私と。

「この隅の部屋だ。角部屋だぜ角部屋ー」

 むしろ彼のように、なにも考えず、考えないようにしていた方が幸せなのかもしれない。

 なんて。

 私は角部屋で無邪気にはしゃいでいる彼を見ながら考えたりしていたのだが、それは間違いであったことに気づいたのは、彼がドアを開いた、その数分後のことだった。

「鍵かけてるの?」

「壊れてるけどな」

 ポケットから鍵を取りだし、冨岳はぴょんとドアから飛び出している鍵穴に差しこむ。ガチャリ。と口で言って、彼はドアを開いた。

 同時に、むぁっと、“死の臭い”が閉じ込められていた羽虫のように飛んできた。

 私は思わず顔をしかめる。もしかしたらこいつの部屋が一番、“死の臭い”が強いかもしれない。

「ほら、入って入って」

「あ、う、うん……」

 促されて――というか、手を掴んでいる彼に引っ張られるように――私は彼の部屋に入った。

 彼の部屋は、窓に日除けがあるからか、薄暗かった。

 六畳一間。トイレお風呂シンクつき。

 ベッドがひとつあって、その隣には簡単な荷物置き。上にはランプシェード。

 モビールがつりさがっていて、独り身用の小さな冷蔵庫があるキッチンにはスープボールだったりフォークだったり、コンロの上には鍋が置かれていた。意外と料理好きなのかもしれない。しかし、ミキサーは三つも必要だったりするのだろうか。

 衣装タンスは一つ。服にはそこまで執着はないのかもしれない。

 椅子と机は各一つずつで、机の上にはなぜか、太鼓が一つ置かれていた。壁にはダート盤とポスター。ポスターは風船を持ったピエロの絵。どこか不安になる。

 なんていうか、意外と普通の部屋だ。

 彼の性格からすると、もっとサブカル女子みたいな雑多な感じの部屋になっているのではないか。あるいはゴミだらけの部屋になっているのではないか。とばかり思っていたのだけれども、案外普通で、なんだか拍子抜けだ。


「ん、どうした?」

「いや、片付いてるなーって思っただけ」

 ベッドの上に生首の入ったビニール袋を置いて、振り返った冨岳に、私は思ったことを率直に告げた。彼はにへらと笑う。


「片付けだけはしっかりしてるんだ。まあ、正確に言うと、ゴミは大体他の部屋に捨ててるんだけどな」

 どんなものも捨てません。そう決めてるんだ――決めてることにしてるんだ。と、冨岳は言った。

 言い回しにちょっと疑問を覚えた私が首を傾げて、その疑問を口にするよりも先に「食事でもするか?」と尋ねてきた。

「腹減ってるだろう」

「……なんでそう思うの?」

「不幸せそうな顔をしてるから。今にも死にそうな顔をしているから」

「…………」

 そんな顔をしているのだろうか。

 確かめようにもこの部屋には鏡がない。

「食事は幸せを呼ぶ。食事という行為自体が幸せだからだ。幸せは噛みしめるものだって、熟語も言ってるだろ?」

「熟語は読むものでしょ」

「じゃあ読んでくれと言ってるだろ?」

「なにそれ」

 くすりと笑った。

 冨岳はキッチンの方に向かう。

「誰にだって生きる権利はあるし、幸せになる権利はあるのさ」

「私たちみたいな殺人鬼にも?」

「無論」

「人の生きる権利を邪魔しているのに?」

「人はいつか死ぬ。それがたまたま僕らだったというだけだ。それに、幸せになる権利は皆あれども、皆幸せになれる方法はないのも、また真理だろう?」

「屁理屈言ってない?」

「屁理屈で結構。これはあくまでも僕の持論だから」

 だが。と彼は続ける。

「幸せになってはいけない存在なんてやつは、絶対いないんだと思うぜ。僕は」

 コンロに火をつけながら言う彼の一言に、私はすとんと何かが落ちたような気がした。

 これはきっと、出任せなのだろう。戯言ざれごとなのだろう。言葉の綾であり、言葉遊びであり、言論の中で構築された綺麗ごとなのだろう。

 それでも、その言葉は正しいと私は思うことにした。

 そうであって欲しいな。と私みたいなやつが願うことにした。

 ふう。と私は息を吐いた。重たかった息がどこかに消えていた。

 ずっと背負っていた親友を、ベッドの上に寝かせる。もう少し綺麗なところに連れて行ってあげよう。そう決めて、私は調理を開始しているらしい冨岳の横から鍋の中を見た。

 鍋の中ではぐつぐつとハツみたいな肉が煮込まれていた。

 というか、ハツそのものだった。

 人間の心臓だった。

「……………………は?」

 思考停止。

 血抜きをされているようで、煮込んでいる汁には赤色が滲んでいることはなく、味噌の匂いがする。

 彼は私が硬直していることに気づいていないようで、鼻歌を歌っている。三つあるミキサーに手を伸ばす。よく見てみるとなにやら肉やら血やらがくっついていた。

 “死の臭い”が、キッチンから猛烈に香ってきた。

 スープボールはよく見てみると、頭蓋骨を半分に割ってひっくり返したものだった。フォークは指の骨。サラダボールは肋骨。ミキサーの中にある血や肉は、恐らく人のものだろう。


「血を飲むんだ」

 冨岳は私を見ることなく言った。

「リチャード・トレントン・チェイスは血を飲むために人を殺した。だから、僕も血を飲んでみようと思った。まあ、マズかったから二度は飲んでないんだけど」

 ぐるぐると鍋をかき混ぜながら彼は言う。


「アルバート・ハミルトン・フィッシュやジェフェリー・ライオネル・ダーマ―など、多くのシリアルキラーは人の肉を好んだ。皆よく食べてたんだ。だから僕も食べてみようと思った。心臓と尻の肉は意外と美味しかった。でも、これなら鶏肉でいいかなって思うこともある」

 私はばっと振り返って部屋の中を見回した。部屋の中は変わらず薄暗く、全てのものの、ガワしか確認できない。

 日除けに手を伸ばす。ぬめっとした感触が手のひらに伝わる。

 日除けを回して、中に日光を取り入れる。

 まず視界に入ったのは、日除けだった。

 日除けは人の唇を引き千切って縫い合わせてつくられていた。

 振り返る。

 天井から吊り下がっていたモビールの先についているのも、唇。

 机は人の顔が何個も浮かび上がっている。椅子の足は膝の骨で、座部は大きなシミが浮かび上がっている、背中の皮だった。

 ベッドには頭蓋骨が飾られていて、隣にある見栄えの良い、和紙みたいに枝分かれしている模様が浮かんでいるランプシェードには、人の顔にそっくりな穴が空いていた。枝分かれしている模様は血管だ。

 壁に設置されているダート盤は人の頭の断面で、隣にあるポスターは人面の皮を広げて貼り付けたもので、その上から化粧をするかのように、絵を描いていただけだった。

 段ボールだと思っていた箱は、やはり人の皮で、衣装タンスを開いてみると、変色した胸が使われているチョッキやベストがハンガーにかけられている。鼻や口があるポーチやバッグの隣には、靴箱があった。蓋は微妙にズレていて、中に入っている塩を振りかけられた肉がよく見えた。牛でも鳥でも豚でもないのは確かだ。

 なにが普通の部屋だ。

 普通に狂っている部屋ではないか。


「エドワード・セオドア・ゲインは家具や衣服を、墓場から掘り返した死体からつくっていた。だから僕も殺した死体をつかってつくってみた。家具を買わないで済むことはよかったけど、一個作るのに手間がかかりすぎて、普通に買った方が楽だと気づいた」

「……今も着てるの?」

「着てねえよ。一回着てみたけど、臭くて仕方なかった」

 冨岳はかぶりを振りながら鍋に蓋をして、ベッドに移動する。親友になにか触れるのではないかと思ったがそうではなく、ビニール袋に入れていた頭を手に取ると、いつの間にか手にしていたナイフで――そのナイフの柄も骨だった――生首を切り刻み始めた。まるでペン回しのように、なんとなくやっている癖のように。顔は無関心。


「血を飲みたいわけではなかった」

 鼻を切る。

「食べたいわけでもなかった」

 唇を切る。

「つくりたいわけでもなかった」

 目を切る。

「性的興奮はなかった」

 頬を切る。

「男だったからではなかった」

 顎を切る。

「女だったからではなかった」

 鼻を切る。

「年上だったからではなかった」

 額を切る。

「年下だったからではなかった」

 喉を切る。

「もちろん、脳みそを食べてやろうと思ったわけでもない」

 冨岳は生首のつむじに指を添え、器用に頭皮を剥いた。下からぬめっとした頭蓋が出てきた。ぽいと投げ捨てる。意外と重い音が床を何度も叩く。


殺人鬼シリアルキラーと呼ばれている過去の殺人犯たちも突き詰めれば、理解はできなくとも、意味は分からなくても、理由はあった。『どうして』は存在した。調べた。調べた。調べた。調べた。それに間違いはない。どうしようもないぐらいに間違いはない」

 鍋が沸騰したのか、吹きこぼれていた。冨岳はコンロに向かって、火を止める。


「だったら、僕だってなにか理由はあるはずなんだ。僕の殺人にも意味はあるはずなんだ――僕は、なんだ?」

 彼の声色に変化はない。

 それこそ、授業の最中に分からないところがあったから質問しているような、そんな普通の声色。

 でも、私はそれに答えることはできなかった。答えれるはずがなかった。

 だって、だって。そんなもの、本人以外に、一体誰が分かるんだって言うんだ。

 私は口を開いたまま、彼の顔を見続けた。目を離してはダメだと思った。暫くすると、彼の眉は八の字に曲がった。

「ああ、うん。ごめん。ごめん。ちょっと口が滑った。出会ったばかりなのに、なにを言ってるんだろうな。僕は。ごめん。ごめん。防腐剤は衣装タンスの中にある靴箱の隣だ。好きに使っていいよ。前に飾るために殺しているんじゃあないかって思って使った残りだから」

 この部屋は、どんな部屋だった?

 この部屋は、殺人鬼の再現部屋だった。

 殺人鬼による、殺人鬼の再現部屋。

 殺人鬼とは、本能で人を殺す。

 本能で人を殺す、人でなし。

 だから、それに理由をつけようとする。

 後付けで。あとがきで。後載せで。

 己が人間であると主張するかのように。

 人は理由があるから、人を殺す。

 だから、理由があれば自分たちも人である。

 理にかなってはいる。真理ではないルール。

 彼は、それに囚われていた。

 彼は、自分が分からない。

 この部屋には――殺人鬼の個性に満ち溢れているこの部屋には、彼の個性はない。

 彼の落とし穴のような黒い目は――空っぽな目は、どこも見ていなかった。

 ああ、ああ。その顔がどんな顔か、私は知っている。

 なにせ、さっきまで私がしていたであろう顔と、そっくりに違いないからだ。

 不幸せそうな――今にも死んでしまいそうな目。

 だから。思わず。

 私は彼の手を握っていた。

「あなた言ったよね。私が人を殺さないようにしてくれるって」

 私は冨岳の手を両手で包み込むように握りながら、彼の顔を見た。

「言ったよね?」

「あ、ああ。言った。そんなに人を殺すのが嫌なら、僕を殺そうとし続ければいいって。僕は殺せないから」

「だったら、生きててよ。死んでたら、殺せない」

「……………………」

「私から冨岳に渡せるものは多分ほとんどないと思う。冨岳の『どうして』も、今の私には分からない。でも、言ったからには、そう決めたからには、生きてよ。私のために生きてよ。私は、冨岳のために生きるから」

「……僕のために?」

「そう。冨岳のために。一人じゃあ分からなかった『あなた』を、私がいつか見つけれるかもしれない」

「本当か?」

「嘘かもしれない。でも、目は二つよりも四つの方が沢山見れるでしょ?」

「かもな」

 彼は笑った。下らないギャグに笑うように。

「誰にだって幸せになる権利はある。でしょ? 私が、あなたを幸せにしてみせる。だから、あなたは私を幸せにして」

「…………なんだかそれ、結婚式の誓いみたいだな」

「へ?」

「健やかなるときも病めるときも幸せなときも困難なときも富めるときも貧しきときも~みたいなあれ」

「死がふたりを分かつまで?」

「僕らの場合、殺してしまうまで。かもしれないけどな」

 私の顔は一気に紅潮した。

 ……でもまあ、べつに、それでもいいかもしれない。

 私自身、彼のことはそれほど嫌いではない。

 とはいえ、ゲラゲラ笑われるのは癪に障るので、膝を何度も踵で蹴った。

 すっきりしたところで、私は彼の手をもう一度強く握って顔を見あげた。あざとい顔になってしまったかもしれない。胸がドキドキする。まるで告白の答えを待っているみたいだ。いや、まるでではないか。ずっと一緒にいようって、そう言っているのだから。

「で、どうするの?」

冨岳は、ほおをかきながら苦笑している。

心臓が爆発してしまいそうだ。ぷるぷると体が自然に震えてくる。

そんな私をみて、冨岳はぷっと吹き出してから、涙を拭うようにしながら、こう答えた。


「僕の方からこそ、よろしくお願いします。幸せにしてください。幸せにしてみせます」

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殺人鬼は微笑みを浮かべ愛を誓った 空伏空人 @karabushi

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