眼鏡と素顔と先輩と私
佐伯先輩に告白されてから、二ヶ月ほどが経った。
いつも強引な佐伯先輩だけれど、私が踏み込んでほしくないラインは決して越えてこなかった。
三年前、社会科資料室でもそうだったように。
佐伯先輩のいる日常に、不本意ながら慣れてきてしまっている。
「篠塚って、どのくらい目が悪いの?」
そんな質問をされたのは、ご飯を食べ終わってすぐのことだった。
昼休みはだいたい、私と私の友だちの沙耶佳と先輩、三人で一緒に裏庭のベンチでご飯を食べる。
今日のように、沙耶佳が変な気を回して先輩と二人きりにされることも、少なくはなかった。
「両目共に0.1ありません」
「え!? けっこう悪いんだね。大変じゃない?」
私の答えに、佐伯先輩は心配そうに顔を覗き込んできた。
別に病気でもないのに、と私は苦笑してしまう。
「慣れましたから。眼鏡があれば別に、そんなに大変でもないですよ」
「そういうものなんだ……」
はー……と佐伯先輩は感心したように息を吐く。
眼鏡をかけたことのない人には、たしかにわかりにくい感覚だろう。
私は小学五年生のときから眼鏡をかけているから、もう眼鏡は顔の一部のようなものだ。
寝るときとお風呂に入るとき以外はほとんど外さないから、眼鏡をかけていないときのほうが違和感がある。
「佐伯先輩は目がよさそうですね」
明朗快活な佐伯先輩には、眼鏡をかけそうなイメージはない。
似合わないかというとそういうわけではなくて、かけたらかけたでまた違う格好よさがあるような気はするけれど。
特別読書が好き、ということもなく、携帯やパソコン画面をずっと見ているということもない。
遺伝的な問題さえなければ、目が悪くなる要因だってなさそうだ。
ちなみに私は、遺伝的な問題と本の読みすぎが原因だった。
「ああ、うん。両目ともAだよ」
「うらやましいですね」
「やっぱりうらやましいんだ」
「それはもちろん、裸眼で生活できるのはうらやましいですよ。慣れてるとはいえ、眼鏡が邪魔だなって思うこともないわけじゃありませんから」
眼鏡をかけていると、多少ではあるが視界が狭まる。
眼鏡がくもるたびに拭かなければならないし、雨の日には眼鏡に雨粒がついて見えにくくなってしまう。
裸眼で過ごせるなら、それに越したことはない。
「目が交換できたらいいのにね」
「ずいぶんとグロテスクな発想ですね」
「……リアルに考えると、たしかに」
私のツッコミに、佐伯先輩も顔をしかめてつぶやく。
わざわざ真面目に考えることなんてないのに。
私の言葉をなんでもそのまま受け止める佐伯先輩に、つい私も言いたいことを言ってしまう。
なんだかんだで、こうして佐伯先輩と話しているのは楽しくて。
佐伯先輩の人のよさに、甘えてしまっている自分がいる。
これも佐伯先輩の作戦なのだとしたら、恐ろしい。
「ねえねえ、篠塚」
「なんですか?」
隣に座っていた佐伯先輩は、ぐいっと顔を近づけてきた。
私は少し身を引きつつ、先輩に尋ねた。
「眼鏡、ちょっと貸して」
にんまりとした笑顔で、佐伯先輩はそう言った。
その表情からは、抗いがたい何かを感じる。
「……はぁ。壊さないでくださいよ」
キラキラとした瞳に負けてしまった私は、ため息をつきつつ眼鏡を外した。
それを手渡しながら、注意を促す。
佐伯先輩なら大丈夫だとは思うけれど、眼鏡の扱いには慣れていないだろうから、一応だ。
わかった、と満面の笑みで佐伯先輩は眼鏡を受け取る。
早速、それを耳にかけた先輩は、すぐさま眉をひそめた。
「うわ~、きついね、これ」
「私の視力に合わせてありますからね」
視力が1.0以上ある先輩は、もちろん眼鏡をかける必要なんてない。
0.1以下の私の視力に合わせている眼鏡なんて、合うはずがないのだ。
あまり長い間かけていると、目を悪くする危険性もある。
そろそろ返してもらおうかと思っていると、佐伯先輩は眼鏡を外した。
「……頭がくらくらする」
「当然です」
片手で頭を押さえながらそうこぼした先輩に、私は冷静に突っ込む。
人の眼鏡を借りたって、楽しいことなんか何もないのに。
それでも貸してと言ったのは佐伯先輩なんだから、自業自得だ。
「眼鏡、ありがと」
そう言って佐伯先輩は私に眼鏡を返そうとする。
手を出して受け取ろうとした私を、先輩はふと何かに気づいたようにじーっと見てきた。
「なんですか?」
強い視線に、居心地の悪さを覚えながら問いかける。
眼鏡はまだ佐伯先輩の手の中にある。
返してもらえないと、至近距離にいる先輩の顔すらはっきりとは見えないというのに。
わずかに眉をひそめた私にも気にせず、ぼやけた視界の中、佐伯先輩はふふっと笑ったように見えた。
「眼鏡取った篠塚って、新鮮だなぁって思って。かわいい。惚れ直しちゃった」
やわらかな笑顔で、甘やかな声で。
そんなことをさらりと言ってしまう佐伯先輩は、本当に天然タラシだと思う。
ぶわぁっと、顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。
全身が茹で上げられたみたいに熱くなって、心臓がドキドキと大きな音を鳴らし始める。
簡単に平常心を失わされてしまうのが悔しいのに、どうすることもできない。
「な、何言ってるんですか……!」
結局、私は反論にもなっていない言葉を返すことしかできない。
赤くなった頬では、動揺しているのはバレバレだろう。
「ライバル増やしたくないから、他の人の前では眼鏡取っちゃダメだよ」
佐伯先輩は両手で眼鏡のつるを持って、私に眼鏡をかける。
明瞭になった視界の先、佐伯先輩はとても魅力的な笑みを浮かべていた。
いつも、こんな笑顔をどうやって真っ正面から受け止めていたのか、わからなくなるくらいにまぶしい。
これ以上目を合わせていられずに、思わず顔を背けてしまった。
「……先輩こそ、眼鏡が必要な気がしてきました」
佐伯先輩のような変わった趣味をした人なんて、早々いない。
私が眼鏡を取ったくらいで、ライバルが増えるわけがないじゃないか。
もしそんなふうに見えているのだとしたら、佐伯先輩にこそ眼鏡が必要だ。
いや、むしろ、私がかわいく見えるという色眼鏡を外させるべきなのかもしれない。
「思ったままを言っただけなのに」
「じゃあ先輩の目は節穴なんですね」
眼鏡のずれを両手で直しながら、私は憎まれ口を叩く。
すると、佐伯先輩の手が頬に添えられ、彼のほうを向かされた。
真剣な色をした、真っ黒な瞳が、私を映している。
「本当のことだよ。篠塚はかわいい。信じてくれなくてもいいけど、俺がそう思っていることは否定しないで」
熱のこもった声が、鼓膜を震わせて、心の奥底にまで届く。
まなざしから、頬に触れた手から、佐伯先輩の想いが伝わってくるようで。
じわり、じわりと、形容できない何かが胸に広がっていく。
その正体は、今の私には理解できないものだった。
「……わかりました」
ただ、真剣な言葉には真剣な答えを返さなければと。
私は小さな声で、けれどしっかりと、そう告げた。
佐伯先輩の想いを疑ったことなんてない。
それはたしかに、どうしてこんな私のことを、と思う気持ちがまったくないと言うと嘘になるけれど。
佐伯先輩はいつもまっすぐ想いをぶつけてくる。
瞳も、声も、表情も、そのどれもが本気そのもので。
先輩の言葉は私の心を揺り動かす。
眼鏡をかけていなければよかった、と私は少しだけ思ってしまった。
そうしたら、佐伯先輩の真剣なまなざしを見ないですんだのに。
見てしまったら、見なかったふりはできない。
佐伯先輩の恋心が、伝わってきてしまう。
そうして少しずつ、佐伯先輩は私の心の中で、大きな存在になっていくのだ。
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