第二話 三年前の先輩と私の出会い

 三年前、まだ中学一年生だった私は、昼休みと放課後に、社会科資料室で本を読むのが日課だった。

 本の虫の私としては残念なことに、中学校の図書室にはうるさく騒ぐ数人の男子がいたのだ。

 その男子たちは見た目が怖くて、図書委員は注意することができなかった。

 たまに様子を見に来る先生に注意された直後だけ静かになり、先生がいなくなるとまた騒ぎ出す。

 自然と、図書室で本を借りたらすぐにその場を立ち去るようになっていた。


 私が社会科資料室に目をつけたのは、偶然に近かった。

 どこか静かに本を読めるところはないだろうかと探していて、その部屋の扉に鍵がかかっていないことに気がついた。

 そこは、資料室とは名ばかりで、物置部屋のように雑然としていた。

 中には椅子なんてものはなかったけれど、窓のすぐ近くにある低くて大きな机に、ちょうど人が座れそうなスペースが空いているのを見つけた。

 一階にある社会科資料室は裏庭に面していて静かで、周囲に教室はなく、たまに廊下を通る生徒の声が聞こえてくるくらい。

 読書に集中できる、いいところを見つけた、と私は思っていた。


 二学期になったばかりのころ、その日も同じように社会科資料室で本を読んでいた。

 行儀悪く机の上に座って、図書室で借りた推理小説のページをめくる。

 背を預けられるところがないのは少しつらいけれど、この静かな空間は何物にも代えがたい。

 夢中で文字を目で追っていると、窓の外から足音が聞こえてきた。

 日差しは入ってこないものの残暑で室内は蒸し暑く、窓を全開にしていたのだ。

 やがて足音はやみ、代わりにドスンと音がする。

 足音の主はどうやら壁に寄りかかって座ったようだ。


「あー、もう、むかつく」


 すぐ近くから、その声は聞こえた。

 社会科資料室の窓の真下に座っているんだろう。


「俺は女でも同性愛者でもないっての。男に告白されてうれしいわけないだろ」


 大きな独り言だ。

 声変わり前の高めの少年の声。

 聞いているだけで、彼の苛立ちが伝わってくるようだった。

 目の前にいるわけでもないのに全部丸聞こえで、いたたまれなくなってくる。


「俺だって、こんな顔に生まれてきたかったわけじゃないのに……」


 悔しそうなつぶやきのあとに、ため息が聞こえた。

 なんとなく、窓の下の少年が誰だかわかったような気がする。

 男に告白されるほどの外見をしている男子なんて、そうはいない。

 直接交流はないが、噂では聞いたことがある。


「女としてはうらやましいですけどね」

「!? だ、誰!?」


 思ったままを告げると、少年は立ち上がってきょろきょろとした。

 残念、外ではなく後ろの窓の中です。


「一年二組、篠塚しのづか美知みちです。すみません、聞こえちゃいました」


 私は仕方なく立ち上がり、窓の外に顔を出す。

 ようやくこちらに気づいた少年は、驚きの表情で私を見上げた。

 彼の顔がだいぶ下のほうにあるのは、もちろん立ち位置的なものもあるけど、身長が低いせいもあるだろう。

 やっぱり、彼は予想していたとおりの人物だった。

 三年一組、佐伯さえき一哉かずや

 女の子のようにかわいいと、校内で有名な人。


「……誰もいないと思ってた」

「ここ、私のいつもの休憩場所なので」

「そこってどこ? 勝手に入っていいの?」

「社会科資料室です。駄目かもしれないので、黙っていてくださいね、先輩」

「わかった」


 口の前で人差し指を立てながら言うと、先輩は淡く微笑んでうなずいた。

 そんな表情も中性的というか、一歩間違えると女性的。

 かわいいと噂されるのもわかるというものだ。


「それにしても、本当にきれいな顔をしていらっしゃいますね」

「……うれしくない」


 佐伯先輩はむっとした顔をした。

 不機嫌そうな顔すらかわいらしくて、全然怖くない。

 見下ろしているという位置関係もあり、相手は二年年上の先輩だというのに、私はいつものペースを崩さずにいられた。


「どうしてですか? 褒め言葉は素直に受け取っておけばいいのに」

「男にきれいとかかわいいとか、おかしいだろ」

「そうでしょうか? 少なくとも、容姿において特に優れているということですよ」

「……なんか、毒が含まれてない?」

「気のせいです。別に先輩が見た目だけの人だなんて言ってませんよ。見た目だけなら、こんなに人気者になるのは難しいでしょう」


 噂でしか聞いたことはないけれど、佐伯先輩の人気はすごいらしい。

 目を引く容姿に加えて、いつも明るく元気。男子や女子、仲がいい人とただの顔見知り、そういった差別をすることなく、誰にでも手を差し伸べる優しさ。

 私のクラスでも佐伯先輩に助けられた人が数人いて、だから噂で聞いたのだ。

 佐伯先輩の噂で、悪いものは一つもなかった。


「人気者、ねぇ。みんな俺で遊んでるだけじゃないか」


 佐伯先輩は皮肉げな笑みを浮かべてみせた。

 どうやら人気者には人気者なりの悩みがあるらしい。

 男から告白されて云々と言っていたから、きっと男子からからかい混じりに告白されたんだろう。

 本気だったらそれはそれで困ったことになりそうで、冗談でよかったんじゃないかなと私なんかは思うけれど。

 からかわれた側としては、そう思えないのも当然か。


「からかう人は、先輩のことがうらやましいのかもしれないし、妬ましいのかもしれないし。もしかしたら好きな子をいじめたい精神なのかもしれません。あとは、周りに合わせて悪ノリしちゃっている人もけっこういると思いますよ」


 慰めるつもりなんてなく、ただ私の考えを口にする。

 からかいというものは、度をすぎて相手が不快に感じればいじめと変わりない。

 でも、たいていはそんなことには気づかずに、悪気なく人をからかう。

 これくらいどうってことないだろう、と思いながら放った言葉が、どれだけ相手を傷つけるものなのか考えもせずに。

 特に、集団意識が絡んでくると恐ろしいものだ。


「そういうものなの?」

「さあ。私はその人たちではないのでわかりません」

「そりゃあそうだね」


 佐伯先輩は苦笑して、それからため息をつく。

 悩みは深いらしいということが見て取れた。

 慰めの言葉は苦手だ。

 それに、一時の慰めを彼が必要としているとも思えない。

 どうしたもんかと考えていると、とある言葉が頭をよぎった。


「先輩、少女パレアナというお話をご存じですか?」

「いや、知らない」


 聞いてみると、先輩は不思議そうな顔をしながら首を横に振る。

 まあそうだろうな。知名度はそこまで高くない。

 世界名作劇場にもなったことがあるけれど、題名が違うから、原作を知らない人も多いだろう。


「主人公の少女パレアナは、父に教えてもらった『よかった探し』という遊びをいつも実践しているんです。絨毯も絵も飾っていない屋根裏の部屋で住むことになっても、鏡がないから自分のそばかすを見ないですんでよかった、窓の外の景色がきれいでよかった、といったように」


 頭をよぎった言葉は、『よかった探し』。

 私はこの本を読んでから、小さなことでイライラすることがなくなった。

 もちろんどんなときでも適応できるわけじゃないけれど、よかった探しは気持ちをプラスに持っていく効果がある。


「先輩はその見た目で苦労していることも、嫌な気持ちになることもあるでしょうが、よかったことだってないわけじゃないと思います。パレアナを見習って、よかった探しをしてみてはいかがですか?」

「よかった探し……」


 私の提案に、佐伯先輩は目をまん丸にさせながら小さくつぶやく。

 少しは佐伯先輩の気持ちを上向かせられただろうか。

 他人の言葉に傷つかない、というのはどうやったって無理だと思う。誰だって自分を否定されたり、自分を笑われたりすれば傷つく。

 でも、よかった探しをすることで、その傷を浅いものにすることはできるはずだ。

 もちろんこれは私が彼の今までの苦労を知らないからこそ言えること。お前に何がわかると怒られても不思議じゃない。

 けれど佐伯先輩は素直な性格をしているらしく、怒るどころか真剣に聞き入っていた。


「私の憩いの場で辛気くさい空気を放出されるのが耐えられなかったので、思わず差し出がましい口を利いてしまいました。後悔はしていませんが、もし気分を害したならすみません。これからは、落ち込むなら別の場所でどうぞ」


 最後にそう締めくくって、私は頭を下げた。

 けっこうな高低差があるから、そうしても佐伯先輩の顔は見えるんだけども。

 佐伯先輩は何度かまばたきしてから、急に笑い声を上げた。


「ははっ、君っておもしろいね」


 それはどうも。褒められている気はしませんが。

 何はともあれ佐伯先輩の笑顔を取り戻せたのはよかったことだろう。私の言葉に笑ったのだとしても。

 うん、よかった探し、大事。


「別の場所で、か。でも、俺はここがいいな」

「……はあ」


 笑顔でそうのたまう佐伯先輩に、私は微妙な表情をするしかない。

 別にここは私専用の場所ではないし、来たいなら来ればいいと思うけど。

 佐伯先輩がまたここに来るなら、私は場所を変えたほうがいいんだろうか。


「ねえ、篠塚、だっけ? いつもここにいるの?」

「昼休みや放課後は、だいたい」


 どうしてそんなことを聞かれるのかはわからなかったが、正直に答えた。

 年の離れた妹と弟がいるため、家では静かに本を読める時間が少ないのだ。

 もちろん放課後に部活がある日もあるが、私の所属する書道部は運動部よりは活動が少ない。


「じゃ、また来るよ。知ってるみたいだけど、俺は三年の佐伯一哉。たまにでいいから話に付き合って」

「……それでは読書ができないのですが」

「休憩も大事だよ」


 にこっと笑う佐伯先輩は大変かわいらしい。クラスでかわいいと言われている女子よりもかわいいかもしれない。

 これは人気者にもなるわけだ、と思った。

 こんなふうに笑いかけられたら、ほとんどの人は好印象を持つだろう。

 現に私だって、嫌な感じは受けなかった。

 この静かな空間は大事なものだったはずなのに、ほだされてしまうくらいに。


「なるべく、読書の邪魔はしないと約束してくれるなら」


 私の言葉に、佐伯先輩は大きくうなずいた。


「約束するよ!」


 佐伯先輩は朗らかな表情でそう言った。

 まぶしいほどの笑顔は、やっぱりとてもかわいらしかった。




 三年前のこの日、こうして先輩と私は細いつながりを持つことになった。

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