第六話 三ヶ月前の先輩と私の新展開

 学年が違うにも関わらず、不思議なほどに佐伯先輩との遭遇率は高かった。


「やあ、篠塚」


 昼休み、担任の先生に頼まれた雑用を終えて教室に戻る途中、だいぶ聞き慣れてきた声に呼び止められた。

 声のしたほうに目をやると、佐伯先輩は窓から顔を覗かせ、ひらひらと手を振っていた。

 どうやら中庭で昼休みを過ごしていたらしい。


「こんにちは、佐伯先輩」

「うん、こんにちは」


 窓に近づきながら挨拶をすると、にこやかな笑顔と共に挨拶が返ってくる。

 すっかり大人びた佐伯先輩の風貌にも、この一ヶ月ほどでだいぶ慣れた。

 慣れるくらいの回数、先輩と出くわしているとも言う。

 最初のころは、卒業式の日の告白を思い出して、どう接したらいいのかわからずにぎこちなく受け答えをしていた。

 それでも佐伯先輩は変わらず優しげな笑顔で、あのころのように積極的に話を振ってくれた。

 そのおかげで会うたびに気まずさは薄れ、今では普通に会話することができるようになっていた。

 あの告白を忘れたわけではないだろうけれど、佐伯先輩にとっては、きっとただの思い出になっているんだろう。

 それなら私も変に身構えたりせず、ただの後輩として接すればいいだけだ。


「この高校で憩いの場は見つかった?」


 窓枠に両腕を乗せた佐伯先輩は、茶目っ気を込めた表情でそう聞いてくる。

 中学生のとき、私が社会科資料室を憩いの場と呼んでいたことを覚えていたようだ。


「まだ、特には。中学のときとは違って図書室が静かなので、しばらくはそこでいいかと思っています」


 年齢が上がっただけでなく、進学校ということもあり、静かにすべき図書室で馬鹿騒ぎをするような生徒はいない。

 高校の図書室は、当然のことだが中学校と比べると蔵書が多い。

 専門的な本が増えたことも、雑食な私としてはありがたい。

 実はこの学校を選んだ理由の一つに、図書室の蔵書数が県で一二を争うほどだからということもあったりする。

 図書室で借りた本をその場で読んだり、教室で読んだり、家に帰ってからも読んだり。最近はそんな感じだ。

 妹と弟も少し大きくなってさすがに学習したのか、私の読書の時間を邪魔することはだいぶ減った。


「おすすめの場所があるんだけど、知りたい?」

「教えていただけるのなら」


 首をかしげながら私を見上げる佐伯先輩に、一つうなずいて答える。

 本を読むのに適した場所があるなら、ぜひとも知りたい。

 図書室で読むのも教室で読むのも嫌いではないが、人の気配に気が散ることもないわけではなかった。


「裏庭。ベンチが置いてあるんだけど、全然人が来ないんだ」

「今度行ってみます」


 いいことを聞いたと思い、私は笑みを浮かべてそう言った。

 それにしても、中学生のころといい、今といい、佐伯先輩は裏庭が好きなんだろうか。

 前庭や中庭と比べると、裏庭というのはあまり整えられていないことが多い。

 そんな密やかさが、心を休めるのにはちょうどいいのかもしれない。

 いつも元気な佐伯先輩だって、笑顔でいられないくらい疲れることはあるだろうから。


 笑い合っているうちに、ふと、過去に戻ったような感覚がわき起こった。

 窓越しに佐伯先輩に見上げられていると、ここが社会科資料室で、私たちはまだ中学生、というような錯覚を起こしそうになる。

 あのころと違うのは、今のほうが佐伯先輩の顔が近いことだろうか。

 それだけ佐伯先輩の身長が伸びたのだと思うと、成長期というのはすごいと思う。


「ねえ、篠塚」

「はい?」


 落ち着いた声に名前を呼ばれて、返事をする。

 佐伯先輩は真っ黒な瞳を優しく細め、私を見つめる。

 なぜか、佐伯先輩も私と同じ感覚を味わっているのだと、確信があった。

 時間が、巻き戻る。

 あの、卒業式の日へと。


「やっぱり、無理だ」


 不意にうつむいた佐伯先輩は、そうつぶやいた。

 小さく、かすれた声で。

 風にかき消えそうなほど頼りない声は、それでも私の鼓膜を揺らした。


「……佐伯先輩?」


 私は腰をかがめて彼の顔を覗き込もうとする。

 佐伯先輩がどんな顔をしているのか、気になった。

 いったい何が無理なのだろうか。

 もしかして私は、知らずのうちに佐伯先輩に無理をさせてしまっていたのだろうか。


「篠塚」


 もう一度、名前を呼ばれる。

 今度は返事を返すことができなかった。

 顔を上げた佐伯先輩が、私を射抜くような強いまなざしで仰ぎ見てきたから。

 この瞳には、見覚えがあった。

 卒業式の日に、告白をしてきたときのものだ。

 ドキッ、と鼓動が大きく高鳴った。

 予感のようなものが、胸のうちに広がっていく。

 もしかして、先輩は今も……。


「やっぱり俺は、篠塚が好きだよ」


 私の予感を裏づけるように、佐伯先輩はゆっくりと言葉を紡いだ。

 一つ一つの音を、そこに込めた想いを、大切にするように。

 落ち着いた低音が、私の耳を通って、心にすとんと落ちてくる。


「忘れようって、忘れられたって思ってたけど。こうやって目に入る範囲にいるんじゃ、そんなの無理だ。あのときと同じ、ううん、それ以上の想いがあふれ出てくる」


 先輩は熱に浮かされたように切々と語る。

 感情のこもった声は、キャンディーよりもチョコレートよりもなお甘い。

 深い想いを宿した瞳から、目がそらせない。

 奥まで引き込まれてしまいそうで、少し怖くなった。


「そこ、動かないで。絶対に」


 佐伯先輩は真剣な表情でそう言い残し、身をひるがえす。

 窓の外に薄茶の髪が見えなくなった。

 先輩に言われなくても、金縛りにあったように身動きが取れなかった。

 待っている時間は永遠のように感じられた。実際には二分か三分くらいなのだろうけれど。

 廊下の向こうから駆け寄ってくる佐伯先輩の姿が見えたとき、無意識に詰めていた息を吐き出した。それで初めて、自分がちゃんと呼吸できていなかったことに気づいた。


「よかった、いてくれて」


 私の目の前までやってきた佐伯先輩は、やわらかな微笑みをこぼす。

 ここまで走ってきたはずなのにまったく息を乱していなかった。

 陸上部なのだから当然だろうか、なんて関係のないことを考えて気をまぎらわそうとするが、うまくはいかない。

 何も言葉を返せずに、ただ佐伯先輩を見上げる。

 そうして今さらながらに気づく。これは、あの日の再現ではないのだと。


 あの時は、こうして彼を見上げたりはしなかった。

 あの時は、こうしてなんの障害物もなしに向き合ってはいなかった。

 佐伯先輩の手が、そっと私の頬を包み込む。

 あの時は……こうして直接ぬくもりを感じたりはしなかった。

 卒業式の日の記憶とずれが生じて、現在へと意識が戻ってくる。

 私は今、たしかに、佐伯先輩に告白されている。


「あの時も、こうしてればよかった。窓越しじゃなくて、真っ正面に立てばよかった。手を、伸ばせばよかった」


 先輩は話しながら、すらりとしたきれいな指で、目尻やこめかみをなぞっていく。

 くすぐったさを覚えながらも、私はその手を拒絶できない。

 佐伯先輩の触れ方がとても優しかったから。

 大切な宝物を扱うような手つきに、まるで壊れやすい芸術品にでもなったかのような気分になる。

 少しでも力を入れたら傷がついてしまうとばかりに、慎重に触れてくる指に嫌悪感は欠片もわかず、私はされるがままになっていた。


「篠塚はまだ、恋愛には興味ない?」


 私はわずかに迷いながらも、こくりとうなずく。

 恋愛を身近なものに感じないのは、あのころと変わらない。

 体験したことのない想いは、想像することもできないために、興味を持てない。

 小説の中で描かれている恋愛は、キラキラとしていて、砂糖菓子のように甘くて、けれど苦くて切なくて。

 それほど浮き沈みの激しい感情なんて、面倒くさいとさえ思ってしまう。


「でも、俺はもう、そんな言葉じゃ納得してあげられない」


 苦笑した佐伯先輩は頬に触れていた手を離し、代わりに私の手をすくい取った。

 何をするつもりだろうか、と見ている私の目の前で、彼は私の手の甲に口づけを落とした。

 あまりの衝撃に息が止まってしまって、悲鳴すらも上げることができなかった。


「ということで、覚悟してね。篠塚がその気になるまで、全力で口説くから。幸いにもあと一年近く時間はあるんだし」


 佐伯先輩は、にぃっと口端を上げて笑みを形作る。

 それは、いつもの彼の笑顔とは、どこか違って見えた。

 華やかで色気があり、それでいて強い意志を感じさせる、男の顔だった。

 あの時とは違うのだと、今度こそ思い知らされた。

 『告白できただけでもうれしい』なんて、今の彼は言いそうにない。

 本気で、私を口説き落とすつもりなんだと、理解できてしまった。


「こ、困ります……!」

「ごめんね、あきらめて」


 なんとか声をしぼり出しても、すぐにそう言われてしまう。

 佐伯先輩は、あの時のようにあきらめる気はなく、今度は私にあきらめさせるつもりらしい。

 いったい何をあきらめろと言うのか。平穏な日々? 口説かれること? それとも、あきらめて落ちてきなさい、という意味?

 きっとそのどれもが間違ってはいないのだろう。

 会わなかった二年の間に、佐伯先輩はどうやら、予期せぬ方向へとパワーアップしてしまっていたようだ。

 逃げきれるのか、逃げきりたいと果たして自分は思っているのか。

 それすらも今の私にはわからない。


 そのときの私はいっぱいいっぱいで、気づいていなかった。

 今回の先輩の告白と、二年前の卒業式の日の告白との最大の違いに。

 そこが人の目のない社会科資料室ではなく、人通りの多い昼休みの廊下だということに。

 佐伯先輩の言葉だけで許容量を超え、周りに気を配る余裕なんてまったくなかったために、気づけなかった。

 もっとも、気づいていたとしても、どうすることもできなかったが。


 それに気づいたのは、明けて次の日のこと。

 妙に視線を向けられることを不思議に思った私に、同じクラスの友人の沙耶佳が教えてくれ、やっと知ることができた。

 人気者の佐伯一哉が一年生に片思いしている、という真実そのものの噂のことを。




 三ヶ月前、こうして先輩と私の関係は新展開を見せ、追いかけっこが始まったのだった。

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