第八話 今現在の先輩と私の記念日
二学期が始まって、一週間と少し。
もう秋だと言われても信じられないほどに暑い毎日が続いている。
そんな中、私と佐伯先輩は裏庭へとやってきていた。
これも、先輩に告白されてから習慣化してしまったことの一つだ。
ほぼ毎日、昼休みになると佐伯先輩が教室まで迎えに来て、連れだって裏庭へと向かい、一緒にご飯を食べる。
佐伯先輩が人気者ゆえに、人がいるところだとちょくちょく話しかけられてゆっくりできないのだ。
もちろん先輩にも人付き合いがあるので、昼休みをお友だちと過ごすときもある。
そんなときでも一度は私に会いに来て、今日はごめんねと断りを入れる。
別に彼が来なければ沙耶佳と教室でお弁当を食べるだけだから、気にしなくてもいいのに。
いつも二人きりというわけではなく、たいていは沙耶佳も一緒だ。
というか佐伯先輩と一緒に昼食を食べるようになったのは元はと言えば彼女のせいだ。ちょうど私たちがお弁当を食べ終わるころにいつも教室に訪れる先輩に、どうせなら一緒に食べればいいんじゃないかと誘ったのだ。
当然、私のことが好きだという先輩がその申し出を断るわけがない。
なのに、誘った張本人は、馬に蹴られたくないからなどとのたまい、たまにふらりと姿を消してしまうことがあった。
今日もそんなふうに、佐伯先輩が教室に来たときには沙耶佳はどこかへ行ってしまっていた。
佐伯先輩は「気を利かせてもらっちゃって悪いなぁ」とか言いながらも、どこかうれしそうに見える。
沙耶佳よ、真に気を利かせるべきは特に接点のない先輩ではなく、小学以来の友人ではなかろうか。
「ねえ篠塚、今日でちょうど三年だね」
母の作ってくれたお弁当を開け、どれから食べようかと迷っている私に、佐伯先輩はそう話を振ってきた。
「何がですか?」
なんのことだかわからずに問いかけると、佐伯先輩はピキリと笑顔のまま固まった。
もしかして、地雷を踏んでしまっただろうか。
「……まさか、覚えてないの? 三年前の今日、俺と篠塚は出会ったんだよ」
「そうでしたっけ」
九月なのは覚えていたし、まだ暑かった覚えもある。でも詳細な日時までははっきり記憶していなかった。
よくそんなことを覚えていられるものだ。佐伯先輩の記憶力のよさに感心してしまう。
それを学校の勉強にも活かせたなら、もう少しテストの順位も上がるだろうに。
完璧超人に思える佐伯先輩だが、成績は可もなく不可もなく、らしい。平均点を取るのがやっとなのだそうだ。
まあ、この高校の平均的な学力がすでに高いので、完璧とまではいかずとも佐伯先輩が優秀な人だというのは間違いない。上には上がいるというだけのことだ。
ちなみに私は、今のところは上位二割をキープしている。これからもこの調子でいけるようがんばらなければ。
「ひどいなぁ、俺は一度も忘れたことなんてなかったのに」
「記念日でもなんでもない日を覚えているほうが難しいと思いますよ」
嘆く先輩に、お弁当をつつきながら私はそう返す。うん、やっぱり母さんのだし巻き卵はおいしい。
今日は国で定められた祝日というわけでもなく、わかりやすい語呂合わせだってできない。
マイナーな記念日なら何かしら存在しているだろうが、調べたところできっとすぐ忘れてしまうくらいに特徴のない日だ。
「俺にとっては大事な記念日なんだけどな」
「そんな大げさな」
「大げさなんかじゃないよ。俺の恋が始まった記念日だ」
佐伯先輩の熱のこもった声に、一瞬箸が止まる。
顔を上げたら負けだ、と私はカニの形をしたウインナーを親の仇のように睨みながら、口へと運ぶ。
味は、よくわからなかった。
「正確には、恋が始まるかもしれないって思った記念日、かなぁ。一目惚れとはまた違うし」
「なんですか、そのわけのわからない記念日」
思わず突っ込みを入れると、ふっと佐伯先輩が笑った気配がした。
いけない、お弁当を食べることに集中しなければ。
動揺したら敵の思うつぼだ。
相手は巧妙に罠を仕掛けてきている。
箸を持つ手が震えそうになるのを、必死でこらえた。
「だってさ、サラダをおいしいって褒められただけで記念日になるんだよ。この子のことが好きかもしれない、好きになるかもしれない。そして実際、だんだんと好きになっていった。そんな篠塚との出会いが、記念日にならないわけがない」
キャンディーよりも甘く、チョコレートよりも濃厚で、マシュマロよりもやわらかい声音。
耳栓が欲しい、と本気で思った。
顔を見ないようにしたところで、意味なんてなかった。
佐伯先輩の一番の武器は、その声なのだから。
声さえ届けば、表情なんて簡単に想像できてしまう。
それくらいには、私は佐伯先輩のことを知ってしまっている。
きっと、声と同じくらいに甘やかな笑みを浮かべている。
「……先輩って、付き合って一ヶ月記念とか、結婚記念日とか、すごくマメにお祝いしそうですね」
せめてもの反撃というか、少しばかり話の方向を変えてみた。
佐伯先輩に口説かれるようになって三ヶ月。
まだ、私は彼の言葉をそっくりそのまま受け取ることができずにいる。
「篠塚が祝ってほしいなら全力でがんばるよ」
「いえ、いりません。全力で辞退させていただきます」
乗り気の佐伯先輩に、私は即座にお断りする。
というか、先輩はわかって言っているんだろうか。
それを祝うということは、私と付き合ったりだとか、私と結婚したりだとかしなければいけないのだと。
どこまでが天然でどこまでが計算なのかがいまいちわからない。
「篠塚は欲がないなぁ」
「……どうしてそうなるんですか」
はぁ、と私はため息をついた。
先輩はどこかずれている。
それは、私を好きだと言っている時点で、すでにわかっていたことではあるけれど。
どんなに私が拒んでも、のれんに腕押しで佐伯先輩はあきらめない。
甘い言葉と声と表情とで、私を少しずつ着実に追いつめていく。
彩り豊かな野菜炒めを、もそもそと口に含む。
おいしいはずのお弁当なのに、とっくに味なんて感じなくなっていた。
「出会った日のことだけじゃない。俺は、篠塚に関わることならなんだって覚えてる」
佐伯先輩のかすれ気味の低音が、鼓膜を揺らす。
まるで水にインクを垂らしたかのように、私の心に染み渡っていく。
じわり、じわりと。
もう、お弁当を食べていられるだけの余裕もなくなってしまった。
「中学生のときのことも、ここ数ヶ月のことも。篠塚が話してくれたこと、篠塚が何に喜んで何に悲しみ何に怒ったのか、篠塚が今まで見せてくれた表情すべて。ここまで来るとストーカーじみてるけど、俺の耳は篠塚の足音だって聞き分けられちゃうんだよ」
甘やかな声に肌をなでられたかのような感覚がして、心臓が悲鳴を上げた。
さすがに最後のは冗談だろう。たぶん、きっと。
だって、足音なんてみんな大して変わらないものだ。
でも、佐伯先輩の声を聞いていると、不思議と説得力があって。
もしかしたら、本当なのかもしれない、と思えてきてしまう。
「……先輩は、私のことを好きすぎだと思います」
自意識過剰にも思えるようなことを、私は言葉にする。
見てはいけない、とわかっていたのに。
それでも私は顔を上げてしまった。
「うん、そのとおりだよ。だから安心して落ちておいで」
にっこり、と笑う佐伯先輩は。
世界で一番美しい花でも愛でているかのような。
それでいて、罠にかかった獲物を見つめる肉食獣のような。
甘く優しくあたたかく、強引で力強く凶暴な。
なんとも複雑で、この上なくきれいな瞳をしていた。
今現在の先輩と私は相も変わらず、こんなふうに私の防戦一方です。
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