第十二話 今からはじまる先輩と私の甘い恋物語

 恋は、物語の中だけのものだと思っていた。

 私には関わりのないものだと、そう思っていた。

 恋とはなんだろうか。好きとはどんな気持ちだろうか。

 わからなかった。想像もつかなかった。

 考えたところで答えが出るものではないと、そんなことすら知らなかった。


 佐伯先輩のことは好きだ。

 でも、その気持ちは恋とは違うのだ、と。

 ずっと、そう思っていた。

 だけどそれこそ、ただの思い込みでしかなかったのかもしれない。


 私は、佐伯先輩のことが、好きかもしれない。




 ここ数日、気がつくとぼんやりしてしまっている。

 頭の中には佐伯先輩が居座っていて、追い払おうとしてもうまくいかない。

 熱があるんじゃと思うほどに顔が熱くなったり、病気を疑いたくなるほどに息が苦しくなったり。

 思わず笑ってしまったり、急に泣きたくなったり。

 情緒不安定すぎて、周りにも心配をかけてしまっている。

 沙耶佳だけは、「やっとか」なんて言って、訳知り顔をしていたけれど。


 中でも一番心配してくれているのは、もちろん佐伯先輩だ。

 それは佐伯先輩が心配性だとか、それだけ私のことを大切にしてくれているからとか、そういうことだけじゃなく。

 佐伯先輩を前にしたときが、一番挙動不審だから、というのが大きい。

 まず、佐伯先輩の顔が見れない。目を合わせられない。

 話しかけられてもほとんど言葉を返せない。短い返事や、うなずいたり首を振ったりするのが限度。

 不意に近づかれたら、奇声を上げて飛び退く。それはもう自分でも驚きの反射神経で。

 これまでどうやって接していたのかわからなくなるほどに、私の心は混乱の境地にいた。


 そんな状態で一緒にご飯を食べたり一緒に帰ったりなんて、耐えられるわけがない。

 端的に言うと、私は逃げた。

 一年生と三年生の教室は校舎が違う。佐伯先輩がどんなに急いでも、やってくるまでに数分はかかる。

 その数分の間に、昼休みは国語準備室に逃げ込み、放課後は超特急で帰った。

 登校時は二本前の電車で学校に行き、始業時間までやっぱり国語準備室にご厄介になった。

 国語の先生と仲がよくてよかった。避難所に使わないでと言いつつも、彼女は笑って許してくれた。


 そんな日々も、長くは続かなかった。

 当然と言えば当然だ。

 放課後、一年生の昇降口前。

 先回りしていた佐伯先輩に、私は捕まった。

 険しい表情をしている先輩に強引に手を取られ、裏庭まで連れて行かれた。

 警察に連行される犯罪者はこんな気持ちなんだろうか、とどうでもいいことが思い浮かぶ。

 そうでもして気をまぎらわせていないと、緊張でどうにかなってしまいそうだったから。


「ねえ、篠塚。俺は君のことが好きだ。好きだから、篠塚のためにできることがあるならなんでもしてあげたいと思ってる。悩みがあるなら聞かせてくれないかな? どんなことだっていいから」


 裏庭に来てすぐ、佐伯先輩はそう言ってきた。

 彼らしい優しい声で。私の手を握る力だけは強く。


「それとも、その悩みの原因は……俺?」


 佐伯先輩の声が震えているように聞こえて、私はちらりと彼の顔色をうかがった。

 彼の顔には、めずらしく笑みはなかった。

 眉間にしわを寄せながら、じっと私を見つめてきている。

 痛みを無理やり抑え込んでいるかのような表情に、胸がしめつけられる。

 彼は勘違いをしているのだ。

 私が先輩を嫌厭しているのだと。


 もし、佐伯先輩の気持ちは迷惑だと、私が言ったなら。

 彼はあっさりと身を引くように思えた。

 どんなに傷ついても、どんなに納得いかなくても、それらはすべて飲み込んで。

 先輩は優しい人だから、最後の最後で強引になりきれないだろう。

 自分の気持ちよりも私の気持ちを優先してしまうだろう。

 今まで追いかけっこを続けてきたのは、私がそれを本気で嫌がっていないと気づいていたから。

 佐伯先輩は、そういう人だ。

 そういう人だから……私は……。


「……佐伯先輩が好きだという私は、本当に私ですか?」

「どういうこと?」


 口をついて出てきた問いに、佐伯先輩は問い返してきた。

 一度言葉にしてしまえば、もう後戻りはできない。

 わかっていても、すでに理性なんてどこかへ行ってしまっていて。

 私を好きだという先輩に甘えて、全部ぶちまけたくなってしまった。

 彼の顔を見ないよううつむきながら、心に突き刺さったトゲを吐き出そうと口を開く。


「ノリが悪くて、人に合わせることが苦手で、なのに意志が強いわけでもありません。本ばかり読んでいて、勉強しかできないし、知識はあってもそれを使うことができません。沙耶佳にまでお子さまだなんて言われました」


 佐伯先輩はいつも明るく元気で、みんなに分けへだてなく優しくて、容姿も優れていて、誰もが放っておかない人気者。

 それに対して我が身を振り返ってみれば、欠点ばかりが目につく。

 誰が見たって、私は佐伯先輩にふさわしくない。

 そう自覚しているから、どうしても、先輩に好意を寄せられる自分というものを信じられない。


 好きという言葉が本心からのものなのは、疑っていない。

 好きという気持ちも、本物だということは言葉や態度からよく伝わってくる。

 だからこそ、不思議で仕方がない。

 私のどこにそれほどまで好かれる要素があるのか、まるでわからないから。

 佐伯先輩は私に幻想でも重ねて見ているのではないだろうかと思ってしまう。


「私は、先輩に好きだなんて言ってもらえるような人間じゃないんです……!」


 しぼり出すような声で、私は自らの思いをぶつけた。

 本当の私は、勉強以外何もできない、人見知りで意志の弱いただの子どもだ。

 散々恋愛なんて興味ないと言っておきながら、好きだと告げられるたび浅ましくもうれしいと感じてしまうような。

 ずるくて、臆病で、彼の好意に甘えてばかりの。

 どうしようもない人間なのだ。


「だから、佐伯先輩には、私なんかよりもっとずっと――」


 お似合いな人がいますよ、と最後まで言わせてはもらえなかった。

 強い力で手を引かれ、ぎゅっと抱きしめられたから。

 私を囲い込む腕の力は弱くはない。

 逃がさないように、というよりも、それはまるで外敵から私を守るかのような力強さで。

 心臓が口から飛び出そうなほどにドキドキしだす。


「お願いだから、自分のことを悪く言わないで。そんな篠塚が俺は好きなんだよ」


 佐伯先輩の声は、甘くて、熱くて。

 ホットチョコレートのようだと思った。


「いつも冷静で、ちゃんと自分を持っていて、でも我が強すぎるわけじゃなくて人の話も聞いてくれる。本の扱いが丁寧で、物語を愛していて、本に夢中になりながらも学生の本分も忘れない。応用力がないのはこれから少しずつ覚えていけばいい。お子さまでもなんでも、俺は篠塚が好きだよ」


 彼の言葉は、私の心をあたため、癒してくれる、特効薬。

 じんわりと全身に広がっていく。

 胸の奥から喜びがわき上がってきてしまって、止まらない。


「なんで、そんなふうに言ってくれるんですか」


 きゅ、と佐伯先輩の服を弱い力で握り込む。

 放してほしいだなんて、欠片も思えなかった。


「篠塚が言ったんじゃないか、よかった探しをしてみたらいいって。あの言葉のおかげで、俺はいつも余裕を持つことができるようになった。どんな出来事にも、どんな人にでも、いいところはあるんだって思えるようになった。だから俺は、篠塚のいいところをたくさん知ってるよ」


 私の顔を上向かせ、佐伯先輩は目と目を合わせて話し聞かせた。

 よかった探し。懐かしい言葉だ。

 あの助言をしなかったら、今の先輩との関係はなかったのかもしれない。


「最初は、淡々とした様子に好感を持っただけだった。俺は基本感情的にしか物事を考えられないからね。篠塚みたいに冷静に分析できるのは憧れたし、そういう人が近くにいれば、俺も少しは落ち着けるかなって思った」


 穏やかな、優しい声で佐伯先輩は語り出す。

 私の知らない、あの時の彼の心情を。


「一緒の時間を過ごすようになってすぐ、篠塚の傍は居心地がいいことに気づいた。冷静に俺の言葉を受け止めてくれる篠塚に、俺は安らぎを覚えた。この子になら、どんな自分も見せられるかもしれない。そう思った」


 過去を懐かしむように、佐伯先輩は目を細めた。

 やわらかな表情は、私との記憶がそうさせているんだろうか。


「篠塚はいつも冷静で、でも冷たくはなかった。ちゃんと俺の話に付き合ってくれた。どれだけくだらない話にも。俺はそれがすごくうれしかったんだ」


 佐伯先輩の唇が弧を描く。

 甘くとろけるような笑みに、魅せられてしまう。


「振られても、篠塚が好きって気持ちは消えてくれなかった。あともう何年後かにはもしかしたら風化していたのかもしれない。でも、そうなる前に、こうして再会できた。陳腐だけど、運命だ、って思ったよ」


 語る声に、私を見つめる瞳に、甘さがにじみ出ている。

 すべて本心からの言葉だということは、充分に伝わってきた。

 もし、これが運命だというのなら。

 私も信じられるだろうか。

 佐伯先輩の想いに、応えることができるだろうか。


「俺の見た目はだいぶ変わったのに、篠塚の態度が変わらなかったことにもほっとした。やっぱり篠塚は、どんな俺も受け入れてくれるんだって。最初は少し気まずそうにはしていたけどね。それだって、あの時の告白をなかったことにされてないってことだから、うれしかった。他のことなんて考えられないくらいに、俺の頭の中が篠塚でいっぱいになった。もっと一緒にいたい。笑顔を見たい。触れたい。抱きしめたい。キスしたい。篠塚を独り占めしたい。会うたびに想いは増していった」


 佐伯先輩は片腕で私を抱き寄せたまま、もう片方の手で私の頬に触れた。

 ぬくもりが直に伝わってきて、心に絡まった茨を優しくほどいていく。


「もう、君じゃなきゃ駄目なんだ……って、確信した」


 私を抱く腕に力が込められた。

 佐伯先輩の黒々とした瞳には、火傷しそうなほどの熱がこもっている。

 私はただそれを、ぼんやりと見返すことしかできない。

 降り注いでくる彼の想いに、埋もれてしまいそうだ。

 それもまたしあわせかもしれない、なんて私は思った。


「篠塚?」

「……なんですか」


 存在を確認するように呼ばれて、返事をする。

 すると佐伯先輩は、ちょっといたずらっ子のような顔をしてみせた。


「――美知?」

「なっ、なんですかっ!」


 驚愕に心拍数が跳ね上がって、声は盛大に裏返った。

 だって、初めてだ。初めて下の名前で呼ばれた。

 佐伯先輩の低く甘い声で、私の名前を。

 平常心でいられるわけがなかった。


「顔、真っ赤っか。ほんとかわいい」


 佐伯先輩は楽しそうに、うれしそうに、くすくすと笑う。

 その指摘に、私はうつむいて彼の胸に額を押しつける。

 顔と言わず全身が茹だるように熱い。

 どれだけ赤くなってしまっているのかなんて、知りたくなかった。


「せんぱいが……すごい、たくさん、恥ずかしいこと言うから……」


 声は情けないくらいに弱々しいものになった。

 佐伯先輩の容赦ない熱に当てられて、頭は沸騰寸前だ。

 それでも、彼の腕の中から逃げようという気持ちは、もうない。

 ひかえめに背中に回した腕の意味は、先輩ならきっとわかってくれるだろう。


「全部知ってほしかったんだよ、俺の気持ち。ちゃんと理解した?」

「……呼吸困難になりそうです」

「それは大変だね。人工呼吸をしないと」


 そう言ったかと思うと、にわかに佐伯先輩は顔を近づけてくる。

 息がかかる距離まで迫ってきた顔に、私はパニックを起こす。


「さっ、佐伯先輩っ!!」

「嫌?」


 あわてる私に、先輩は首をかしげて聞いてくる。

 嫌とか、嫌じゃないとか、そういう問題ではないだろう。

 子犬のような顔をしたって、騙されない。

 佐伯先輩は絶対に、この状況を楽しんでいる。


「順番を守ってください!」


 私は必死になってそう叫んだ。

 論点が違う気もするけれど、混乱した頭ではそれしか反論が思いつかなかった。


「ははっ、順番かぁ。

 真面目だもんね、美知は」


 朗らかに笑って、佐伯先輩はあっさりと顔を離した。

 私を抱きしめていた腕も解き、ぬくもりが遠ざかっていく。

 そのことを寂しいと思ってしまう自分の心境の変化が、恥ずかしくて仕方がない。


「それじゃあ、篠塚美知さん。

 俺と付き合ってくれますか?」


 私に手を差し出して、佐伯先輩は三度目の告白をしてきた。

 やわらかな笑みを浮かべながらも、私を映す瞳は一度目にも二度目にも劣らず真剣そのもの。

 彼はいつだって、こうして私にひたむきな想いを向けてくれていた。

 ありのままの心をさらけ出し、偽りのない言葉をかけてくれた。

 そんな彼に、少しでも返せるものがあるなら。

 私は彼の想いに応えたい。


 好かれる自分が信じられないのなら、信じられる自分になれるよう努力すればいい。

 好きだと言ってくれる彼を拒絶する必要なんて、どこにもない。

 そんな簡単なことに、ようやく気づくことができた。


「私でよければ、喜んで」


 佐伯先輩を見つめ返しながら、しっかりとした声で答える。

 彼の手のひらに、迷うことなく私は自分の手を重ねた。


 その瞬間、先輩は本当にうれしそうに破顔した。

 今まで見たどの笑顔よりも私を惹きつける、輝かしく魅力的な笑顔だった。




 それからしばらくの間、ぎゅうぎゅうと力いっぱい抱きしめられ、なかなか離してもらえなかったけれど。

 ようやく満足したらしい先輩は、帰ろうかと言ってきた。

 てっきり、仕切り直しとばかりにキスされるのではと思っていた私は、肩すかしを食らったようで微妙な気分になった。

 別に期待していたわけではないはずなのに。

 そんな私のもやもやが伝わったのか、佐伯先輩は私の頭のてっぺんにキスを落として、「今はこれだけ、ね」と言った。

 それだけでもドキドキしてしまう私には、まだちゃんとしたキスは早いのかもしれない。

 佐伯先輩は恋愛初心者の私に合わせて、順番を守ってくれるつもりのようだ。


「とりあえず、今日からは手をつないで一緒に帰ろうか」


 そう、甘い声で、甘い笑顔で、彼は言うから。

 はい、と私も笑って答えることができた。




 今ここから、先輩と私の、どんなお菓子よりも甘い恋物語がはじまるのです。

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