3
午前中の社内で、私はいつものように雑務をこなしていた。もちろん、瀬戸君から飛んでくる雑務が大半だ。終わりそうになると次を持ってくるという、雑務のエンドレス。抜け出せない地獄に、やっぱり瀬戸ハラを訴えるべきだと固く誓う。
しばらくして、朝一から大会議室で行われていた会議が終了した。ゾロゾロと社員が出てくると、課長から会議室の後片付けを頼まれる。瀬戸君からの雑務をひょいっと机の端に避け、私は大会議室へと足を向けた。
お盆片手に大会議室のドアを潜れば、中には篠田先輩だけがまだ残っている。
「あ、お疲れ様です」
もう誰もいないと思っていたので嬉しい驚きだ。
ぺこりと頭を下げると、書類を抱えた先輩が笑みを返してくれた。
「いつも悪いな」
「いえいえ。これもお仕事のうちですから」
なんて。これが瀬戸君相手なら、文句をぶーたれているところだけどね。
篠田先輩は、書類とノートブックを抱えてドアへと向かう。社内で交わすたったこれだけの会話だけれど、私の心はウキウキだ。先輩と話が出来ただけで、今日も一日頑張れるというもの。瀬戸ハラなんて、なんのその。
頰を緩ませながらコーヒーカップを次々に手に取り片付けていたら、一旦出て行った先輩が戻ってきた。
あれ? 忘れ物?
書類でも忘れたのかと、すぐさまテーブルや椅子を見渡していたら。
「西崎さん。お昼、空いてる?」
お昼?
訊かれている意味がわからず、思わずキョトンとしてしまう。
「ランチ、一緒にいかない?」
ランチ?
えっ! ランチ!?
篠田先輩と私がランチ?
驚きすぎて、持っていたカップを落としそうになった。
だって、入社してこのかた。さっきみたいな短い会話を交わすことはあっても、ランチなんてそんな大それた事態になどなったことがないのだ。
これは、夢ではないだろうか。実はまだ目覚めていなくて、今ここでほっぺをぎゅうなんて古典的な行動をとってしまったら、自宅のベッドで目を覚ましちゃいそう。
「私と、ですか?」
訊き間違いかもしれないと、思わず自らを指差し再確認。
「そう。西崎さんと」
けれど、否定の否の字もなく飛び切りの笑顔を向けられた。
ヤバイ、秒殺だ。心臓撃ちぬかれて即死です。余りの衝撃に即答できない。
「あれ? 先約でもあった? もしかして、瀬戸?」
「まっ、まさか。ないです、ないです。先約なんて。しかも、瀬戸君なんて、ありえません!」
力を込めてきっぱりと言い切ったら、先輩はおかしそうにクスクスと笑う。
そうしてランチタイムになり、先輩が連れて行ってくれたお店は、なんとあの木山さんのカフェだった。今日も大変な賑わいだけれど、席はかろうじて空いている。
「ここ。女の子が好きな店だって、うちの課の奴等が言ってたんだ」
確かに。ここは、女の子には人気のお店だと思う。見渡せば、七割が女性だ。そもそもメニューが女子受けするものっていうのもあるけれど、木山さん人気も否めない。
だって、木山さんてば、控えめな男前なんだよね。しかも、ただかっこいいだけじゃなくて、仕事柄料理もできちゃうわけだから、付き合ったときの得点としては申し分ないわけで、人気も出るというもの。
この辺りのOL間では、彼氏にしたい男ベスト五入りはかたいと思う。※西崎調べ。
「あ、西崎さん。いらっしゃい」
出入り口に立っていると、私に気がついた木山さんが弾むように明るく声をかけてくれた。一緒に来た篠田先輩が、あれ、知り合い? というような表情を向けてくる中、木山さんが会話を始める。
「昨日は、すみませんでした」
「いえいえ。今日は、座れそうですね」
「はい。ご案内します」
にこりと笑顔をくれたあと、木山さんが私の隣に立つ篠田先輩を見る。
「……お二人、さまですか?」
「はい」
篠田先輩と一緒ということに照れくさくなり、私は目を明後日の方向に向けながら応えた。ちょっとランチに誘われたくらいで、浮かれている自分が恥ずかしいのだ。
「では、奥のテーブル席へ」
木山さんに案内されて席に着き、早速メニューを訊ねる。
「今日の日替わりは、なんですか?」
レモン水をテーブルに置く木山さんを見れば、目じりにしわを寄せ、優しく微笑みながら応えてくれる。
「今日は、シーフードのリゾットにサラダです」
「いいですね、リゾット。じゃあ、私はそれで。篠田先輩はどうしますか?」
壁に掲げてある手書きメニューの黒板に目をやってから、篠田先輩が注文する。
「俺は、ボロネーゼのパスタセットで」
「かしこまりました」
丁寧に頭を下げた木山さんが厨房へと戻ると、その姿を確認するようにしてから先輩が喉を潤すようにレモン水を口にした。
「西崎さん、顔が広いね」
先輩に釣られるようにしてレモン水を口にしながら、私は首を傾げる。
「さっきの店長さん、知り合いなんでしょ?」
「うーん。知り合いっていうか。実はこのお店、結構通ってるんです」
せっかく篠田先輩が誘ってくれたお店が、実は行きつけだったなんて、ちょっと申し訳ない気持ちになった。
「そうなんだ」
「ここの料理が美味しいからって、通い詰めていたせいか、顔を覚えてもらえて」
私は、照れくささに肩を竦めた。
「親しげだったから、元々の知り合いなのかと思ったよ」
「いえいえ。話をするようになったのは、つい半年くらい前ですよ。私があんまりよく来るので、ご近所さん的な親近感が湧いたんじゃないですかね」
「ふーん。彼、厨房担当でしょ? それがわざわざフロアを案内するなんてね」
そういえば、そうだ。篠田先輩に言われて、初めて気がついた。フロア担当の人は他にいるのに、気がつけばいつも木山さんが注文を訊きに来てくれる。
あれ、たまたま?
思わず厨房へ目を向けると、フライパンを振る木山さんの姿が目に入った。ピッと背筋を伸ばして料理を作る姿は、好感度が高い。カウンター席に座っている女性たちは、そんな木山さんの姿に注目しているように窺えた。容姿のかっこよさもそうだけれど、手際のいいスマートな料理の仕方にも注目しているのかもしれない。
「西崎さんの注文をわざわざ訊きに来るのは、本当にご近所さん的なサービスなのかな?」
篠田先輩は、どこか含んだような言い方をする。
確かに厨房担当ではあるけれど、他にも料理を作ってる人はいるし。ここは木山さんのお店なのだから、フロアに出ることがあってもおかしくないと思うんだけど……。そういうことじゃないのかな?
余り深く考えるのは得意じゃないし、ランチ前のハラペコで余計に頭が回らない。今は木山さんが作る美味しい料理を食べてから考えよう。
「お待たせしました」
いつの間にか木山さんが目の前にいて、料理を運んでくれていた。篠田先輩の分と私の分の料理を、それぞれの前へと置いてくれる。
シーフードの食欲をそそる芳しい香りに、自然と目じりが下がる。篠田先輩のボロネーゼもとっても美味しそう。次は私もボロネーゼにしようかな。
置かれた料理とセットのサラダに目をやってから、改めてその大盛り具合に驚いた。振り仰ぐようにしてそばに立つ木山さんを見れば、彼はにこりと目を細める。
「野菜好きの西崎さんへ、サービスです。この前のこともあるので、お詫びもこめて」
他のお客さんに聞こえないよう、木山さんは少し身を屈めてこっそりと付け足した。
「嬉しいです。ありがとうございます」
「どういたしまして」
木山さんが笑顔を残して厨房へ戻ると、篠田先輩がじっと私を見ていた。
「これも、ご近所さん的サービス?」
私の前にある、たくさん盛られた野菜サラダについてのひと言だ。
「えーっと。多分、私がここの手作りドレッシングを、一度絶賛したことがありまして。これがですね、本当に美味しいんですよ。なんなら、スーパーの野菜売り場の野菜、全部いけるくらい美味しいんです。あと、木山さんも言ってましたけど、この前混んでいて入れなくて。だからです、きっと。はい」
篠田先輩に説明しているうちに、なんだかいい訳めいた感じになってきた。なんでだろ?
「とにかく。先輩も、このサラダを食べてみてくださいよ。本当に美味しいので」
先輩のセットについていたサラダを店員さんのように勧めると、彼は苦笑いした後に一口食べて、確かにと頷いていた。その返答に、つい満足な顔をしてしまう。
「ですよねー。本当に美味しいんです。なんなら、このドレッシングだけ売ってほしいくらい」
「西崎さんが言えば、あの店長さんならいくらでもくれるんじゃないのかな?」
「そうですかね?」
ムシャムシャとサラダを食べながら、今度木山さんに訊いてみようなんて考えていた。
「そういえば、瀬戸だけど」
ん? 瀬戸君? なぜここで瀬戸君の話? 楽しいランチの時くらい、あの瀬戸ハラを忘れていたいのに。
「あいつとよく話してるけど、普段も会ったりしてるの? 飲みに行ったりとか」
瀬戸ハラに辟易している私への質問とは思えない内容に、思わず目を見開いた。
「えっ!? ないですよ」
なんてことを言い出すんですか、先輩!! あの瀬戸君ですよ!? あるわけないというより、どうしたらそんな質問が出てくるのか、こっちが訊きたいくらいですよ。これがタイちゃんからの質問だったら、確実にうちへは出禁だね。
「瀬戸君とお酒を飲みに行っても、会社にいる時みたいにこき使われるだけですよ。店員さん呼べとか。料理注文しろとか。その料理を皿に盛れとか」
少し数え上げただけの事が、容易に想像できるから恐い。リアルに使われそうだもん。
捲し立てるように瀬戸君のことを非難していると、篠田先輩はなんだかおかしそうに笑っている。
あ、その笑顔。素敵です。
先輩と二人きりでランチに来ているという事実に、不意に頰がぽっとなる。木山さんや瀬戸君の話で、気持ちがあっちへいったりこっちへいったりとかき混ぜられて、今目の前にある幸せな現実を見過ごすところだった。こんな機会など滅多に無いというのに、私のバカバカ!
「西崎さんて、面白いね」
「へ?」
「いつも元気だし、明るいし。ハキハキとなんでも言っちゃうところもいいよ」
先輩は、何故だか可笑しさを嚙み殺している様子。私のおバカなところが露呈してしまったのだろうか。
「西崎さんと一緒にいると、元気が出てくるよ」
うーん、なんとなく貶されているような、やっぱり褒められているような、なんとも微妙な感じだったので取り敢えず笑顔を浮かべておく。
「あ、その顔だよ」
「え?」
「西崎さんが笑っているのを見てると、細かいことなんかどうでもよくなるんだよな」
そう話す先輩の笑顔の方が、私にしてみたらずっとずっと素敵だと思う。
「瀬戸との事は、よく解った。またあいつに何か言われたら、助けてあげるよ」
「ありがとうございます」
篠田先輩は、やっぱり優しいなぁ。瀬戸君の雑務攻撃から私を守ってくれるなんて。なんだかスーパーヒーローみたいじゃない。だから、モテ男なんだよね。人気あるもんなぁ。
そんな先輩とこうやってランチできてるとは、今日はなんていい日なんだろう。木山さんには、サラダのサービスまでしてもらったし。幸せだなぁ。
なんて浮かれていると、あとで落とし穴があったりするから気をつけなくちゃ。特に、瀬戸君の落とし穴にはね。
それにしても、このシーフードリゾット美味しい。魚介の風味がよく出てるし、チーズも効いている。さすが木山さん。
「リゾット美味そうだね。一口くれる?」
リゾットに夢中になっていたら、片方だけ頰杖をついた先輩がテーブル越しに私を見つめていて、どきりとした。
いや、勘違いしてはいけない。これは私を見つめているわけじゃないよね。リゾットを見ているんだよね。
ほんのり赤くなる頰を気にしつつ、スプーンでリゾットをすくい上げると先輩が口を開けた。
「あーん」
あっ、あーんて。えーっ。これって、食べさせてってこと?
甘えるような仕草に、鼓動がドキドキとはやくなる。
こんな明るいうちから、先輩ってばそんなっ。
動揺していると、再び「あーん」という先輩。
いつものイケてるだけじゃない先輩が、ちょー可愛い。
先輩に甘えられて、心臓が自分でも驚くくらいに速く鳴っている。ドクドクと脈打つ音が、耳のすぐ近くで聞こえるようだ。
けれど、流石にあーんは恥ずかしいですよ。
照れくさすぎて、握っていたリゾットの載るスプーンの柄を、先輩へと差し出した。
「ど、どうぞっ」
すると、にこりと笑って見せる。
「照れてる西崎さんもいいね」
ひゃ─っ。助けてー。嬉しくて恥ずかしくて、椅子ごと天井を突き破って飛んでいきそう。
からかうように言った先輩は、スプーンを受け取り口へと運んで笑った。
イケてる男子には、敵いません。
「ごちそうさまでした」
レジに並ぶと、篠田先輩が財布を待つ私の手を引っ込めるよう促した。
「今日は、俺に奢らせて」
「えっ。そんな、いいです。ちゃんと自分で払います」
「いいって。奢りたい気分なんだ。それに、リゾットも一口貰ったからね」
笑顔で返されれば、先輩のあーんがよみがえり顔が熱い。
顔の熱を必死に抑えていると、篠田先輩は先に外で待っててと私を促した。言われるまま外に出てレジ前に立つ先輩を眺めていたら、木山さんがやってきてお会計をしているのが見えた。
二人はなにやら話をしているようだけれど、会話までは聞こえてこない。篠田先輩も私と一緒で、ご近所さん的に木山さんと親しくなれたのかもしれない。きっと、何度か通ったら、先輩にもサラダのサービスをしてくれるだろう。木山さんは、そういう人だ。
社に戻る途中、いつも忙しい篠田先輩は早速電話で呼び出されて、「またね」と爽やかな笑顔を残し行ってしまった。名残惜しいことこの上ない。
そうして私はといえば、篠田先輩が近くに居ないのをいいことに、社に戻るとまた瀬戸君にこき使われるのでした。
恐るべし、瀬戸ハラ。
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