★刊行記念書き下ろし短編★

彼女と彼等のetcetera



 入社して一年目は覚えることだらけで、たくさんの失敗を繰り返してきた。大学では学べない社会の常識は、思った以上に手強くて、何度も私を凹ませた。


 同期で同じ部署の瀬戸陽平君はとても器用で、もたもたとしている私とは大違いだった。どんどん進んで仕事を引き受けては、自分のスキルを上げている。そんな彼を羨ましく思いながらも余裕すらなく、私は最初の一年を慌ただしくも何とかやり過ごした。


 入社二年目の今年。一年目の時よりは少しだけ余裕もでき、自分の下には後輩もできた。先輩風を吹かせられるほど成長しているわけじゃないけど、後輩から「西崎先輩」なんて呼ばれるのは満更でもない。


 そんな二年目の春。只今西崎葵は、青空と八分咲きの桜の下、太陽の光を目一杯浴びている。


「気持ちいいねぇ」


 空気を思いっきり吸い込み、空に向かって両手を広げるように伸ばすと、自分の中が綺麗に洗われていくような気がしてくる。


「いいから、手伝えよ」


 小ぶりの木槌を持った瀬戸君が、呆れた視線を向けてくる。


「光合成だよ、光合成」


 瀬戸君に言い返しながら、ビニールシートが風で捲れてこないよう、簡易的な杭で打ち付けていく。

 四月初めの、まだまだ肌寒い平日の昼前。瀬戸君と私は、上司から花見の場所取りや準備を命じられていた。仕事そっちのけで大きな公園に向かうことを指示され、ラッキーなんて私はウキウキしながらやって来た。けれど、瀬戸君はイベントごとよりも仕事が大好きなのか、この役割を命じられてからずっと不機嫌だった。何かっていうと、「なんで俺なんだよ」とぶつぶつ言っているのを、同じ部署の私は何度も近くで聞かされてきた。


「うまく確保できて、よかったよね」


 青空に向かって大きな桜が薄い桃色を広げている。その丁度真下に場所を取り、ビニールシートを広げていた。


「俺の判断力をなめるなよ」


 ぶつぶつと言っていたわりに仕事がきっちりなのは、瀬戸君のいいところなのかもしれない。

 いつにもまして、瀬戸君の得意気な顔が輝いている。その自信がどこから来るのか、まだ一年しか付き合いのない私にはまったくわからないけれど、彼はどうしてかいつだって自信満々だった。


 仕事はできるみたいだけれど、私に対してだけなのか、言葉遣いはあまりいいとは言えないし、何より見た目がチャラい。

 まだまだ新人扱いの私達だから、派手に髪の色をいじっているとか、ファッション性の高そうなスーツを着ているというわけでもないのに。なんと言うか、そもそものオーラがチャラいのだ。


 耳にはピアスの穴だって開いているから、きっと普段は今見ている姿の二倍はチャラいはず。

 勝手な確信を得て、私は公園の入り口付近へ視線を向ける。


「それにしても、山田君は大丈夫なのかな?」


 山田君とは、私たちと一緒に花見の準備を任されていた同じ同期なのだけれど。花見に必要な荷物を社用車へと積み込んでいる最中に、段差に躓き荷物を抱えたまま転んでしまったのだ。右手を押さえ込んでやたらと痛がる山田君に、冷たい視線を浴びせた瀬戸君の口からは、「使えねぇ」という一言が飛び出し私は驚いた。


 あなたには、心配するという気持ちはないんですか?


 呆れて言い返しそうになったけれど、それより山田君が心配だ。

 痛がる山田君を一瞥して、瀬戸君は次々と社用車へ荷物を運びこむ。きっと、やりたくもない花見の準備をさせられて、不満もあるのだろう。彼の場合は、仕事をさぼれてラッキー、というよりも。どんどん仕事をさせて下さい、勉強したいんです。という気持ちの方が強いのだと思う。


 瀬戸君のそんな気持ちはわからなくもないけれど、流石にその態度は冷たいよ。彼を後目に山田君を気遣いに行くと、あまりの痛さにか彼は涙目だった。


「西崎さ~ん」


 山田君は、私にしがみ付くようにしながら訴えかけてくる。


「大丈夫?」


 痛がる山田君の手を見ると、なんだか少しずつ腫れ上がっているように見える……。


「病院、行った方がいいよ」


 座り込んだまま蹲る山田君に肩を貸し、彼を立ち上がらせようとしていると瀬戸君がやって来た。


「山田。そのくらいで情けない声出してんじゃねぇよ。どけ、西崎」


 冷たく言い放った瀬戸君は、山田君を支えていた私の体を無理やり放すと、自分が彼を支えるようにして肩を貸した。優しいのか優しくないのか、よく解らない。

 結局、山田君はそのまま病院へと向かったわけで、花見の準備は二人ですることになってしまった。


 そんな山田君がそろそろここへ来てくれるんじゃないかと視線を向けていたのだけれど、それを邪魔するように瀬戸君がぶちぶちと零す。


「ったく、最悪だ。西崎、さっさと済ませるぞ」


 瀬戸君は、山田君のことを面倒くさそうに愚痴ってから、台車を押して公園近くの道路わきに停めてある社用車へ荷物を取りに向かった。

 この場所を離れるわけにいかない私は、お留守番がてらの荷物番だ。

 瀬戸君が次々と運んでくる荷物を、私は広げたシートの上に配置していく。といっても運ばれてきた段ボールの中から紙コップやお皿なんかのカトラリーを出して大体の場所に置いたり、おつまみ用の乾き物が収まる段ボール箱を瀬戸君から受け取り、その中身を大体の場所に均等に置いていくだけだ。


 どれくらいかかったのか、漸く全ての荷物をこの場所に移動させることができた。

 ふぅっと息を吐く私のそばで、瀬戸君も溜息のような息を漏らした。


 運び込んだ荷物を腰に手を当て眺める瀬戸君が、嵌めていた軍手の甲で額の汗を拭う。山田君が欠けたために、車からここまでの往復を一人で何度もやっていたのだから、そりゃあ汗もかくというもの。大きなビニールシートを広げて、杭を打つだけでも結構体力を消耗しているよね。お疲れ様です。


「昼過ぎてんじゃん。腹減ったな」


 オメガの時計を睨みつけるようにして見た瀬戸君が、自分の足元に向かって不満気に零す。


「さっきから、私もお腹が鳴りっぱなし」


 疲れと空腹に、私はぺたりとその場に座り込む。


「ちょっと待ってろ。その辺で何か買ってきてやるから」


 上から目線の言葉とは裏腹に、瀬戸君の行動は優しい。彼は、お弁当を買いに行くといって、軍手を外す。

 言葉遣いを直したら、もうちょっと近寄り難い雰囲気も払拭できる気がするんだけど、そんなことを言えるほどの間柄でもないので黙っておこう。


 瀬戸君が戻るまでの間、シートのど真ん中でコロンと大の字になって寝転がった。普段はデスクワークで体を使うことがないから、ここまでの作業だけでとても疲れていた。

 自然と出る欠伸を抑えることもなく、私はほんの少しだけ、と微睡んでいく。


 どれくらいそうしていたのか。

 陽が高くなってきたせいか、さっきよりも肌寒さは感じなくなっていた。瞼を閉じたまま、太陽の眩しさを感じる。

 そうしているうちに、何やらいい香りがしてきた。


 何だろうこの匂い。クンクン。いい匂いがする。


 瞼を持ち上げると、すぐそばで胡坐をかいた瀬戸君がお弁当を食べていた。そばには、簡易のカップに入ったお味噌汁とお茶のペットボトルもある。

 いい匂いの原因は、これか。


「起きたのか」


 箸でフライを摘まみ上げたまま、体を起こそうとする私を瀬戸君が見る。


「おはよ」


 冗談を言ってから起き上がると、体の上に何かが掛けられていたことに気がついた。衣擦れの音を立て、体の上からずり落ちたのは、社内ロゴの入ったジャンパーだった。


 太陽の温かさだと思っていたのは、どうやらこのジャンパーのおかげだったみたいだ。


「これ、ありがと」


 ジャンパーをかけてくれたお礼を言うと、瀬戸君は私の目も見ずに、「風邪ひくだろ」なんて口をモゴモゴさせながら、私の分のお弁当を差し出す。


「肉、好きだろ?」


 瀬戸君から差し出された焼肉弁当を、私は笑顔で受け取り頬張った。

 瀬戸君て、実は優しいのかも。


 お腹も満たされ、あとはみんながやってくるのを待つだけになった頃、「おーい」という掛け声とともに山田君が僅かに急ぎ足でこちらへ向かってくるのが見えた。


「あっ、山田君だ」


 弾んだ私の声に釣られるように、瀬戸君も首を巡らせた。

 気がついた私たちの顔を見て、山田君の急ぎ足がさらに増す。


「どう? 大丈夫だった?」


 シートの向こう側で頬を上気させる山田君へ近寄り訊ねれば、苦笑いで右手を上げてみせる。彼の中指には、包帯が巻かれていて、太さが二倍ほどになっていた。


「折れてた」

「えっ⁉ 折れてたの?」


 驚く私に、ほんの一瞬苦笑いを浮かべた山田君だけれど。次の瞬間には、何故だかケラケラと笑うものだから、私も瀬戸君も思わず釣られて笑ってしまった。


「結局、使えねーのかよ」


 笑いながら愚痴る瀬戸君だけれど、さすがに折れていたと知ると、「まー、座っとけ」と彼を気遣う。

 口は悪いけれど、瀬戸君は優しいのだろう。


 みんなが来るまでの時間潰しに、どうでもいい入社当時の話をしながら三人で盛り上がっていると、スキンシップが癖なのかテンションの上がった山田君がやたらと私に触れてくる。


「でさ、そん時の先輩が――――」


 話に夢中の山田君が、座る私の膝辺りに手を置いた瞬間、瀬戸君がその手を軽く払った。


「おいっ。山田触りすぎだろ」

「え? あっ、ごめん、西崎さん」


 慌てて謝るところを見れば、ほんとうに無意識なんだろう。


「大丈夫だよ」


 瀬戸君に叱られて、少しシュンとした山田君を見て笑みを返すと、「ヘラヘラしてんなよ」と私にまで瀬戸君の雷が落ちてきた。怖い、怖い。

 瀬戸君の言葉に肩を竦めているところへ、この日のために注文していた料理が届いた。気がつけば空は暮れ始めている。


「毎度ー、キッチン木山ですー」


 公園の入り口から大きな声を出して、届け先を探している姿が目に入った。

 料理が収まっているだろう、積み重ねられた大きなプラスチックケースを台車に載せ、会社近くにある庶民的な洋食屋の店主と社員だろう男性が歩いてきた。


「こっちでーす」


 山田君が、包帯を巻いた右手を上げる。

 こちらに気がついたキッチン木山の店主さんが、私たちに穏やかな表情を向けやって来た。


「毎度、どうもです」


 気さくな店主の木山さんが、シートへ料理を置いていく。

 パーティープレートに盛られた沢山の美味しそうな料理を受け取ると、私のテンションが上がっていった。


 ううっ、美味しそう。早く食べたいよう。


「これで最後です」


 店主さんと一緒に来た社員さんから、私は最後の料理を受け取った。


「いいお天気に恵まれてよかったですね」


 社員さんは、穏やかに目を細めて私へ笑いかける。

 おおっ。癒し系じゃないですか。

 さっき「ヘラヘラするな」と瀬戸君から叱られたばかりの私には、極上の癒しだわ。

 社員さんの微笑みにニヘラっと緩む顔を抑えられずにいると、ツカツカと瀬戸君が傍に来た。


「請求書は、いつも通りに会社の方へ宜しくお願いします」


 私の癒しタイムを邪魔するかのようにやって来た瀬戸君が素っ気なく社員さんへ言うものだから、目の前のキッチン木山の彼が僅かに驚いたような表情をした。

 けれど、気を取り直したように、すぐに穏やかな表情に戻る。


「毎度、ありがとうございます」


 愛想のない瀬戸君の態度に嫌な顔をすることもなく、彼は優しい笑みと挨拶を残して踵を返してしまった。

 私は、その背中にぺこりと頭を下げる。


 全く、瀬戸君は。どうしてあんな言い方するのよ。失礼じゃない。

 そんな顔を向けると、「なんだよ」とムッとした顔を向けられて、「いえ、何も……」と言い返すことさえできない。優しいと思ったのは、どうやら私の錯覚だったらしい。


 笑顔がとても自然体で落ち着いた雰囲気の社員さんは、店主さんと目元がよく似ていた。もしかしたら、親子なんじゃないだろうか。背筋がピッと伸びた姿勢は、この晴れた空の下によく似合う。

 親子ですか? なんて不躾に訊ねるわけにもいかず、「いつもありがとうございます」と彼らをその場で見送った。


 その後も、頼んでいた酒屋さんから大量のお酒が届いたあとは、社員が徐々にやって来て花見がスタートした。

 すっかり陽が落ちた公園は、賑やかさとは対照的に、寒さが身に沁みる。


「ジャンパー、着ててもいいかな?」


 薄手のコートを着ているとはいえ、太陽の光がないだけで体感温度はずいぶんと低い。

 隣に座る瀬戸君に訊ねると、「いんじゃね?」と素っ気なく応えたあと、「これも使えよ」とカイロをくれた。


 いつの間に。


「弁当、買いに行ったついでにな。陽が落ちると、冷え込むから」

「ありがと。瀬戸君て、意外と気が利くよね」


 笑顔を向けてからカイロの封を切っていたら「意外は余計だ」と睨まれた。

 こわっ。



 頼んだ料理やアルコールが残り半分ほどになった頃、花見は更なる盛り上がりを見せていた。入ったばかりの新入社員をもてなす意味もあるこのイベントだけれど。本当につい最近入社したばかりの子たちだから、何が何だかわからず、とにかくお酒を飲まされている。


「去年のことなのに、懐かしいね」


 目を細めて初々しい姿を眺めていたら、瀬戸君も懐かしそうな眼差しを向けていた。


「あんまり飲まされなきゃいいけどな」


 クスリと笑って、肩を竦めている。

 すると、ワイワイとしているそこに、今社内でも期待の高い営業の篠田先輩が加わった。スーツ姿がいつも決まっていて、履いている靴だって毎日違う。お洒落でイケメンで女性社員の憧れの的だ。


「王道過ぎんだろ」


 篠田先輩の姿を目で追っていると、瀬戸君が呆れたように息を吐いた。


「王道?」


 よく意味が解らず、私は首を捻りつつ、目の前にあるキッチン木山の料理を箸でつまみ口へと運ぶ。

 エビフライ、おいしっ。冷めても美味しいって、さすがプロだわ。


「篠田先輩、見てただろ?」


 エビフライを咀嚼し飲み込むと、瀬戸君がソフトドリンク片手に私に訊ねる。


「だって、素敵な先輩だよ。上司の信頼も厚いし、仕事もできるし。何より、カッコイイ」


 浮かれた声で頬を緩めると、「ケッ」と、どうしてか瀬戸君が不満な声を漏らした。


「見た目だけじゃなくて、中身もちゃんと見ねーと。西崎みたいなのは、すぐに騙されんぞ」


 不貞腐れたような顔をした瀬戸君は、持ってたソフトドリンクをグビグビと音を立てて飲み切った。まるで、アルコールでも飲んでいるみたいな一気飲みだ。

 中身ねぇ。少なくとも、篠田先輩は、瀬戸君みたいに言葉は悪くないと思うよ。

 ジト目で見ていると、「なんだよ」とどうしてか喧嘩腰だ。


 だから、怖いって。


 帰りも社用車を運転しなくちゃいけない瀬戸君は、アルコールを飲めないので機嫌がよろしくないようだ。

 それとも、できる先輩に焼きもちでもやいているのかな?

 瀬戸君も篠田先輩のように、女の子たちから羨望の眼差しを向けられたいのだろうか。

 注ぎ足したソフトドリンクのカップに口をつけている横顔を、私はまじまじと眺める。


 瀬戸君てチャラいけど、顔の作りは悪くないよね。そういえば、同期の子が瀬戸君狙いだって話を聞いたな。なんだ、君もモテモテ君か。

 だったら、このまま仕事のスキルを上げていけば、第二の篠田先輩になれるかもよ。


「まー、頑張ってよ」


 お酒の勢いも手伝ってか、私が気安く瀬戸君の肩をタンタンと叩くと「何がだよ」と怖い目を向けられ怯んでしまう。クワバラ、クワバラ。

 その態度を直さないことには、篠田先輩のようになるのは難しいと思うよ。

 心の中でぶちぶちと言い返し、私は夜空に広がる桜を見上げた。



「宴もたけなわではありますが――――」


 お偉いさん近くに座る仕切り隊の年配社員が、漸く花見の終了を告げてくれた。初めは料理やお酒で楽しかったこの場だけれど、時間が経つにつれて寒さにやられ、体はすっかり冷え切っていた。


 体の芯まで寒さが染み込み、これはあったかいお風呂にでも入らないことには、人としての生命力さえ危ういかもしれない。大袈裟だけれど、本当にそれくらい寒いのだ。指先がかじかんで、瀬戸君から貰い、お腹に貼り付けたカイロに、何度も手をやり温める。


 冷え切った体を縮こまらせて、私は早く帰りたくて堪らない。

 ダラダラと社員たちがここをあとにしていく中、私たち三人は後片付けに追われた。


「昼間、仕事しなくてラッキーなんて思ったけど。あと片付けが、あるんだよね……」


 私がゲッソリとして漏らすと、山田君が折れた指を庇いながらも、サクサクと動いてくれた。中指だけなら、それなりに色々できることに気がついたようだ。

 瀬戸君もさっさと帰りたいのか、ゴミをかき集め、残ったカトラリーなんかを段ボールに詰めてどんどん運び出していく。

 杭を外し、ビニールシートも片付けて、数十分後、漸く一息つくことができた。


「やっと帰れる……」


 電車は、まだ動いているだろうか。

 スマホを取り出し時刻を確認すると、終電ギリギリの時間帯だった。


「家まで乗せてやろうか?」


 社用車の鍵を手にした瀬戸君が、声をかけてくれた。


「この車返すのは、明日でいいし。二人とも家まで送ってやるよ」


 なんと。瀬戸君様様じゃないですか。

 パッと目を輝かせて、「ありがとう」と現金な顔を向けると、瀬戸君はちょっと俯き「別に」なんてまたモゴモゴ言っている。

 普段ビシバシ横柄な態度で冷たく言い切るわりに、たまにこういう、何を言ってんのかわからない口調になるのは、一体何なんでしょう?


 まー、いいけど。


 送って貰えることにホクホクとして、山田君と二人後部座席に乗り込むと、瀬戸君は隣に話し相手がいなくて寂しいのか「うしろかよ」なんて運転席からぼそりと零した。

 聞こえてきたその呟きに「じゃあ僕が」と山田君が助手席へと移動したら、なんとも複雑な顔をしている瀬戸君の表情がミラー越しに見えた。


「西崎の家、どこだよ」


 ぶっきら棒に訊ねる瀬戸君に、実家のある道筋を教える。この公園からだと、一人暮らしのマンションへ帰るよりもずっと近いから、今日は実家へ泊まることにしていた。

 明日は休みだし。実家でのんびりと過ごしてから、マンションへ戻るつもりでいる。

 瀬戸君が暇をしないようにと山田君が何かと話す中、車はスムーズに実家前へとたどり着いた。


「瀬戸君、ありがとね」


 車から降りて、助手席側から運転席へと声をかける。


「西崎って、実家暮らしなのか?」


 山田君が助手席の窓を開けてくれていて、そこから会話をした。


「ううん。今日は、こっちのほうが近かったから、泊まろうと思って。山田君。指、早く治るといいね」

「ありがと、西崎さん」


 山田君に声をかけていると、「そんなもん。すぐに治んだろ」なんて、瀬戸君が吐き捨てるような口調で漏らした。


 優しさレベルが低っ。


 私が瀬戸君へ呆れた顔を向けると、「体冷えてんだから、さっさと家に入れよ」なんて、また優しいのか優しくないのかわからない言葉をかけられた。今度、言葉選びの本でも買ってあげようか。


「お疲れさまでしたー。瀬戸君、運転に気を付けてね」


 促す私へ、瀬戸君から皮肉が返ってきた。


「鈍い西崎と一緒にすんな」


 心配してるのに、なんで素直じゃないかなぁ。

 瀬戸君の捨て台詞を残して、社用車が遠ざかる。

 走り去る車を見送ってから、私は実家へ戻った。



「ただいまー」


 リビングに灯りが見えるとはいえ、深夜の時間帯だからと声のトーンを抑えて入ると、そこには涼太の友達である、タイちゃんこと関谷太一がソファで転寝をしていた。


「え……、タイちゃん」


 久しぶりに実家に顔を出したせいで、予想もしていなかった人物に思わず半歩退いた。

 彼は、涼太と中学からの付き合いで、この家にほぼ毎日のように入り浸っていた。何なら、そのまま住んでしまうんじゃないかというくらいいるものだから、見慣れているといえば見慣れているのだけれど。数か月ぶりに実家に訪れた私としては、彼の存在にちょっと油断していたのは否めない。


「ちょっと、タイちゃん。こんなところで寝てると、風邪ひくよ」


 ソファのそばに立ったまま声をかけると、タイちゃんが驚いたように飛び起きた。


「あ、葵さん!」

「葵さんじゃなくてね。全くさ、未だに入り浸ってんのね、ここに」


 呆れた溜息を零しながらタイちゃんに背を向け、キッチンの冷蔵庫を開ける。作り置きの麦茶を取り出しグラスに注いで一気飲み。

 瀬戸君と違って運転など関係のなかった私は、結構な量のアルコールを摂取していた。おかげで、やたらと喉が渇く。


「おばちゃんから、久しぶりに葵さんが帰ってくるって聞いたから、ここで待ってようと思って」


 タイちゃんは、どうしてかとても嬉しそうな顔を向けてくる。まるでやっと飼い主に会えた大きな犬のようだ。うちは、タイちゃんを飼っているのか?

 しかし、こういう顔を向けられると憎めなくなるんだよね……。長年の付き合いに、情がわいているのかもしれない。誰だ、タイちゃんに初めに餌を与えたやつは。


「涼太は?」

「だいぶ前に寝た」

「タイちゃんも寝たらいいのに。涼太の部屋に、お布団敷いてあるんでしょ」

「俺は、葵さんの部屋でもいいんだけど」

「はいはい。そういうの、要らないから」


 タイちゃんのくだらない冗談を聞き流し、私はお風呂へと向かう。

 今日は、本当に疲れた。明日からの週末は、少しのんびりと過ごそう。

 ああ、煩いタイちゃんが、起こしに来そうだなぁ。起こしに来なくていいって、言い聞かせておかなくちゃなぁ。


 冷え切った体を湯船に沈めれば、温かさに何度も瞼が閉じてしまいそうになる。

 瀬戸君は、将来篠田先輩のようにできる男になるのだろうか。

 けど、篠田先輩のイケてる感は、誰にも真似できないよなぁ。素敵だもんなぁ。


 そういえば、今日料理を運んできたキッチン木山の社員さんは、店主と親子なのだろうか。お店で見かけたことはない気がするけど。柔らかな雰囲気は、とても人当たりがよさそうだったよね。


 あー、それよりもタイちゃんだよ。


「葵さーん。バスタオル、忘れてるでしょ。ここ置くよー」


 こらこら、勝手に脱衣所へ入り込むんじゃないよ。家族みたいなもんだからって、タイちゃんは気安く振舞い過ぎなんだから。

 ブクブクと湯船の中に口元まで潜り込み、脱衣所を出ていくタイちゃんの足音を聞いていた。



 そんな彼らと私が、この数年後にすったもんだになるとは、この時は知る由もなかった――――。



 マイペースな君に続くよ。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【書籍版】マイペースな君 柊/ビーズログ文庫 @bslog

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ