後編


 ――荒野の向こうには、何があるんだろうなあ。



 兄の声を聞いたように思って、ノイは目を開けた。

 暗い。何度か瞬きをしても、なかなか眼は暗闇に慣れなかった。

 さっきの声は、夢だったのだろうか。

 土埃つちぼこりと、それにかびだろうか、湿った匂いがする。体の下は、どうやら平らな石の床だ。そのうえなぜか、ノイは覚えのない薄手の毛布に包まっていた。

 いま自分がどこにいるのかわからずに、ノイは半身を起こして、何度も目を擦った。

 先ほど目の当たりにした夜明けの鮮烈な光が、まだまぶたの裏に残っている。自分は疲れきって、倒れたのではなかったか。あの荒野の果ての、山の麓で。

「起きたか」

 突然かけられた声に、ノイは飛び上がった。

「俺だ、俺」

 苦笑する声は、叔父のものだった。

 ようやく暗がりに慣れはじめた目を眇めて、声のするほうをじっと見つめると、そこに人影があることだけが、かろうじてわかった。

「なんで」

 思わず訊くと、叔父が低く、喉の奥で笑うのがわかった。

「なんでもなにも、お前を追いかけてきたに決まっているだろう。姉貴からたたき起こされたときには、肝が冷えたぞ。あまり心配させるな」

 そう小言を言うわりには、叔父の声はどこか、上機嫌だった。「まったく、ずっと見えているのに、追いつかないのだからな。この俺が」

 叔父は呆れているというよりも、面白がっているようだった。

 荒野で人の声を聞いたように思ったのは、この叔父の呼びかけだったのだろうか。ノイは思い当たって、ばつの悪い思いで身じろぎをした。

 途中、何度となく後方を振り返ったというのに、後を追う叔父の影に、一度も気づかなかった。それだというのに叔父の目にははっきりと、ノイの姿が見えていたという。《導きの眼》は、やはり特別らしかった。

「ここじゃ、ティカは連れてこられんし……まあ、もともとあれは寒いところの生き物だそうだから、仕方ないんだが」

 ティカというのは、叔父のもつ四ツ足鳥の名前だ。ぼやきながら、叔父は革の袋を手渡してきた。ちゃぷんと、水の揺れる音がする。

「どうせ、陽が落ちてからでないと戻れんしな。まだ休んでいろ」

 言われてみれば、体じゅうが痛かった。特に足は、いまだに熱をもってじんじんと痺れている。

 いまさらどっと安堵あんどが押し寄せてきて、ノイは水を飲むと、崩れ落ちるように横たわった。冷たい石に体温を奪われて、ぶるりと震える。

 家族の誰かがノイの不在に気づくのがあともう少し遅かったなら――あるいは叔父が塩を買いに果ての町を出ているときだったなら、自分はほんとうに今ごろ死んでいた。そう思うと、いまさらのように怖くなった。

「ここは?」

 ノイは辺りを見渡した。よく見えないが、声の響き方からすると、それなりに広い場所のように思える。

「建物の地下室だ。お前が倒れていた場所から、そんなに離れていない」

「建物って」

 叔父の言葉に、ノイは勢いよく跳ね起きた。暗がりにようやく慣れつつある目で、あたりを見渡す。闇に沈んで全景はわからないが、それでも手に触れる平らな床は、言われてみればあきらかに人の手の入ったものだ。

「やっぱり、誰かが住んでたんだ!」

 ノイは興奮して叫んだ。人の生きる世界ではないと言われつづけてきた果ての荒野の、その先に、誰かが住んでいた。

 自分がずっと言い続けてきたことが、現実になったその手触りを、信じられないような思いでノイは味わった。

「静かにしてろ。崩れるかもしれんぞ」

 言葉の内容というよりも、その声の厳しさにすくんで、ノイはとっさに体を小さくした。声をひそめて、叔父のほうを伺う。

「この場所って……」

「ずっと昔には、誰かが住んでいたんだろうな」

「じゃあ、いまは?」

 その問いに、暗闇の向こうで叔父がうなずく気配があった。

「長いこと、誰も住んでいないようだ。……俺がこの場所を知らなかったら、いまごろ二人とも、命はなかったぞ」

 肩をすぼめて、ノイは小声で詫びた。それ以上は咎めたてる様子もなく、叔父はまた、可笑しそうにくつくつと笑った。

「それにしても、無茶をするもんだ。周りのやつらに馬鹿にされたのが、そんなに悔しかったのか」

 むっとして、ノイは顔をしかめたが、薄暗い中のことで、叔父にはどうせ見えなかっただろう。

 ノイはしばらく不貞腐れて黙り込んでいたが、叔父の言葉にふと思い当たることがあって、ますます機嫌を悪くした。ここを知っていたというからには、叔父は前にも、ここまでやって来たことがあったのだろう。

 そうノイがただすと、叔父はあっさりと頷いた。

「まあ、俺にもガキの頃はあったのさ。誰かさんと同じように、な」

 それはノイを揶揄からかうというよりも、自分自身に苦笑するような声だった。

 けれどそれなら、なぜ町の人たちは誰もこの場所のことを知らないのか。ノイがそう言うと、叔父はあっさりと頷いた。「誰にも言わなかったからな」

「言っても信じてもらえないから?」

「いいや。秘密にしておきたかったのさ」

 その声には、普段の叔父には似合わない、悪戯っぽい響きがあった。この偉大な叔父がそんなふうに子供じみた口をきくところを、ノイは初めて耳にした。

「お前にだけこっそり教えてやっても、別によかったんだ。だがそうすれば、お前が後先考えずに行ってみようとするんじゃないかと思ってな。まあ、黙っていても結果は変わらなかったが」

 居心地悪く身じろぎして、ノイは叔父に背を向け、改めて床に転がった。石の床は驚くほどひんやりとしている。外がいまや灼熱の世界というのが、嘘のようだ。

「寝ろ。夜にはまた、ひと晩かけて歩き通しになるんだ」

 叔父の声に素直にしたがって眼を閉じると、疲れきった体は重く、ノイは水底に引きずりこまれるようにして、深い眠りに落ちた。



 ふたたび目が覚めたときには、叔父もまた、うつらうつらとしていたようだった。暗闇の中で声を掛けると、少し眠たげな返事が返ってきた。

 火を使わない食事を終えたころ、叔父はふっと、真面目な声を出した。

「お前、本当にただ悔しかっただけか」

 ただそれだけで、こんなところまで本当にやってきたのかと、そう問われて、ノイははじめ、言葉を飲み込んだ。けれどふたりの間に横たわった沈黙は重く、結局、その重みに気おされるようにして口を開いた。

「……兄ちゃんが」

「ジエリが?」

 聞き返されて、ノイは俯いた。

 ――ジエリは、あの荒野の向こうに行ったんだよ。

 いつか、涙にれた声でそう囁いた母の言葉が、ノイの耳にはいまでも残っている。

 ある日突然、兄はノイの前から姿を消した。もうそれからずいぶんになる。月が何十回も巡るほど、前のことだ。

 自慢の兄だった。皆に頼りにされ、また誰かれとなく世話を焼いていた。いつも穏やかなその横顔を見上げながら、自分もせめて兄の半分でも出来がよかったらと、何度思ったかわからない。

「ジエリは、病で死んだんだよ」

 叔父がぽつりと、そう囁いた。

 悼む響きが、そこにはあった。早すぎた別れを、いまでも惜しんでいる。

「そうか。……お前はあいつの亡骸を、見なかったんだったな。流行り病だったから」

 子供がかかると篤く、命を落とすことも珍しくない熱病だったから、母親はノイに、けして兄のむくろを見せようとしなかった。それどころか、形ばかりの弔いさえせず、遺体を焼いて葬ってしまった。

「そうだよな。ある日いきなりいなくなって、死んだなんて言われても、見もしないで納得なんかできないよな」

 ノイは抱えた膝に口元をうずめて、じっと、こみあげてくる思いを噛み殺した。

 自慢の兄だった。ただひとり、ノイの話を信じてくれたひとだった。

 ――あの荒野の向こうには、何があるんだろうなあ。

 そう目を細めて、南の空を見上げたジエリの横顔を、ノイはまだ覚えている。

「ジエリは、ここにはいないよ」

 しばらくして、叔父が囁いた。

「ここは《死者の国》なんかじゃない。実際に来てみて、わかっただろう?」

 そんなんじゃない、と言おうとして、しかしノイは言葉を飲み込んだ。何も本当に母の言葉を真に受けて、荒野の向こうに渡ればそこに兄がいるなどと、そんな子供じみた考えを持っていたわけではなかった。

 叔父は答えを急かすでもなく、ただノイのほうを見つめていた。その視線に促されて、彼は口を開いた。

「おれのほうが」

 自分の声が震えていることを、ノイは、みっともないと思った。「おれが死んでいればよかったんだ。兄ちゃんじゃなくて」

 叔父がゆっくりと、目を見開くのがわかった。

「誰かがお前に、そう言ったのか?」

 ノイは黙って首を振った。

 言われなくてもわかる。みんな、死んだのがジエリではなく、ノイだったらよかったと思っている。ノイは兄のように賢くはなく、皆から好かれてもいない。背も低く非力で、畑仕事の役にもろくに立たない。誰に言われずとも、そのことをノイは自分でよくわかっていた。

「お前、それ、姉貴の前で言ってみろ」

 叔父の声に呆れの色が混じっていることに気づいて、ノイは顔を上げた。

「見せてやりたかったよ。俺をたたき起こしにきたときの、姉貴のあの血相。――まあ、帰ってから存分に叱られろ」

 後半は、笑い含みの声だった。その言葉をぼんやりと聞いて、ノイは居心地悪く膝を揺すった。ずっと石の床の上に座っているので、方々が痛み、身体のあちこちが軋んだ。

 死んだのが兄ではなく自分だったらよかったと、誰もが思っている。母もそうに違いないと、そんなふうに頑なに思い決めていた心が揺れて、ノイは惑った。叔父の話はほんとうだろうか。母はいまこのときも、自分を心配して眠れずにいるのだろうか。

 考えても答えは出なくて、だからノイは違うことを聞くことにした。「叔父さん」

「なんだ」

「死んだ人は、どこにゆくの」

 叔父はすぐには答えようとせず、いくらか考えてから、口を開いた。

「さて。死者の魂は風になって、空にのぼるのだというが」

 そんな話は、耳にしたことがなかった。ノイが怪訝な顔をしたのがわかったのか、叔父は小さく笑った。

 叔父はその話を、旅人から聞いたらしかった。塩の仕入れに行った隣の町で、世話になった相手だという。ひとつの場所に留まって暮らすことなく、さまざまな土地を転々として生きる流浪の民。そういう人間がいるということを、ノイははじめて知った。

 その旅人が言うことには、死者の肉体は塵となって土に還り、その魂は風となって、世界じゅうの空を気ままに飛んで回るのだという話だった。

「世界中?」

「そう。誰も知らない土地にも」

「世界の果てにも?」

 叔父は小さく笑った。「たぶん、な」

 腹がふくれたら、またかすかな眠気が押し寄せてきて、ノイは目を擦った。暗闇の中では、外の時間の経過など知りようもないが、叔父はノイが目覚める前に出口のそばまでいって、陽射しの加減を見てきたという。もう一眠りして目が覚めたら、出立にちょうどいい頃だろうと、叔父は告げた。



 月は昨夜よりもわずかに明るく、けれど変わらずどこか冷たく冴えた光を、荒野に落としていた。

 叔父の持っていた布を裂いて、ノイは足元の防護をくわえたが、それでもひび割れた大地は、やはり焼けるように熱かった。

 身を潜めていた建物を振り返れば、それはいまだに形を保っていることが不思議に思えるほど、古びてひび割れた建物で、石を削り積んで作られた外壁は、あちらこちらが欠け落ちていた。

 実際に崩れたらしい建物の残骸も、あたりにはいくつも見受けられて、広場だったとおぼしき場所には、井戸らしきものまであった。だが覗き込んでも、とっくの昔に枯れ果てたものか、そこには黒々と吸い込まれそうな深い穴があるばかりで、耳を澄ましても何の音もしない。水面が月光を反射するような光も見えなかった。

 廃墟を去り、町をめざして荒野を歩きながら、ノイは何度となく後ろを振り返った。

「あそこに住んでた人たちは、どうやって暮らしてたんだろう。あんなに暑い場所で」

「さてなあ……」

 叔父は言って、少し考えるようなそぶりを見せた。

「何か、暑さに耐える知恵があったのだろうかな。だがそれなら、いまでもここで暮らしていてもおかしくない。あるいは、昔はもっと、この辺りは涼しかったのかもしれないな」

 ここに来るまでの途中に、大きな動物の骨を見なかったかと、叔父は言った。ノイはあっと声を上げた。あの風化した、巨大な獣の顎のような岩。

「荒野がもし、いまよりもずっと涼しかったのなら、もっと南の土地にも、人が移り住んでゆけたのかもしれない。それがだんだん暑くなって、また俺たちの町のあたりまで、引き上げてきた……」

 叔父の話に耳を傾けていたノイは、ふと思いついて、口を開いた。「逆かもしれない」

「逆?」

 怪訝けげんそうに聞き返してきた叔父に、ノイは二度頷いて、言葉を足した。

「果ての町からこっちに移ってきたんじゃなくて。もともと南に住んでいた人たちが、向こうに移っていったのかも」

 それはただの思いつきだったが、叔父は笑いとばしはしなかった。その代わりに、感心したように呟いた。「お前は、面白いことを考えるな」

 その言葉が兄を思い出させて、ノイは胸を詰まらせた。

 叔父はいっときノイの沈黙に付き合って、それからぽつりと言った。

「お前、もう少しでかくなったら、俺と一緒に、隣町まで行ってみるか」

 ノイははっとして、顔を上げた。

 叔父は足を止めて、まっすぐにノイの顔を見つめた。その表情は真剣なものだった。叔父が何気ないふうに口にしたその言葉が、けしてその場の思いつきではないことを、ノイは悟った。

 すぐには答えず、ノイは空を見上げた。風になって空を渡る兄の姿が、この目に見えるはずもなかったが、そのかわりにノイは、月明かりに負けじと輝く星々の並びを、じっと見つめた。荒野の道なき道を渡るための、空のしるべを。

 いつか兄が、この叔父のあとを継いで《導きの眼》になるだろうと、そう思っていた。世話好きで誰からも慕われていた兄。誰よりも賢く、優しかったジエリ。

 叔父は答えを急かすことなく、やがて元のように歩き出した。ノイもそのあとに続く。ともかくいまは、先を急がねばならない。

 沈黙のうちに、ふたりは歩き続けた。青白い月明かりが影を落とす荒野から、人の生きる世界に戻るために。



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さいはての地 朝陽遥 @harukaasahi

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