近衛騎士マウロの場合

 今日も彼女は奥の席に座っていた。


 彼女を見かけるのは今日で五日目。ご飯を食べている時もあればお酒を嗜む時もある。だいたい夜七刻から八刻くらいの間に見かける彼女はいつも一人だ。

 オエステ大陸の大国であるヴェルトラント皇国風の装いがよく似合う不思議な色合いの髪の女性。旅人かと思っていたら、どうやら彼女はこの店の常連らしい。今まで僕が彼女のことに気が付かなかったのは、店を訪れる時間帯が違ったからだろう。

 僕が彼女の存在に初めて気がついたのは、奇しくも淡い恋心を無惨にも打ち砕かれた日の夜。

 フロールシア王国の王都セレソ・デル・ソルの東側の地区にある『食事とお酒の店アミーゴス・デル・エストマゴ』は、安い割には美味しくて腹一杯になる料理が評判の店で僕の行きつけだ。


 フロールシア王国の第九王子でラファーガ竜騎士団長であるリカルド殿下と、異界の客人まろうどであるハナコ・タナカ様の衝撃の告白場面の一部始終を見てしまったあの日、僕は勤務を終えるとすぐにこの店に向かい、普段はあまり嗜むことがない酒を浴びるように飲んでいた。ハナコ様がリカルド殿下の魂を分けた伴侶ーーコンパネーロ・デル・アルマだとわかってはいた。異国情緒あふれる魅力を持ったハナコ様に一方的に惹かれてしまった僕が、勝手に淡い恋心を抱いていたのが悪いのだけれど。あれはあんまりじゃないか!と玉砕した勢いのままに酒を煽り続けたその結果、僕は見事に悪酔いしてしまったのだ。

そのときに助けてくれたのが多分彼女だ。

多分、というのは僕の記憶が多少あやふやだからで、これだけでも近衛騎士失格の出来事である。酒に飲まれることなかれと言われていたというのに、つくづく意思の弱い自分が嫌になる。

 あの夜、酒が入り過ぎた所為で店の外で盛大に戻していた僕に、コップ一杯の水とハンカチーフを差し出してくれた彼女。僕はきちんとお礼すらできずに、フラフラと近衛騎士寮へ帰宅してしまったのだ。朝起きると激しい頭の痛みに加えて汚物の着いたハンカチーフをしっかりと握りしめていたので、あれは夢ではなかったのかと物凄い後悔に襲われた。汚れを落とすため細心の注意を払って、淡いセレソ色のハンカチーフを手洗いしているとき、僕は見慣れない文字に気がついて手を止める。濃い青色の糸で不思議な文字のような記号が刺繍されたそれは、もしかしたらあの彼女の名前であろうか。艶やかな緑ががった髪と落ち着いた大人の優しい声しか覚えていないのが悔やまれる。


 その日、二日酔いの最悪な状態で勤務をこなした僕が帰宅途中に真っ先に向かったのは、巷の女性に人気の『マジョルカ』という小物屋だった。彼女にお礼とお詫びするために僕が選んだのは、妖精の絹糸で折られた真白いハンカチーフ。彼女のセレソ色のハンカチーフは一応綺麗に洗い浄化したものの、一度は吐瀉物で汚してしまったという負い目もあるので新しい物を贈ろうと思ったからだ。


 彼女はまたあの店に来るだろうか。

 もし来なかったら店主にでも聞いてみよう。


 そうして『食事とお酒の店 アミーゴス・デル・エストマゴ』に再び訪れた僕は、いつもの席に一人で座る彼女を見つけたわけだ。

 僕の座る場所からは彼女の背中しか見えない。でもあの髪と服装、雰囲気から助けてくれたのは彼女だと確信する。とき折り見せる横顔に何故かどきりとしつつ、食事の邪魔はしたくはないしと、いつ彼女のところに行くべきか考えあぐねていると、食事を終えた彼女はさっと席を立ち出口へと行ってしまった。


「あっ」

「よう、マウロ! しっかり落ち込んでるか? 」

「また二日酔いになるのか? 今日はやめておけよ」


 慌てて彼女の後を追おうとした僕の前に立ちはだかったのは、同僚のアドルフォ先輩とエンリケ先輩だ。


「先輩方……」


 彼女は既に行ってしまったけど、先輩たちを邪険にはできない。しぶしぶ座り直した僕は、この日は先輩たちに慰められながら酒を飲む羽目になってしまった。昨夜の深酒で昼過ぎ頃まで二日酔いだった僕は、ちびちびと酒を嗜むもいつもと違ってちっとも美味しいとは思えない。そうこうしているうちにアドルフォ先輩がいい具合に酔っ払ってきたので、この日はそこでお開きになった。彼女に話しかける機会を潰されてしまったのは残念ながらだけど、エンリケ先輩が奢ってくれたのでまあよしとしよう。


 次の日は当直だったので店には通えず、翌日の朝上がりの非番で店に行くことにした。

 帰り道の途中で、丁度出勤中の女性竜騎士の先輩とその恋人らしき厳つい警務隊士が幸せいっぱいの様子で歩いて来て、何故かその警務隊士から絡まれた僕は散々な目に遭いながらも急いで近衛騎士寮に戻り、夕方に向けて仮眠を取る。


 今日こそは彼女にお詫びをしなければ!


 気合いを入れて夕方前に起きた僕は、抽斗ひきだしの中に大事にしまい込んでいた彼女のセレソ色のハンカチーフと小洒落た包みで包装された真っ白のハンカチーフをポケットに入れると、彼女にどうやって近付いたらいいのかを真剣に考える。

今日こそ、誰にも邪魔をされたくない。


 準備万端と決意を胸に、店に入ってから早三刻。しかしながらこの日、彼女が店に来なかった。


 一体彼女はどこの人なのだろうか。

 ヴェルトラント皇国風の装いに大人な雰囲気の彼女は、多分フロールシア人ではない。彼女が誰なのか、どこに住んでいてどこで働いているのか何もわからないというのに、僕は短期間の間にぐいぐい惹きつけられていく心を止めることはできなかった。

 次の日はまたもやお節介な先輩たちに絡まれ、さらにその次の日は夜出だったので出勤前に店に立ち寄ってみると、彼女はいつも席で店の看板娘と話し込んでいたので、またまた機会を逃してしまった。



 そして今日。


 今日こそは誰に邪魔をされようとも彼女に話しかけてお詫びをしなければ。ポケットの中にハンカチーフが入っていることを確認した僕は、意を決して店の中に入って行く。彼女はいつもの席に座っており、今日は余計な邪魔が入る様子もないので、僕は平常心平常心と小さく呟くと他の客を避けながらゆっくりと近付いた。注文表を真剣な顔で見ている彼女の隣に立った僕は声をかける。


「こんばんは。隣に座ってもよろしいでしょうか? 」


 団長と話す時よりも緊張して硬い声になってしまったけど、彼女は気にしていないようだ。僕を見て少しだけ驚いたように目を開き、それから小さく微笑んでくれた。


「こんばんは。どうぞ? 」


 あの夜に聞いた優しい声で答えてくれた彼女は、僕の想像通り異国の顔立ちをしている。艶やかな髪は女性にしては少し短いものの彼女によく似合っており、彼女の微妙な動きに合わせてサラサラと揺れ動く。知的な焦げ茶色の瞳を瞬かせて僕の顔をしげしげと見た彼女は、あっという顔をした。

 僕のことを覚えていたようで嬉しかった。しかしそれは最悪の状態の僕の姿であったことを思い出し、何とも言えない気持ちになる。


「この間はご迷惑をおかけしました。貴女のような素敵な女性に助けていただけたことは光栄なのですが、騎士としては面目ないことで……申し訳ありませんでした」


 気を取り直した僕が胸に手を当て軽く膝を折って謝罪すると、彼女は慌てたように椅子から立ち上がる。


「気にしなくても大丈夫ですから、困った時はお互い様です。あなたが騎士様だったなんて……こちらこそ無礼を働いてしまってごめんなさい」

「無礼なのは僕の方です。あなたに助けていただかなければ無様な姿を晒すところだったのですから、僕の謝罪を受けていただけますか? 」


 頭を下げた僕につられて彼女も深々と頭を下げる。彼女には何も謝る要素がないのに。フロールシアの女性とあまり変わらない身長の、スラリと引き締まったしなやかな身体の彼女からは、仄かに甘い香りがした。


「謝罪が遅くなってしまったお詫びです。今日は僕にご馳走させてください」

「ええっ?! そんなこと」

「ご迷惑ですか? ああ、それとも誰かをお待ちでいらっしゃる? 」


 ここで「実はそうなんです」などと言われてしまっては、僕の傷ついた心にまたもや傷がついてしまう。一応確認はしておかないと、僕の心がまたズタボロになってしまうかもしれない。

 どうか、彼女にいい人がいませんように。


「そんなことはありませんけど、でも……」

「この情けない騎士に名誉を回復するための場をお与えくださいませ」


 僕はとびきりの笑顔と意識して出した甘い声で彼女を落としにかかる。近衛騎士は端正な顔立ちの者が多く、僕自身も決して悪くはない顔で、フロールシアではあまり見かけない虹彩異色の青と緑の瞳を持っている。周りの女性たちからは謎めいた魅力がある瞳だと言われていて、結構気に入っているのだ。これで駄目だなんて言わせるようでは、本当に男としての自信が砕け散るかもしれない。


 これが功を奏したのかよくわからない。しかし今、僕は彼女の隣に座って一緒に食事を取っている。最初はお互いぎこちなかったけれど、食事と酒が進むにつれてだんだんと打ち解け、僕は彼女の名前と職業を知ることができた。


「それにしてもイユエという名前は珍しい響きですね」

「よく言われます。でも一度聞いたら忘れないでしょ? この名前のお陰で営業もうまくいくから有難いんですよ」


 イユエと名乗ってくれた彼女は僕より幾らか年上で、この店から二通り離れた場所にある『マリポッサ古書店』という本屋の店子として働いているらしい。マリポッサ古書店と言えば、異国の本や魔法術書などを取り扱う店で、僕も名前だけは知っていた。魔法術庁でも少しだけ取り引きしているという話なので、宮殿の何処かで聞いたのだろう。


「それではこのハンカチーフに縫ってある文字はあなたの名前ですか? これも珍しい文字だったので印象深くて」


 僕はポケットの中からセレソ色のハンカチーフを取り出して彼女の手のひらに乗せる。


「浄化はしていますが、その……汚してしまってすみません」

「わざわざ綺麗にしてくださったのですか?! 昔付けたシミまで綺麗になってるわ。ありがとうございます」


 彼女はハンカチーフを大事そうに広げると本当に嬉しそうに笑った。


「そんなに大事なものを僕のために使っていただいたのですね……ますます面目ない」

「これは私の国から持ってきたただ一つのものなんです。この国のセレソ色とよく似ていますが、私の国ではインファ色と言うんですよ」

「そうでしたか。インファ色という呼び名も素敵ですね。それはヴェルトラント皇国のものですか? 」

「さすがは騎士様ですね。確かに私はヴェルトラント皇国から来ましたがヴェルトラント人ではありません。本当は客人まろうどなんです。このハンカチーフは私の世界の物で、この世界にはこれ一枚だけ。どこにもないんですよ」


 彼女の言葉に僕は驚きを隠すことができなかった。職業柄客人にはよく出会うけれど、まさか彼女までもが客人だなんて。


「ごめんなさい、お気に障りましたか? 」

「いいえ、そんなことはありません! ただこの国も客人を迎えたばかりで、どうやら僕は客人に縁があるようです」


 客人に対してよく思っていない者も少なからずいるので、もしかしたら彼女も辛い目にあってきたかもしれないと思うといたたまれない。僕は彼女の手をそっと握り、安心させるようににっこり笑った。


「もし困ったことがあれば僕に相談してください。近衛騎士のマウロ・オルディアレスを呼んでいただければすぐにでも参ります」

「あ、あなた……近衛騎士様?」


 彼女は物凄く驚いていしまい、恐縮したように固まってしまった。しかし遠慮させるつもりなど毛頭ない。動かない彼女の手のひらに、お詫びのつもりで用意した妖精の絹糸のハンカチーフと一緒に近衛騎士の紋章のついたバングルを乗せる。このバングルは防御の魔術式と一緒に僕の名前も刻んである近衛騎士の支給品だ。消耗品でもあるので、家族や恋人なんかに贈ることが最近の流行りだった。


「さて、僕はもういかないと。約束通り支払いは僕がしておきますからごゆっくりなされてください」

「ま、待ってください! これって大事なものですよね?あの、騎士様?! 」

「マウロと呼んでくださいね。それと、そのバングルは僕を呼び出す時に使ってください。近衛騎士の待機所に話を通しておきますから」


 僕は素早く店員に紙幣を押し付けて彼女の分まで支払うと、彼女をその場に残して店を出る。言い逃げのようで残された彼女が可哀相だったけれど、僕の心臓も相当ばくばくしている。


 もう少しうまく立ち回りたかった。

でも今の僕にはこれが精一杯だ……何という情けなさ!


 足取りも軽やかに夜の通りを走り抜けながら、まだばくばくしている胸に手を当てる。


 僕は彼女よりも年下でら今はまだ頼りないかもしれない。でもこれから、彼女に釣り合えるような立派な男になってみせよう。まだ出会ったばかりで、その出会いも最悪だったがこれは運命だ。僕は確かにアルマ持ちではないというのはに、不思議なことに彼女と出会って気がついた何とも心地よい高揚感に未来が見通せるようだった。彼女が働いている古書店も聞いたので通ってみるのもいいかもしれない。


 彼女からハンカチーフに縫い付けられていた文字の意味を教えてもらえる日もそう遠くはないことだと、僕は不思議な確信を抱いて夜の道を駆け抜けて行った。

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