番外編:六花《りっか》咲く常陽《じょうよう》の楼

六花リウホア!」

 うら若き皇帝は馬上から叫んだ。

 毛皮の服の胸に矢を刺した年長の側妃は驚きで目を見開いたまま、横に倒れる格好で馬から転げ落ちた。


*****

「薬をもっと持ってこい!」

「下手人は捕らえたか?」

「まだ辺りに潜んでいるかもしれぬ!」

 伴の者たちが叫ぶ中、色を失った皇帝は毛皮を半ば以上血に染めた側妃の小さな手を握り締めた。

「大丈夫だ、すぐに内裏うちに戻る」

 まるで熱を注ぎ込むように自らの両手で側妃の冷たくなっていく手を覆う。

「陛下はご無事ですか」

 薄化粧を施しただけの女は苦しい息の下から精一杯微笑んで尋ねた。

「大丈夫だ」

 青年皇帝は横たわっている女の小さな顔を撫でる。

「良かった」

 夫を見上げる側妃の、いつも微笑んで見える柔らかに切れの長い目のすぐ下にポツリと滴が点った。 

 身を寄せ合った二人の上に透けるように白い欠片が静かに舞い落ちてくる。

 虚ろになっていく瞳の女は呟いた。

「雪が、羽根のようですね」

「六花」

 皇帝は自らの纏った豪奢な毛皮が汚れるのも構わず血染めで息絶えていく側妃を抱き締めた。

「何故そなたまで」

 赤子のように顔をグシャグシャにして泣く。

「わしを置いていかないでくれ」

 雪が次第に激しさを増していく中、二人を囲む伴の者たちは黙して見守った。

 

*****

 歴代の皇帝や后妃の棺の並ぶ廟堂。

 豪奢に正装した妃の肖像画を掲げた真新しい翡翠造りの棺を前にした皇帝は独り呟いた。

「この絵のそなたは立派だ」

 肖像画の定石として表情を持たない面影に苦い声で付け加える。

「しかし、わしの知るそなたの顔をしておらぬ」

「失礼します」

 廟堂に低く重いが不思議と通る女の声が響いた。

 若き皇帝は一抹の疎ましさを滲ませた面持ちで振り向く。

 長身に喪服を纏った、釣り気味の大きな目をした、むしろ男にしたいような端厳な姿をした女がやはり喪装をした女たちを従えて入ってくるところであった。

 皇后を始めとする主だった后妃とその侍女たちである。

 北方、西域さいいき、南方など異国から嫁いだ者も含めて、花や宝玉にも比すべき佳人が揃って並んだ。

 棺の中の人より一般には艶麗ですらある女たちを皇帝は、しかし、徒花あだばなでも眺めるような空しい面持ちで見やる。

關貴人クワンきじんは一命をなげうって皇上こうじょうをお守りしました」

 二十二歳の皇帝より一つ下の皇后は一様に喪服を纏って居並ぶ妃とその侍女たちの先頭に立って語り出した。

「父の關大将軍の名に恥じない最期です」

 大将軍の名を耳にした皇帝の目がいっそう虚ろになる。

「年こそ上でしたが、私に対しても驕らず礼を尽くしてくれました」

 皇后は飽くまで穏やかな面持ちと語調で述べたが、後ろに並ぶ妃たちの間には緊張が走った。

「本当に惜しい人を亡くしました」

 傍で目にする者には息苦しさを感じさせるほど端然たる面差しの皇后は吊り気味の双眸そうぼうにどこか冷やかな光を宿して続ける。

「私たちからも心よりお悔やみを申し上げます」

 廟堂に暫し沈黙が流れた。

「そうか」

 蒼ざめた面持ちの皇帝は密かに拳を震わせながら頷いた。

「六花も泉下で喜んでおろう」

 喪装の女たちから目を背け、早足で廟堂を出て行く。

 后妃たちはまるで彫像のようにその場に佇立していた。

 皇帝の姿が廊下の奥に消えたところで、それまで黙していたあおい目の淑妃がふと祖国の言葉で低く呟く。

“常勝将軍、流れ矢に倒れたり”

 背後に控えていた、その西域の言葉を解す宮女たちは表情を消した面持ちで淑妃の後ろ姿とその向こうに置かれた翡翠造りの棺を見詰めた。

 いずれも突厥王女とっけつおうじょだった主君に従って故郷を離れ、燕京の宮殿に仕えることを余儀なくされた異族の女たちである。


*****

 慶嘉けいか六年十二月、しゅう朝五代皇帝睿宗えいそう潤麒じゅんきの寵姫である關貴人かんきじんこと關晶かんしょう(字は六花りっか)は、刺客の放った矢にたおれた。享年二十七。二十二歳の皇帝にとっては幼い頃から寄り添ってきた姉のような存在であった。

 彼女の暗殺は寵愛を危ぶんだとう皇后による策謀とも、はたまた前年に嫁いで当時は淑妃の地位にあった突厥王女・氏、後の慈恵じけい太后がかつて西討大将軍として祖父の突厥王を敗死させた關翔かんしょうとその遺児である關貴人を憎んでいたためとも伝えられている。真相は定かでない。

 ともあれ、愛妃の死を深く悲しんだ慶嘉帝は生前は下位の貴人に留められた六花に皇后に準じる皇貴妃の地位を贈り、おくりなを「武賢皇貴妃」という。

 また、彼女の住んでいた常陽殿じょうようでんは生前のままの姿に留め、他の后妃を住まわせることは決して無かったという。

 慶嘉四十年十一月、皇都・燕京に初雪の降った日の午後に皇帝潤麒は世を去った。

――次にこの庭に風花かざはなが舞い散る時にはちんは世にあらず。

 その年の秋、常陽殿の庭の蓮池に緋色の楓の葉が次々落ちて水面に漂う様を眺めて呟いた言葉の通りになった。

 享年五十六。十七歳で即位して四十年、かつての紅顔はその色を失って深い皺が刻まれ、烏珠ぬばたまの髪は雪を延べたが如く白く変わっていた。

 

*****

“北京郊外で陵墓発見 慶嘉帝の愛妃關貴人か”

“『ウイグル族蔑視』 ウルムチで抗議続出 慈恵太后を描いた映画『碧眼女皇』上映中止”

“上海美術館『大周美術展』今日から 董皇后真筆『三色牡丹図』など一挙公開”

 地下鉄の車内、真新しいスーツを着た二十二歳の關瑞華クワン・ルイホアはシートに腰掛けてしばらくモニターに表示されるニュースを見上げていたが、ふと正面を向き直って固まる。

 向かいのガラス窓には、結い上げた長い髪には白玉の飾りの付いた簪を挿し、冬の遠駆け用の毛皮を纏った、顔は自分と生き写しの后妃が映っていた。

 だが、それ一瞬のことで、次の瞬間には元通りスーツを着た自分の姿に変わった。

 ほっとまだ大学生の瑞華は息をつく。

 昨夜ゆうべは妙な夢を見た。

 幼い頃から弟のような遊び相手だった少年が長じて帝位に就き、父の死後は不遇に暮らしていた自分は下位の側妃として召し出される。

 しかし、そこで目にしたのは後宮という女性たちの息詰まるような哀しい世界であった。

 柔弱で孤独な年下の皇帝に寄り添いつつ、憎しみや権謀の渦巻く後宮での生活に疲弊し、住んでいる宮殿の庭での花作りと二人だけの遠駆けの時間に安らぎを見出すようになった。

 だが、後宮に上がって五年目の年の暮れ、遠駆けをしていた正にその時、何者かの放った矢に当たって命を落とした。

 目が醒めた後も、あの人を遺してきてしまった悲しい気持ちが胸の痛みと共に残った。夢の中でしか知らない人なのに。

 不意に車窓の風景がパッと明るい駅の構内に切り替わった。

 大量に乗り込んでくる客と入れ替わるように瑞華は立ち上がって降りていく。


*****

「面接の方ですか?」

 夢で見た史淑妃、夫の死後に権勢を握って周朝を揺るがせた慈恵太后にそっくりな彫り深い面輪の、しかし、瞳は碧くはなく漢族と変わらず黒い、ウイグル族出身らしい受付嬢は尋ねる。

「はい。三時からの予定です」

 瑞華は早くも緊張した面持ちで答えた。

「それではそちらのエレベーターから五階にお越し下さい」

 受付嬢はどこか冷たく澄んだ声と儀礼的な笑顔で示した。


*****

 面接室に入った瞬間、瑞華は思わず手にした鞄を足元に落とした。

「失礼します」

「大丈夫ですよ」 

 散乱した鞄の中身を拾って入れる女子学生に穏やかな若い男の声が届いた。

「今日はお越しいただきありがとう」

 まだ青年と言っても差し支えない上等なスーツ姿の男は夢で連れ添ったあの人にそっくりだ。

「私が社長の楊泰麟ヤン・タイルンです」

「私はアートディレクターの董怡ドン・イーです」

 こちらは夢で目にした董皇后に生き写しでやや吊り気味の大きなアーモンドアイが特徴的な、しかし、固く真っ直ぐな黒髪は短く切り揃えて長身にパンツスーツを纏っているため美女というより中性的な美青年じみて見える人だ。

「よろしくお願いします」

 瑞華は背筋を真っ直ぐ伸ばして頭を下げた。 


*****

「お疲れ様です」

 エレベーターから降りてきた瑞華に先程の彫り深い面立ちの受付嬢がどこか冷たいものを底に潜めた笑顔で声を掛ける。

「どうもありがとうございます」

 瑞華は苦笑いして頷いた。


*****

「寒い」

 ビルの自動ドアから出てきた瞬間、瑞華は白い息を吐いて震え上がった。

「早く帰らなくちゃ」

 駅に向かって足を速める女子学生のすぐ脇の車道をスーッと黒塗りの外車が走って来て停まる。 

 サイドウィンドウが緩やかに開いて楊社長の顔が現れた。

「君の家は五道口ウーダオコウの近くだよね」

 翳りのない笑顔で続ける。

「電車より車の方が早いから送るよ」

 少しの間、沈黙が流れた。

「立派なお車ですね」

 女子学生は称賛よりもどこか憐憫を滲ませた笑いを浮かべて続ける。

「お城みたいなビルを建てて、十六人担ぎの輿こしのような車に乗ってらっしゃる」

 今しがた出てきた、雲をつくような高層ビルを見上げて語る女の声は寂しい。

「そうしなければ、自分も相手も守れないんだよ」

 まだ青年と言っても良い社長はごく穏やかな、しかし何かを諦めた風な苦味を潜めた声で返した。

「とにかく私は今、君を安全に家まで送りたい」

 今度は真正面から瑞華を見据えて告げる。

 再び沈黙が流れた。

 ふと二人の間を白い羽毛じみた欠片がひらひらと半ば漂うにようにして落ちてきた。

 二人は同時に空を見上げた。

 冬の夕空から真っ白な鳥の翼にも花びらにも似た雪の欠片がゆっくりと群れを成して舞い降りてくる。

 男は白い息を吐きながら笑って呟いた。

「雪が羽根みたいだ」

(了)


*monogatary.comのお題「海外ドラマ風の物語」からの創作です。

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六花の女将軍 吾妻栄子 @gaoqiao412

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