六花の女将軍

吾妻栄子

六花の女将軍

六花りっか、行くぞ」


 馬上の陛下は白い息を吐いて笑った。


「お召し物はそれで大丈夫ですか」


 今朝は特に冷え込みが酷い。


 この雲行きでは途中から雪に降られるかもしれない。


「平気だ」


 笑い飛ばすが、幼い頃からこの時期になると決まってお風邪を召すのだ。


*****

「もう山は雪景色だ」


 遠目に臨む山々は頂きから七分目辺りまで白く覆われている。


「この寒さでは、今宵あたり内裏うちにも降るかもしれませんね」


 私は平気だが、供の者たちの寒そうな紫の唇に気付いて欲しい。


「昔、老爺ろうやがあのてっぺんに連れて行ってくれた」


 死んだ父の話だ。


「覚えているだろう」


 振り向いた陛下はどこか寂しい目をしている。


「ええ」


 あれは大将軍だった父が遠征に出て命を落とす一月前だった。


「頂上は晴れ渡って、降り積もった雪が宝さながら輝いていた」


「覚えておりますわ」


 私が十で、まだ東宮だった陛下が五歳の時だ。


「戻ろう」


 来た時と同じ唐突さで陛下が告げる。


「それでは、只今より内裏に戻る!」


 それまで押し黙っていた太監が待ち兼ねた風に叫んだ。


 陛下のこの気紛れな遠駆けに付き添うのは、后妃では私だけだ。


 他のことではさして目立つ場面もないが、この一事を以て「女将軍」と呼ばれている。


 もともとさしたる容色でもなく、しかも陛下より五歳も上の私が後宮に上がったのは、一命を擲って異賊を撃退した大将軍の父の余光だ。


「女将軍」には、恐らくそんな揶揄も込められている。


*****

「雪の晩はやはり冷える」


 月にニ、三度、気紛れな遠駆けをした日には、陛下は決まって私の部屋で夜を過ごす。


「ここで六花と寝る時が一番心が休まる」


 胸に頬を寄せていつもこう呟くのだ。


 ただ、「胸に抱いて背中を擦ってくれ」と請われるだけで、夫婦の契りを結んだことは一度もない。


 後宮での位階は「貴人」だが、陛下にとっての私は「女」ではないのだろう。


「ずっと側にいて、わしを死ぬまで守ると言ってくれ」


 十七になったばかりの陛下が涙混じりに呟く。


「六花がきっとお守り致しますわ」


 近頃、急に幅と厚みを増した肩を撫でると、ぎゅっと私の寝衣の胸を掴む手が強まった気がした。


 カッと体の血が熱を持ってざわめくのを感じる。


「ずっとお守り致します」


 私の胸に頬を寄せた陛下は熱い吐息を吹き掛けるだけで何も言わない。


 辺りは本当に静かだ。


 雪は、今夜は止まずに降り積もるのだろうか。


 暫く遠駆けはお預けになるかもしれない。


 うとうとと急に霞が懸かり始めた頭でそう思うと、唇にあるかなきか柔らかく触れるものを感じた。(了)

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