叶うなら、呼吸を繰り返す死人になりたい。

煙草を好む理由は単純です。
まず味が好きになる。香ばしくて、銘柄によって辛かったり甘かったり、煙が濃かったり薄かったり。

お酒に星の数ほどの種類があるのと同じで、煙草にもそれぞれの良さがあり、本来ならばそのどれもを試して違いを楽しむべきだ。

しかし多くの人は、煙草はニコチンを摂取する道具と見なすし、酒はアルコールでハイになるための道具として扱い出す。

煙を吐き出し、軽やかに消えてゆくそれを眺めている間だけは、あらゆる喧騒から開放され、僕は一人になれる。

目を開けながらにして夢を見ているような、心地よい閉塞感。
それは現実逃避なのか、ただぼうっとしているだけなのか。

「長期的な自殺」とはまさしく僕が煙草に手を出した理由で、まあきっかけは好きな人が喫煙者だったからなんですけど、その恋が潰えたあとも吸い続けたのは、思い出を反芻するため、そして出来るだけ早く死ぬためだった。

人は誰しも死にたがりの蝉を飼い慣らしていて、そいつはずっと鳴き続けている。
でも夏の盛りに聞こえるその声は、あまりにも長く聞いていると気にならなくなってくる。

だから僕らは、そいつがどれだけ大きな声で叫んでいても、日常に溶け込んだBGMとなって認識の外に放り出される。

そして時々、静かな部屋で己の掌を見つめている時なんかに、ふと気づく。
あれほどやかましかった声が、今だけは鳴り止んでいる事に。

人は死にたがりの蝉と同時に、生きたがりの蝶も飼っている。
前者と違い、それは音を発さず、耳を澄ましても微かな羽の音が小さく響くだけだ。

その声に耳を澄ましていると、考えてしまう。
あの蝉の鳴き声は、うるさいけれど心地よい、邪魔くさいけれど消えてほしくない存在なのだと。

物語の世界に没頭していると、己の鼓動すら邪魔になる。彼女もきっと、読書中に現れる男どもを鬱陶しく思っているだろうし、こんな世界よりも小説のほうが幾分か見ごたえがあり、どちらかで生きろと言われたら後者を選ぶだろう。

自ら歩き出す脚が無いから、脚のある世界に逃げ出したくなる。二キロ程度の脳内でなら、僕達は龍にだってなれる。

心臓はいついかなる時も鳴り止まない。一度耳に届くと、もうそれにしか意識がむかなくなる。蝶のはためきに気づいてしまったときと同じ、それはもう離れられない魔力を帯びている。

だから僕達は、いざという時に口を噤む、意外に立場を弁えている蝉を愛する。死の使いを愛する。

でも僕らはやがて気づく。蝉は死を叫ぶものではなく、死に恋をしただけの生者なのだと。

煙草という道具を借りて、長期的な死という不確かな理由に身を委ねるのと同じ、ただ「生きたい」と断言出来ないだけの、死者に憧れる生者なのだと。

きっと蝉は生きたいという感情を持っている。だけれどその生きたいという言葉の中には、苦しみのない優しい世界で、という前提が含まれている。

そんなものはない。だから代わりに、仕方なく、妥協案として死を望む。

だから彼女も、そして彼らもいつかは気付くだろう。
「死にたがる思いは、生きたいという思いが無ければ生まれ得ない」ものなのだと。

僕は己の中の蝉に爪を掛け、その羽を優しく引きちぎろうと思う。ペキさんはそいつをどう手懐けるだろう。キャラクター達にどんな手段を選ばせるだろう。

早く続きが読みたい。死にたがる生きたがりたちが、この先どんな選択をしていくのか、僕はそれを知りたいと願う。

呼吸を繰り返す死者になれたら。ありもしない理想を頭の中で奏でながら、僕は煙草に火をつける。