言い分 1:彼の場合

(1)

彼女は僕がどうしたら傷つくのか、一番よく知っていた。スイッチが入ると、彼女は一瞬でそこからあっち側へ行けた。僕たちは、腐った果物のようにくっついて、離れられず、憎みあい、そして愛しあっていた。今日もそれは、些細な出来事から始まった。のどが渇いて夜中にキッチンへ降りて行ったとき、リビングのテレビがつけっぱなしで、ソファーの上にはぐっすり眠る彼女、そしてシンクの中には汚れた大量のお皿。毎度おなじみの風景だ。僕はそっとキッチンの電気をつけて、お皿を洗い始めた。レンジの時計をふと見ると、午前一時四十九分だった。僕は最大限音をたてないように気を付けていたつもりだった。だけど、些細な音でも敏感な彼女の耳は、夜中に響く食器を洗う音には耐える事が出来なかったみたいで、案の定起こしてしまった。小さな唸り声をあげて、ソファーから立ち上がる彼女が見えた。

「何?一体何時だと思っているのよ?せっかくぐっすり眠っていたのに、何てことしてくれんのよ。」

こんな時は、何も言わない方がいい。たとえ優しい一言でも、火に油を注ぐ結果になってしまうことは、過去の経験からいって分かり切っていた。僕は、黙々とお皿を洗い続けた。

「ねえ、聞こえてんの?今何時?あとからやるつもりだったんだから、もう眠らせてよ。」

彼女のスイッチが入った。瞬間湯沸かし器がどのくらいの速さでお湯を沸かせるのか、ぼくは知らない。だけど、彼女がそこからあっち側へ行くのはそれよりも速いことは確かだ。すごい速さと鬼のような形相で、彼女がキッチンに入ってきた。そして僕の手からお皿を取り上げて、思い切り床にたたきつけた。プラスチックのお皿は、カーンと乾いた音を立てて、一回バウンスして転がった。僕は内心ほっとした。ああ、よかったプラスチックのお皿で。

「ねえ、二時、朝の二時。わかる?こんな時間に起きてお皿を洗う人なんて、常識的にいないのよ!ねえ、いい加減にしてよ、疲れているんだから。」

それを無視して、僕はあと少し残っていたお皿を洗い続けた。無視をされると、彼女はカッとなることが多いけど、あとちょっとだから、早く終わらせてしまいたい、と僕はやけになっていた。それがいけなかった。ちらりと横に立っている彼女を見ると、ああ、そうなの、そういうことなのね、という表情をして、にやりと気味の悪い笑みを浮かべていた。そして、彼女はそこから立ち去った。

すべてのお皿を洗い終えてほっとしたのも束の間で、二階に駆け上がる彼女の足音が消えた後、ギターの弦を力任せに弾く耳障りな音が聞こえてきた。ああ、それだけは、やめてくれ!僕は急いで音のなるほうへ走っていった。

彼女は知っていた。暴力で傷つけることができない人間は、大切なものを奪ったり、壊してしまえばいいということを。彼女があっち側へ行っている間、そこには価値観なんて存在しない。あるのは彼女の独断と偏見と異常さに満ちた、物を壊してやった、だから私はそれほどあんたを愛しているんだ、というゆがんだ愛情表現だった。僕の大切なギター。仕事部屋にしてある二階のその部屋には、僕の大切なものが詰まっていた。生活を潤わせるために必要な道具や、書物、そしてパソコンや、趣味の域を超えた音楽活動のために使う楽器たち。そのギターは僕の尊敬する先輩が、仕事と音楽活動の両立ができないということで、譲ってくれた思い出の品だった。安物だったけれど、いい弦を張れば、それなりにいい音が出る。そして何よりも学生の頃の思い出や、あこがれが詰まっている。これまでも何度か彼女に壊されかけて、傷が入っていたり、変な落書きがされてあったりしているけれど、無事に今日まで乗り越えてきた、いわゆる戦友のようなものだ。僕は部屋に入ると、ギターを彼女の手から取り上げた。逆上した彼女は、僕に殴りかかってきた。僕は反射的に彼女を突き飛ばしてしまった。彼女はふわりと僕から離れていき、スローモーションで床に転がった。そのカッと見開かれた目が怖くて僕はそこに固まった。ゆっくりと、彼女は立ち上がり、それよりも数倍速く僕に突っかかってきたかと思うと、僕の顔をこぶしに悪意の力を込めて殴り始めた。そうなると、僕はもう何もできなくなる。痛みなんてそこには存在していなかった。あるのは絶望感と、何でここにいるんだろうという疑問。逃げてしまうのは簡単だった。だけれど、そこにある共依存という不思議な魔法は簡単には解くことができず、疎いと思いながらも僕は彼女を心から愛していた。こんな彼女を心から愛せるのは僕だけなんだという変な自負もあって、そこから逃げれずにいた。僕はそこにいることを自ら選んでいたのだった。

殴れるだけ殴ったら、彼女はふんっと言って僕の仕事部屋から出て行った。僕は放心状態でそこに横になったまま、天井を見つめていた。そして今までのことを思い出していた。

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掌編・短編集 まみすけ @mamisuke

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