後日談
『野良猫屋敷』で俺と明理、それから瀬田山先輩の三人は文字通り命がけの経験をした。
だが、大変だったのはむしろそれから後のことかもしれない。
警察と救急に通報し、『野良猫屋敷』の周辺は一時騒然となった。現場に留まっていたら、すぐにマスコミも押し寄せて混乱のるつぼになっただろう。
スタンガンを受けた瀬田山先輩と監禁で憔悴していた明理、そして何より包丁でいくつも傷を受けた俺は救急車で病院に運ばれた。
全員命に別状はなく明理と瀬田山先輩は入院の必要もないと診断された。
だが、さすがに太ももをざっくりと突き刺された俺はしばらく入院することになった。
入院中も一週間ほどは毎日のように警察が病室へとやってきて、『野良猫屋敷』で起きたことを質問してきた。
相沢さんを殺したのは俺なのだから当然だろう。
仕方なく、できる限り鮮明に『野良猫屋敷』で起きた出来事を話した。もちろん、俺と明理の猫殺しについては伏せて。
一週間、毎日のように警官が来て同じ話をさせられるので、ひょっとしたら俺の話を疑っているのかも――と不安になったが、どうも警察の取り調べというのはそういうものらしい。
何度も同じ話を聞いて、嘘やあいまいな記憶で証言が変化しないか確かめるわけだ。
幸いなことに、俺はそのときのことをよく覚えていて何度も詳細に証言をできたので、警察も信用してくれたようだ。
相沢に殺されて猫のエサにされた宮野さんの死体、監禁された明理、スタンガンで襲われた瀬田山先輩、俺の身体についた無数の包丁の傷跡、それから普段の相沢さんの奇行――証拠は十分すぎるほどある。
結局、俺は正当防衛ということで不起訴処分になった。
この事件は『猫狂いの女性が被害妄想に駆られて、殺人・監禁・暴行を行い、被害者の一人に正当防衛で殺された』――そういうことで幕を引いた。
俺と明理の動物虐待の話が一度も出なかったところを見ると、どうも瀬田山先輩も口裏を合わせて黙っていてくれたらしい。
彼女には数えきれないほど世話になったし、迷惑もかけた。
一度、お礼を言っておきたい――事件から二週間ほど経ってマスコミの報道も落ちついてきたころ、ベッドに身を横たえながらそんなことを思っていた。
すると、病室のドアが開き、俺のベッドへと歩いてくる足音が聞こえる。
いつも通り、学校帰りに明理が見舞いに来たのだろうと思って身を起こすと、そこには瀬田山先輩が立っていた。その手には何やら紙袋を提げている。
「せ、瀬田山先輩? 何でここに?」
「何って……見舞いに来たんだけど」
彼女は怪訝そうな顔で俺を見ながら言う。
「いや……それはそうなんですけど」
「はい、これ」
そう言って瀬田山先輩は俺に紙袋を突きだす。
それを受け取って中身を見ると、そこにはバナナが入っていた。見舞い品の定番だ。
どうやらお見舞いに来たというのは本気らしい。
「あの……どういう風の吹きまわしですか?」
「……見舞いに来た相手に言うにはけっこうな言葉ね。こういうときには言うべき言葉があると思うけど?」
瀬田山先輩は腕を組んだまま不機嫌そうに俺を見る。
「……どうもありがとうございます」
「うん、よし」
そう言って、瀬田山先輩はベッド近くに置かれた見舞い客用のパイプ椅子へと腰を下ろす。
「まあ、意外に思うのも無理はないかもね。私はあなたを目の敵にしてたし」
「正直驚きましたよ。先輩が来てくれるなんて」
俺が率直にいうと、瀬田山先輩は言いにくそうに目を逸らした。
「お礼を言いに来たの」
「お礼?」
すると、瀬田山先輩はこちらに向き直る。
「その怪我、明理を守るために負ったものだって聞いた。明理を守ってくれてありがとう」
そう言って、瀬田山先輩は俺に頭を下げる。
それでわざわざ見舞いに来たのか……と、納得した。
つくづく律儀な人だ。
「頭を上げてください、瀬田山先輩。俺はお礼を言われるようなことなんてしてませんよ」
「でも……」
「俺が明理を守りたかった……自分のエゴのためにやったことです。他人にお礼を言われる必要なんてありません」
瀬田山先輩は呆気に取られたように俺を見ていた。
だが、やがてその表情をほころばせる。
「私はあなたに『大切なものがない』と言った。でも、それは私の勘違いだったみたい」
「瀬田山先輩が気付かせてくれたんです。ありがとうございます」
「どういたしまして。……どうやら、明理はあなたと一緒にいた方がいいみたいね」
「え?」
「あなたは私が倒れている間、命がけで明理を守った。そして、明理もあなたのことを友達として信頼してる。もう『一緒にいるな』なんて偉そうなこと言えない。私の方が身を引くよ」
そう言って、瀬田山先輩は立ち上がる。
「もう行くんですか? もう少しゆっくりしていったら……」
「いつまでもいちゃ悪いから……」
「いえ、実は……」
言いながら、俺はベッド脇にある冷蔵庫の扉を開けた。
その中には、いくつものフルーツやお菓子が所せましと入れられていた。
「……何これ?」
「明理やクラスメイトが見舞いにくるたびに食べ物を差し入れてくれるんですが、食べきれなくて……処理を手伝ってくれませんか?」
ちなみに、それらの見舞い品の内訳は三割が直哉のもので残りのほぼ七割が明理からのものといったところだ。
俺が入院してからほぼ毎日のように見舞いに来て、『いらない』と言ってもそのたびに食べ物を差し入れてくる。おかげで冷蔵庫の中に食べ物が溜まっていく一方だった。
「あいにくだけど、私は今日は帰るから。このまま待ってたら、もしかしたら明理と鉢合わせ――」
言いかけたとき、病室のドアが開かれた。
「陽樹~っ! 養生してるかな? 今日も差し入れのメロン持ってきたし!」
バカでかいメロンを小脇に抱えながらテンションの高い明理が病室に入ってくる。
そして、瀬田山先輩と視線を合わせ、硬直する。
「い、育音……!」
動揺して目を見開く明理に、瀬田山先輩は苦笑する。
「……長居しすぎたみたいね」
瀬田山先輩は悲しげにそう呟いて立ち上がる。
「約束する。あなたたちの猫殺しのことについては誰にも言わない。あなたたちとももう関わらない。だから、安心して」
彼女はそう言って、病室の出入り口へと歩いていく。
明理とすれ違うとき、瀬田山先輩は一言、
「さよなら」
と明理に言った。
瀬田山先輩はそのまま、病室のドアへと歩いていく。
そんな彼女に肩を震わせた明理が声をかける。
「育音っ! わ、私……育音のこと、友達だと思ってるから! 友達じゃないなんて、嘘だから!」
その言葉に、瀬田山先輩は病室のドアの前で立ち止まる。
その表情は見えない。だが、その心の中で逡巡が渦巻いているのがわかった。
しばらくの沈黙の後、瀬田山先輩は振り向かずに別れの言葉を言いなおした。
今度は別の表現で、友達同士で交わすように。
「じゃあ、またね」、と。
そして瀬田山先輩は病室から出て行った。
短い、ほんの一言だけの言葉。
だが、それでも親友同士の間では十分だったのだろう。
瀬田山先輩が去ってからしばらくして、明理は涙をぬぐうように手で顔を擦っていた。
そして、振り向いた明理の顔にはまばゆいばかりの笑顔が浮かんでいた。
その笑顔を見て、俺もまた口元をほころばせる。
俺は明理と出会ったことで孤独から救われた。そして、明理も瀬田山先輩も一年前の交通事故から生まれたわだかまりを解消することができた。
――あとは、やるべきことが一つだけ残っている。
一年前、明理が両親を失った交通事故――その清算を完全なものにするには、まだ一匹、殺すべき命が残っていた。
それから数日後の日曜日。
怪我が完治して退院した俺は、明理を伴って『野良猫屋敷』へと向かった。
相沢が飼っていた猫はそのまま『野良猫屋敷』近辺に住みついているのだという。もっとも、エサを与えていた相沢が死んだので、少しずつその数を減らしているらしい。
坪内さんたちが近々大規模な捕獲を行い、それらの猫を保護する方針を固めたということを、瀬田山先輩がそれとなく伝えてくれた。
その際に彼女はこんなことも言っていた。
相沢の飼っていた猫は保護するのは数が多すぎ、また、その中の多くは病気に感染している。保護団体の総力を挙げても全頭を助けることはできないだろう、と。
それはつまり、暗に『黙認する』と言っているのと同じだった。――明理が一年前の交通事故について決着をつけることを。
わざわざ捕獲器を使うまでもなく、この数週間エサをもらえずに弱った三毛猫は簡単に捕獲することができた。病気を発症しているらしく、その毛並みは悪く、しきりにくしゃみをしている。
この様子では坪内さんたちが保護するのを待たずに死んでいただろう。死ぬ前に捕獲できたのは幸運だった。
俺たちは三毛猫をペットキャリーに入れて、さも野良猫を保護しているような顔をして俺の家まで帰った。
そして、俺たちは三毛猫をガレージの中へと放した。これまで何匹もの野良猫を痛めつけて殺してきた、あのガレージへと。
二人はガレージの中心でぐったりとしている三毛猫を見下ろしながら立っていた。
既に三毛猫には水責めをして体力を奪い、その前足と後ろ脚をテープで縛っていた。
もっとも、病気の三毛猫は死にかけていた。そんなことをしなくても抵抗の心配はなかっただろう。
「……本当にやるのか?」
改めて明理に質問する。
すると、明理は力強くうなずく。
「うん。この三毛猫のせいで私のお父さんとお母さんは死んだ。この三毛猫だけは……この手で殺さないと自分で納得できないよ。それに……せっかく自分の手で猫を殺せるようになったんだからね」
明理は自分の両手を見つめながらいう。
『野良猫屋敷』で相沢の飼っていた猫を絞め殺したことを思い出しているのだろう。
あの一件で彼女はトラウマを克服し、生き物の命を奪うことができるようになった。
今では、目の前で虫が死ぬのを見ても平気だろう。
「わかった。ここまで来たんだ。最後まで付き合うよ」
そう言って、ナイフを明理へと手渡した。
このガレージで明理が練習のために何度も猫を殺そうとして果たせなかったあのナイフだ。
わずかな明かりに照らされる薄暗いガレージの中、『役目を果たさせてくれ』と言っているかのようにナイフはぎらぎらと輝いていた。
明理はそのナイフを受け取ると、見とれるようにその刀身を見つめていた。
三毛猫が病気でしわがれた鳴き声を上げる。自分の身に危険が迫っていることを本能的に察しているのか、必死に身をよじっている。
だが、テープで身体を縛られた三毛猫はどこにも逃げることなどできない。
そんな三毛猫の傍らに明理は膝をつく。そして、ナイフを逆手に持ち、三毛猫の腹の辺りへと切っ先を向ける。
「……!」
それでも、さすがに躊躇しているのか、ナイフを持つ明理の手は震えていた。
ナイフの切っ先も焦点が定まらないまま、空中で震えている。
そんな明理のそばへと近づき、彼女の手に重ねるようにナイフを支えた。
「陽樹……?」
呆気に取られた様子で明理が俺の顔を見る。
「『最後まで付き合う』って言っただろ? ここまで一緒にきたんだ。見ているだけなんてのはナシだろ?」
言うと明理は安心したように微笑んだ。
「……ありがとう。陽樹と一緒なら私、怖くない」
明理の手の震えは止まった。
ナイフの切っ先はまっすぐに三毛猫の腹へと向けられている。
生き物は他の生き物を殺して生きている。
ゴキブリは誰にも命を省みられることなく潰され、バラは野良猫に踏み荒らされて枯れ落ちる。そして、野良猫は俺たちのような猫殺しに殺される。生きているものは、生きている以上全てが等しく加害者だ。
殺されるべき命も守られるべき命の境界線も存在しない。
あるのはただそれぞれのエゴによる命の優先順位だけ――他の何をも犠牲にしても生きていてほしい命と、それ以外の命。
自分にとって大切なものと、そうじゃないもの。
区別があるとすればそれだけだ。
そして俺はようやく大切なものを手に入れた。
ナイフを握る手に確かなぬくもりと血のめぐりを感じる。
大切な存在が生きていてくれているという、それだけで、自分が生きていることにも感謝することができた。そんな存在が俺にできるなんて、ほんの少し前までは考えもしなかった。
明理と出会ってようやく「命の優先順位」を得たのだった。
俺と明理、どちらが合図するともなく同時にナイフを振り下ろす。
恐怖に上ずった三毛猫の鳴き声がガレージの中に響く。きっとそれがこの世で上げる最後の鳴き声になるだろう。
猫の内臓を貫くナイフの感触と断末魔の響きが、俺たちを祝福しているように思えた――。
終
猫殺しの放課後 藻中こけ @monakakoke
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