最終話 猫殺しの放課後


 カーテンの隙間から差し込む光に顔をしかめながら、ゆっくりと目を開く。


 そこは見なれた俺の部屋の天井だった。


 だが、ベッドではない。部屋の床に仰向けになって倒れていた。身を起こすと、腕に痛みが走る。


 目をやると、そこには白い包帯が巻かれている。


 だが、包帯には真っ赤な血が滲んで固まっていた。


 それを見て、昨夜の惨めな失敗を思い出す。



 明理や瀬田山先輩が危険な目に遭わないよう、先んじて野良猫を殺そうとした。


 だが、それに失敗して、相沢という狂女に手傷を負わされて逃げ帰ってきたのだった。


 救急箱がひっくり返されて中身が散乱している部屋の中の様子を見ると、家へ逃げ帰ってから手当てをして、そのまま疲労で意識を失ってしまったようだ。


 傷が浅かったからよかったものの、深ければ失血多量で今ごろ死んでいたかもしれない。


 実際に、少し貧血気味で身体がふらついていた。


「今日はさすがに学校には行けないな……」


 そう思い、その辺りに落ちていた携帯電話を取り、担任の三沢先生へと電話をかける。


「もしもし、三沢先生? 小川です」


『おう、小川か。どうした?』


「すみません。今日風邪気味で……欠席させてほしいんですが」


『……別にいいが、そういうことはもっと早めに連絡してほしいな』


「え?」


 三沢先生の言葉に、俺はベッド脇に置いてある時計へと目をやった。そこに表示されていたのは『3:40』という時刻だった。


 外の明るさからして、午前三時ではないのは明らかだった。そういえば、日の光が差し込んでくるカーテンは西側のものだった。


 昨日の一件で、よほど肉体的にも精神的にも疲れていたようだ。どうやらとんでもなく長い時間眠っていたらしい。


「えーっと……すみません、風邪で頭がボーっとしてて……」


『ああ、構わん。欠席の連絡がないよりはマシだ。高坂みたいにな』


 ぼんやりとした俺の頭に高坂という名前が染み込んでくる。


「明理も今日欠席してるんですか?」


『そうなんだ。小川、おまえ何か知らないか? 高坂と仲いいだろ』


「いえ……知りません」


『そうか……じゃあ、お大事にな。これから帰りのホームルームなんだ』


 三沢先生との通話は切れた。


 そして、すぐさま明理の電話へと発信する。だが、いつまで経っても明理は電話に出ない。


 コール音にますます不安が募って行く。携帯電話をベッドへと投げだすと、俺はすぐに服を着替え始めた。



 その後、向かったのは明理の家だった。


 体調不良か何かで学校を休んでいるのなら、家にいるはずだ。


 明理がいるかどうかを確かめるために玄関へと近づき、インターフォンを鳴らす。


 だが、いつまで経っても返事はない。


 玄関の脇へと目をやると、駐車スペースがあったがそこには車は止まっていない。まだ午後四時過ぎといったところだから、両親は仕事で帰っていないのかもしれない。


 しかし、明理が家にいないのは妙だ。


 学校にも来ていないのなら、いったいどこにいるというのだろう?


 そのとき、俺は昨夜のことを思い出した。


 相沢に襲われて逃げた後、その途中で誰か『野良猫屋敷』へと向かって歩いていく足音とすれ違った。


 だが、あそこは古い住宅街で、夜中に出歩く人間などそう多くはない。それが『野良猫屋敷』へ向かうというのならなおさらが。


 あれが明理だったのではないか、という想像が頭をもたげる。俺が明理と別れたあとすぐに行動を起こしたように、明理も三毛猫を殺そうと行動を起こしたのではないだろうか。


 明理は自分の手で猫を殺せないのだから、一人で行動は起こさないだろうと、心のどこかで安心していた。


 だが、『自分の手で殺す』というのは俺との約束と、ただ毒餌で騒ぎになれば飼い主が猫を匿ってしまうかもしれない、という懸念のためだった。


 だが、今は明理は俺と決別した。あの相沢という女は実際に毒餌騒ぎが起きているにもかかわらず、猫の自由にこだわって放し飼いを続けている。


 明理が自分の手で仇の猫を殺すのにこだわる理由はもはやない。となれば、あいつ本来の手口で殺しに行ったとしても何の不思議もない。つまり――エチレングリコールによる毒殺。


 明理は昨日俺と別れた後、すぐ家に帰ってエチレングリコールを用意したのかもしれない。毒薬のガラス瓶を持って『野良猫屋敷付近』へと向かったのかもしれない。


 そして、そこであの辺りを血眼で見まわっていた相沢に見つかり――明理の身に何かあったのでは。


 いや、昨夜から家に帰っていないなら、家の人間が不審に思うはずだ――そんな甘い考えが俺の脳裏に浮かぶ。


 いつだったか、この家に明理を送ったことがある。そのとき、明理の伯父さんは、明理が夜遅く帰ってくることを心配する素振りすら見せなかった。そのことを俺はよく知っているというのに。


 俺は玄関から離れ、通りへと出る。


 そのとき、意外な人物とばったりと遭遇した。


「お、小川くん……? どうしてここに?」


 そこにいたのは瀬田山先輩だった。


 驚いた表情で俺を見つめているが、驚いているのは俺も同じだった。


「瀬田山先輩こそ、どうして明理の家に……?」


「今日、明理ときちんと話をしようと思って……でも、学校に来てないみたいだったから、担任の先生から今の住所を聞いて、直接会おうと思って……」


 瀬田山先輩は怪しむような目で俺を見ている。


「そんなことより、あなたは何しにきたの? 前は明理と決別するようなことを言ってたけど……そんなの、私は信じたわけじゃないからね」


 瀬田山先輩は腕を組み、俺を睨みつけている。


「それどころじゃないんです!」


 俺が声を荒げると、瀬田山先輩は驚いた様子だった。


 そして、俺は昨日の出来事をかいつまんで話す。


 明理を説得しようとしたが『一人でやる』といって飛び出してしまったこと、その後、『野良猫屋敷』に向かう明理らしき人物がいたこと。


 話しているうちに、瀬田山先輩も事態が飲み込めてきたようだった。


 彼女は先日相沢に門扉で挟まれた腕の辺りを手で握りしめた。相沢の異常性を彼女は身をもって知っているのだった。


「明理の身に何かあったら、俺は、俺は……! そうだ、早く行かないと!」


 瀬田山先輩との話を切り上げ、走り出す。


「私も行く!」


 背後から瀬田山先輩のそんな声と足音が聞こえた。


 俺は立ち止まらない。ついてくるなら勝手にすればいい。明理をまともな側に引き戻してくれる人物かどうかなんて、今は関係ない。明理自身の見に、危険が迫っているのだから。


 『野良猫屋敷』を目指して、さらに足を速めた――。


『野良猫屋敷』に到着することには日が傾き、空が朱色に染まっていた。


 それがまるで血の色のように見えて、余計に俺の心を焦らせた。


 東公園の近くを通り、古い住宅地の丘を駆け上がって行く。その丘の頂上に『野良猫屋敷』が鎮座している。


『野良猫屋敷』の向こう側の空は沈みゆく太陽によって夕暮れに染まり、ひどく禍々しい背景を作っていた。


 鉄製の門扉の前で『野良猫屋敷』の庭の様子をうかがっていると、後ろから走ってくる足音が聞こえる。


 振り返ると、そこにはずっと走ってついてきていたらしい瀬田山先輩が肩で息をしている。


「ね、ねえ……小川くん。本当にこの『野良猫屋敷』に明理がいるの? 他に明理が行きそうなところに心当たりは……」


 走っている間に、いくらか思考が落ちついたらしい様子の瀬田山先輩はそんな疑問を投げかける。


 言われてみれば、俺が考えているのはただの最悪の可能性にすぎない。


 もちろん、明理が昨夜『野良猫屋敷』になど来ていない可能性はある。


 昨夜夜道で聞いた足音はまったく違う人物のものだったかもしれない。明理は今ごろ、家でも学校でも、『野良猫屋敷』でもない場所をぶらついているかもしれない。


「そうですね……言われてみれば、確かに杞憂かも――」


 言いかけて、俺は野良猫屋敷の門扉近くの地面へと目を向けた。


 そして、そこに落ちているものを見て目を見開いた。


 しゃがみこんでそれを拾い上げ、まじまじと近くで見る。


 それは明理の髪留めだった。


 紫陽花を模したもので、確か明理の母親の形見だ。


 俺は、以前彼女がその髪留めが外れたときの取り乱しようを知っている。


 これがこんなところで無造作に落ちているということは……もはや疑いの余地はない。明理の身に何かがあったのだ。


「それ、明理の髪留め……?」



 瀬田山先輩もまた、その髪留めを見て息を飲んでいた。明理がずっとこれをしていたのは、彼女も見ている。


 髪留めを握りしめる。


 そして、立ちあがって門扉を手で引く。


 門扉は鎖で封鎖されておらず、簡単に開くことができた。


『野良猫屋敷』の庭では、無数の野良猫たちが門扉の開く音に反応してこちらを見ている。いくつもの猫の目が俺を見据える。


 招かれざる客を警戒するかのように。


「ちょっ、ちょっと……これ不法侵入じゃ……」


 そう言いながらも、瀬田山先輩が後ろから一緒に庭へと入ってくる。


「明理がいるかもしれない……いいや、間違いなく中にいるんです。つべこべ言わないでください」


 俺が地面に視線をやった。


 そこには、門扉から館の入り口へと向かって、何かを引きずったかのように雑草が倒れた跡がある。


 きっと、気絶した人一人を引きずっていったらこんな跡が残るだろう。


 俺は昨夜相沢と遭遇したとき、彼女が大型スタンガンを携行していたのを思い出す。


 こちらも何か武器を用意してくればよかった……と今さら後悔しながら、俺は瀬田山先輩に向き直る。


「今のうちに言っておきます。本当に危険かもしれません。逃げるなら今のうちですよ?」


「ふざけたこと言わないで……明理が危ないかもしれないんでしょ? だったら、私だけ逃げるわけにはいかない。そんなの、友達じゃない」


 その声にはいくらか不安も含まれていたが、彼女は俺の先を行くように野良猫の庭を歩き始めた。


 俺もまた、瀬田山先輩とともに館の正面玄関へと向かう。


 館の正面に取りつけられた窓は全て分厚いカーテンが引かれていて中の様子は見えない。


 そのカーテンの隙間から何者かがこちらの様子を窺っていないか見ながら、野良猫だけけの庭を横断していく。


 近くで見れば見るほど、その洋館は一人で住むには大きすぎる。庭には雑草が生やすがままにされ、壁には植物の蔦が縦横無尽に這いまわっている。ろくに手入れもされていないが、かつては立派な邸宅だったのだろう。


 猫に狂う前、相沢にも恐らく家族がいたのだろう。


 何かの原因で家族を失い、そして孤独を猫で埋めようとしたのだろうが。


 余計なことを考えているうちに、俺と瀬田山先輩は館の正面扉のすぐそばへと辿りついた。


 そのとき、俺は鼻孔を刺激する悪臭が館の中から漂ってくるのに気付いた。


 いや、その臭いはもしかしたら、門の辺りでも既に漂っていたのかもしれない。ただ、野良猫たちの獣臭に紛れていただけだ。


「……瀬田山先輩、臭い、感じますか?」


「……うん」


 俺の質問に瀬田山先輩は鼻を押さえながら答える。


 長く嗅いでいると吐き気を催しそうだった。


 だが、館の中にある何がそんな腐臭を漂わせているというのだろう。


 俺はふと、殺した猫の死体を放置してそれが腐っていく様子を観察したことが以前にあるのを思い出す。


 そう言えば、あのときも腐った猫の死骸からこんな臭いが漂っていた。


 そして、俺は確信する。

 これは死臭だ。


 生き物の肉が腐るときのひどい悪臭だ。


 吐き気をこらえつつ、ドアノブに手をかける。


 押し破ってでも入ろうと思っていたが、意外なことに玄関扉には鍵がかかっていなかった。


 その扉を手で押し、ゆっくりと開いた。


 それとともに腐臭がさらに強くなっていく。


 扉を完全に開き切ると、そこはホールになっていた。元は豪華な調度で飾られていたのだろうが、今は猫の体毛や糞があちこちに落ちて汚れている。床に敷かれた赤い絨毯には猫の尿やエサの汚れが染み込んでいるようだった。


 だが、腐臭の原因はそれらではない。


 何か、もっと奥から肉の腐る臭いが漂ってくる。


 そして、俺はホールの奥にあるドアを見た。


 そのドアは開かれていて、その奥に下りの階段が見えている。


 ――地下室だ。


 俺は入り口近くの棚に置いてあった飾り燭台を手に取る。


 武器としては心もとないが、ないよりはましだ。


「先輩、辺りに誰かいないか警戒しててください」


「……わかった」


 瀬田山先輩を背後に伴いながら、地下室の階段へと近づいていく。


 一歩歩くたびに汚れて湿った絨毯が嫌な感触を足に伝える。


 地下室の扉へと近づくと腐臭が余計に強くなる。


 間違いない、臭いの元は地下室にある。


「ねえ、小川くん……この臭いって……」


 不安に彩られた声で瀬田山先輩が訊ねようとする。


「聞かないでください。俺にもわからないんですから」


 そう答えるものの、頭の中では嫌な想像が駆け廻っていた。


 殺されて腐敗した明理の死体。


 そんな光景が脳裡に映るのを何とか振り払う。


 この家にはたくさんの猫が自由に出入りしている。きっと、猫が病気か何かで死んだんだ。


 そう自分に言い聞かせる。


 俺はポケットから携帯電話を取り出し、その明かりで地下への階段を照らす。


 階段の幅は狭く、うっかりすれば踏み外してしまいそうだった。


 瀬田山先輩も後ろからライトで照らし、一段ずつ下りていく。


 やがて階段は終わり、地下室の扉が目の前に現れた。古びた、重々しい鉄のドアだった。


 ドアノブに手をかけて、押し開く。


 意外なほど抵抗は少なく、ドアはあっさりと開いた。


 薄暗い地下室の中を携帯電話の明かりで照らすと、そこにはいくつかの段ボール箱が乱雑に積まれていた。すぐ近くにある段ボールに貼られた紙を見ると、『キャットフード』と品名が印刷されている。


 どうやら、猫のための商品を貯蔵している倉庫のようだ。


 あれだけの数の猫にエサをやっているならこれくらいは必要だろうか。


 もしかしたら、それらのキャットフードのどれかが腐敗したのかもしれない。


 そう思いながら地下室の中に入っていくと、段ボール箱の陰に人の足が見えるのに気付く。


 誰かが倒れている。


 そう気付いた瞬間、俺は再び緊張を取り戻した。


 携帯電話の明かりを頼りに、その倒れている誰かへと近づいていく。


「明理……なのか?」


 壁沿いに手をつきながら歩いていると、不意に指が何かの突起に触れた。


 その瞬間、地下室の天井にぶら下がっていた電灯が明滅しながら光を発する。


 どうやら、照明のスイッチを偶然押してしまったようだ。


 地下室が明るくなった瞬間、俺の横を小さな何かが二、三匹ほど通りぬける。


「わっ……ね、猫……?」


 背後で瀬田山先輩が驚く声がする。どうやら、地下室の中にも猫が数匹いたらしい。


 だが、俺は目の前の光景に釘づけにされていた。


 段ボールの陰に倒れていたのは――人間の死体だった。


 どうやら女のようだ。


 死体のあちこちに無数の傷があり、肉がえぐられていて顔がはっきりとは判別がつかない。


 そして、その傷はどうやら何かに食われたもののようだ。


 何か――そこまで考えて、俺は思い至る。この野良猫屋敷の中でこんな食い方をする動物なんて一つしか考えられない。


 人間の死骸を猫のエサにしたんだ。


 俺は心臓に冷水を流されたような気分になりながら、死体へと近づく。


「あ、明理……? 明理ッ! うあああ……!」


 俺は近づいて、食われた顔の辺りを携帯電話のライトで照らす。


「う、嘘……本当に明理なの……?」


 背後で瀬田山先輩が愕然とする声が聞こえる。


 俺は涙が溢れるのを感じながら、目の前の死骸を見る。


 だが、そこで奇妙な点に気付く。


 猫に食われるのを免れた、手足の肌の部分――そこをよく見ると、皺が多く、どうやら老婆のものらしいとわかる。


 そして、俺は改めてしゃがみこんで死体の顔の辺りを見る。


 顔の肉は食われてわからなかったが、残骸を良く見れば――それは相沢と口論をしていた宮野という老婆だった。


 よくよく考えれば、昨日の夜に明理が殺されたのだとすればいくらなんでも死体の腐敗が早すぎる。


 そして……昨夜、この宮野という老婆の家が鍵がかかっていないまま扉が開け放たれていたままだったことを思い出す。


 そして、この死体の背格好は、どことなく以前相沢と口論をしていたときに見た宮野さんに似ている。


「違う……これは明理じゃない」


 俺が呟くと、地下室の奥から何かが動く音がした。


「陽樹……育音……? そこにいるの……?」


 地下室の隅からか細い声が響いてくる。


 立ちあがってそちらへと視線をやると、そこには明理がいた。


 地下室の隅で、手足を縄で縛られて無造作に転がされていた。


「明理っ! 大丈夫か!」


「明理っ!」


 俺と瀬田山先輩はすぐに明理の方へと駆け寄った。


 明理は憔悴した表情で俺と育音の表情を交互に眺めていた。


 そして、俺たちの姿が夢じゃないとわかると、その目から涙を流した。


「よ、よかった……助けにきてくれたんだ……!」


 俺と瀬田山先輩はすぐに明理の手足を戒める縄をほどきにかかる。


 だが、縄はかなりきつく結ばれていてなかなか解けない。


「いったい何があったんだ?」


 縄に悪戦苦闘しながら俺が質問すると、明理は朦朧とした様子で、記憶を辿るように口を開いた。


「昨日の夜に。この『野良猫屋敷』に毒餌を仕掛けようと近づいたんだ。自分の手で、三毛猫を殺そうと思って」


 口から嗚咽を漏らしながら、明理は話し始める。


「そしたら、いきなり後ろからバチって電気みたいな感触がして。気付いたら縛られてこの地下室にいたの。そしたら、あの女の人……相沢さんが入ってきて……『おまえら猫の敵にふさわしい死に方をさせてやる』って言って……指差した方を見たら……だ、誰か猫に食べられてて。それで、私、また気絶したんだ」


 話しているうちに恐怖が蘇ってきたのか、明理は身を震わせ始める。


 どうやら、やはりあの腐敗死体は宮野さんのようだ。


 相沢はこの近所で発生している野良猫の毒殺事件を、自分が脱退した猫保護団体――『優しさの家』からの組織的な嫌がらせだという妄想を抱いていた。彼女が猫殺しの犯人について常に『みんな』だとか『一人残らず』だとか言っていたのは、今思えばそれを裏付けている。


 そして、恐らく日曜日の夜に毒餌を仕掛けている宮野さんを殺して死体を隠した。


 次に月曜日の夜。組織的である以上、まだ猫殺しがいると思い込んでいる相沢は家の周囲を警戒していた。そして、実際に俺と遭遇して襲いかかり、その後やってきた明理を捕えた。


 明理を殺さずに生かしておいたのは考えるのもおぞましい理由だが。『猫のエサ』にするためだろう。


 早く殺せばその分早く腐敗する。できるだけ新鮮な肉を猫に与えるために生かしておいたのだろう。何も不思議なことはない。牛も豚も殺したら保存がきかないのだから。人肉も同じことだ。


 どこまでも猫本位だが、その偏執のおかげで明理は助かったわけだ。皮肉にも。


 そのとき、明理ははっとしたように育音の顔を見た。


「育音……い、育音にしゃべっちゃった・猫殺しのこと!」


 明理は目を見開きながら育音を見る。


 足の縄をほどき終わった瀬田山先輩が明理の身体へと抱きつく。


「このバカ、もう知ってるから! 私は、猫よりも明理の方がずっと大切なのに!」


「育音……」


 明理は何が何だかわからない、というように俺の方へ視線をやる。


「ごめん、俺が話したんだ」


 すると、明理は微笑んだ。


「そっか……ごめんね、育音……!」


 両手の縄が解けていれば、明理もまた育音を抱きしめ返していたことだろう。


 だが、縄はひどく手首に食い込み、容易には外れない。


「くそ……解くのに時間がかかりそうだ」


 その言葉に育音ははっとする。


 まだ自分たちが危険人物の家の中にいるということを思い出したらしい。


 それから、彼女は恐ろしげに宮野さんの腐敗死体を見る。


「私、警察に通報する!」


 そう言って、彼女は携帯電話を取りだしたが、悔しげに舌打ちする。


「圏外……どうして?」


「地下室だからじゃないですか? 一階に出たら、たぶん電波も通じます」


「そうか……わかった!」


 そう言って、瀬田山先輩は地下室の出口、階段へと駆けていく。


 それからすぐに階段を駆け上がる音が続く――そう思っていたが、現実はそうじゃなかった。


 バチッ、という耳障りな音が響き、何かが床に倒れる音がする。


「――瀬田山先輩?」


 俺が呼びかけても返事はない。


 異様な雰囲気に、俺は明理の手首の縄を解くのを中断して立ち上がる。


 地下室の入り口のそばに瀬田山先輩が倒れていた。そして、その向こう側のドアから、地下室の中へとぬっと入ってくる人影がある。


 左手に包丁、右手に青白いスパークを発するスタンガンを持った、喪服のように黒い服の女――それは相沢だった。


 彼女は地下室の中に視線を走らせる。そして、その目が明理と俺へと止まる。


 その目は血走っていて、もはや正気の欠片も見られなかった。


 当然だ。


 彼女は既に一人の人間を殺しているのだから。


 猫への妄執によって歪んでいた彼女の精神は、とっくに正常さを失っていることだろう。


「まだいたのね……私の猫を狙う人間が……」


 相沢はスタンガンと包丁という二つの凶器を構えながら俺たちへと近づいてくる。


 明理は監禁によって憔悴しきっているし、手を縛る縄が解けていない。


「よ、陽樹……逃げて……私のことはいいから……!」


 明理が声を恐怖に震わせながらも、そう話しかける。


 確かに、明理を見捨てて逃げれば助かるかもしれない。


 この野良猫屋敷から脱出さえすれば、助けは呼べるだろう。


 だが、俺にはそんな選択肢は最初から頭になかった。逃げれば、次の標的は明理だ。


「おまえを殺させるわけにはいかない。下がってろ!」


 言って、俺は明理を地下室の奥へと押しやって、自分は積み上げられた段ボール箱の合間を歩いてくる相沢へと向き合う。


 正面から近づけば、スタンガンを使われる。


 とっさに周囲に積み上げてあったキャットフードの段ボール箱を崩し、相沢の方へと蹴り飛ばす。


 その拍子に段ボール箱が破れ、床にキャットフードの缶詰が散乱する。


 相沢は構わず向かってくるが、足元の缶詰でうまく歩けていない。


 相手の注意がわずかに俺から足元へと逸れる。


 ――チャンスは今しかない。


 崩れた段ボール箱を乗り越え、相沢へと飛びかかる。


 狙うは相沢の左手のスタンガンだ。それさえ奪えば、長身とはいえ中年の女と男、腕力で勝る。


 俺が襲いかかると同時に、相沢は驚きに目を見開きながら、スタンガンを俺へと突きつけようとする。


 青いスパークの火花が目の前で散り、目がつぶれそうだった。だが、スタンガンが押しあてられるその前に相沢の手首を掴んだ。


 俺と相沢の身体はもんどりうって倒れる。


 俺は何とか相沢の身体に馬乗りになり、左手のスタンガンを奪おうとした。


 だが、相沢はすさまじい力で抵抗し、包丁で俺の腕を何度も何度も執拗に切りつけてくる。


「くそっ!」


 包丁の攻撃を腕で防ぎながら、とっさに近くに落ちていた缶詰を拾い、それを握って思い切り相沢の左手の指に振り下ろした。


 指の骨がへし折れる嫌な感触が伝わる。


「ぎゃあああああっ!」


 相沢の絶叫が地下室に反響する。


 と、同時にその手からスタンガンが落ち、地下室の床を転がった。


 俺はとっさにそのスタンガンを奪おうと手を伸ばした。だが、その行動が一瞬の隙を生んだ。


 相沢は俺の太ももの辺りへと包丁の刃を突きたてたのだった。


「ぐ……あああああああっ!」


 鋭い痛みに叫び声を上げる。


 何とか身体を転がし、包丁のさらなる追撃からは逃れる。


 地下室の床に転がったままの体勢で俺は相沢へと向き直る。


 相沢は幽霊のようにゆらりと立ち上がると、血の滴る出刃包丁を構えて俺を見下ろした。


「私が守る……私が守るの……罪のない猫ちゃんたちを、こんな卑劣な連中から……」


 スタンガンを持っていた左手の指があらぬ方向を向いていることなど、彼女は少しも気にしていないようだ。


 猫への歪んだ愛情だけがその身体を突き動かしているようだった。


 相沢はその手に包丁を構えながらゆっくりとした足取りで俺へと近づいてくる。


 何とか立ち上がろうとするものの、どうしても足に力が入らない。


「明理、早く逃げろ……今のうちに……!」


 せめて明理だけでも逃がそうと、俺が地下室の隅を見たとき、俺は自分の目を疑った。


 そこには明理が立っていて、その手に猫を持っていた。


 いや、猫を持っていたというのは正しくない。明理の手はロープに結ばれたままだった。だが、そのほどけかけたロープの緩みを利用して、猫の首にロープを巻いて捕えていた。


 さっき地下室にいた猫を捕えていたのだろう。


 だが、そんなことをして何をするつもりなのか見当がつかない。


「こっち見なさい! 陽樹に何かしたら、あんたの猫を殺すから!」


 その言葉に相沢が振り返る。


 明理が猫の首を絞めようとしているのを見て、相沢が息を飲むのがわかった。


「その子を放しなさい……今すぐに……」


「あんたこそ陽樹から離れて! さもないと、今からこの猫を絞め殺してやる……! あんたの大切な猫をね!」


 明理の顔には恐怖心と焦りが浮かんでいる。



 無理だ、と俺は思った。


 明理は両親の死から、生き物の命が死ぬ瞬間がトラウマになっている。ゴキブリのような小さな虫だろうと、その死の瞬間を見ると拒絶反応を示す。


 今までどれだけ練習してきても、その手で猫の命を奪うことはできなかった。猫を殺そうとするだけで、彼女は嘔吐していたのを覚えている。


 明理も顔色は以前にも増して青白く、今にも嘔吐しそうだった。


 猫の首を絞めるロープを握っている手は震え、すぐに落としてしまいそうなほどだった。


「やってやる、本当にやってやるんだから……!」


 自分を鼓舞するように繰り返すその言葉が、かえって弱弱しさを際立たせていた。


 表情に出たその恐怖心は相沢にも見抜かれているようだった。


 彼女は倒れている俺をちらりと俺へと視線をやって警戒したまま、明理に嘲笑めいた視線を向ける。


「ふふっ……臆病者。できもしないくせによく言うわ……こいつの次はあんただから……」


 トラウマに震える明理に嘲笑を浮かべながら、相沢は俺へと向き直る。


 そして、再び俺へと向き直り、その包丁を振り上げた。


 ――そのときのことだった。

 

猫の苦悶に満ちた断末魔のうめき声が地下室に響く。


 相沢がとっさに振り返ると、明理の腕の中で猫がぐったりと前足と後ろ脚を垂れ下げ、身体を痙攣させていた。


 縄で首を絞められて窒息し、その糞尿がその身体から滴り落ちている。


 猫の首を絞める明理の目は本気だった。顔色は今にも吐きそうなほどに青白かったが、その目には殺意が満ちていた。


 俺は瀬田山先輩の話していたことを思い出す。


 殺していい命と殺してはいけない命――そんな命の境界線は存在しない。あるのはただ、他の命を犠牲にしてでも生きていてほしいというエゴだけ。


 今の明理がそれだ。


 明理は俺の命を助けるために、トラウマを踏み越えてまで生き物を殺そうとしている。


「や、やめなさい……! その子を放しなさい!」


 相沢は明理が本気だということに気付いてうろたえる。


 そして、完全に俺から目を放し、明理へと注意を向けている。


 俺は傍らに積まれていた段ボール箱によりかかりながら、何とか身を起こした。


 そんな俺の動きにも相沢は気付いていない。


 明理によって縄で首を絞められた猫は既にぐったりと動かなくなっていた。その目は瞳孔が開き切って虚空を見つめている。絶命しているのは明らかだった。


「よ、よくも……殺す、殺してやるッ!」


 相沢が怒声を上げて明理へと向かおうとした瞬間――俺はその背中へと渾身の体当たりを繰り出した。


「あああっ!」


 相沢は悲鳴を上げて倒れる。


 俺もその上へと倒れ込みながら、相沢の持つ包丁へと手を伸ばす。


 足を怪我した俺は、今度は立ち上がれない。


 もう一度相沢を立ち上がらせたら終わりだ。俺も明理も殺されるだろう。


 相沢は必死に包丁を抵抗したが、ついに俺は包丁をその手からもぎ取った。


 そして、今度は俺がその切っ先を向ける番だった。


「殺す、殺してやるッ! この悪魔ども……おまえら皆、猫の餌になって償わせてやるッ! 私が罰を下してやるッ!」


 相沢はそれでもなお殺意に満ちた叫び声を上げ続けた。もはや自分の命の危機すらわかっていない。彼女の中にあるのはただ猫への歪んだ愛情と妄執だけだった。


 包丁を振りかぶる。


 そのとき、俺の脳裏にさまざまな記憶が蘇る。


 幼いころ、車に轢かれて死にかけた猫を見たのが始まりだった。


 母さんは俺を『まとも』な人間へと戻そうとして、何度も暴力を振るった。


『生まれてこなければよかった』と、俺を罵った。


 父さんは一度も俺を助けることなく、逃げるように海外へと行った。


 俺はずっと一人ぼっちだった。ただ、ありもしない『命の境界線』を探し求めて、何度も何度も猫を殺し続けた。


『命の境界線』がどこにあるのかさえわかれば、『まとも』な人間になれると信じて。


 だけど、猫を殺しても俺は何も感じなかった。命の重みや価値なんて、ちっとも実感できなかった。


 俺は何の意味もない犠牲をこの手で生み出し続けてきた。


 瀬田山先輩の言った通りだ。


 何一つ大事なものを――他の何かを犠牲にしてまで守りたいものを持たない俺には、命の価値なんてわかるわけがなかった。


 虫も、猫も、そして、自分さえも――どんな命も平等に無価値だと思っていたのだから。


 ――だけど、今は違う。


 今の俺には他の命を犠牲にしてでも、守りたいものがある。他の命を犠牲にしてでも、俺に生きていてほしいと願ってくれる人がいる。


「罰を下すだって? 正義の味方にでもなったつもりか?」


 包丁を握る手に力を込める。


「おまえは――いや、おまえも、俺も、誰だろうと。他の命を殺して生きる、ただの加害者だ」


 包丁を固く握りしめ、気合いとともに相沢の首へと振り下ろした。


「うぶっ……」


 相沢の喉に刃を突き立てた瞬間、それまで相沢が発していた喚きが止み、代わりにくぐもった呻きが漏れた。


 皮を裂き、肉を貫き、内臓にまで切っ先が至る確かな感触。包丁を突き立てた傷口から血がどくどくと溢れていく。


 心臓の鼓動が止み、『命』が『物』へと変わっていく瞬間を包丁越しに感じる。

 今まで俺は生き物の命を奪っても何も感じなかった。だが、俺の心は確かに喜びに満ちていた。


 何故なら、そのとき初めて――大切なものを守るために他の生き物の命を奪ったのだから。


 俺は動かなくなった相沢の身体から包丁を抜く。刃で栓をされていた傷口から血が溢れ、地下室の床を赤く染める。


 興奮で荒くなった呼吸を鎮めながら、地下室を見渡す。


 腐敗した宮野さんの死体と、たった今俺が殺した相沢の死体。そして、地下室の入り口に目をやると、瀬田山さんが倒れている。


彼女はうなされているようにうめき声を上げてみじろぎをしている。


どうやらスタンガンで意識を失っただけで命に別状はなさそうだ。


 よかった……と、そう思っている自分に気がつき、苦笑する。


 ほんの少し前の俺だったらそんなことを思うことはなかっただろう。


 俺を変えてくれたのは、一人の少女だった。


 明理の方に視線を向けると――


「うわっ!」


 突然、明理が抱きついてきた。


 涙を流しながら痛いほどに俺の身体を強く抱きしめてくる。


「よかった……生きててよかった……!」


 明理は泣きじゃくりながら、俺が生きていることを喜んでくれる。


 それが俺にはたまらなく――嬉しかった。


 手は血で赤く汚れていたが、構うことなく明理の身体を抱き寄せる。


「ああ、その通りだ。生きててよかった……」


 そんな気持ちを抱くのは何年ぶりだっただろう。


 明理の身体の体温と鼓動が伝わってくる。きっと、明理にも俺の鼓動が伝わっていることだろう。


 血みどろの中で、俺と明理は互いの命を確かめ合っていた――。

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