第21話 決別、そして真夜中の襲撃
放課後、俺は明理とともに家へと向かった。
部屋の中で、彼女はいつ用意したのか『野良猫屋敷』の周辺地図をテーブルの上に広げていた。
「あの相沢っていう人、たぶん捕獲器を仕掛けてるのを見つけたら絶対邪魔してくるよね。あんなに保護団体を目の仇にしてるんだから。あの人に見つからないような場所ないかな?」
明理は印刷した地図とにらめっこをしながら、考え込んでいる。
その様子をベッドに腰掛けてじっと見る。
下校途中、俺は話しかけてくる明理に空返事をするだけで、ろくに話を切り出すタイミングを掴めなかった。
だが、こちらの様子が変だということは明理も気付いていたのだろう。
地図を前にして張りきる明理の様子には、どこか不安が混じっていた。
なら、いつまでも先延ばしにしていても仕方ない。
俺はゆっくりと口を開いた。
「明理……話したいことがあるんだ」
「…………」
明理はテーブルの上から地図を片付けると、俺へと向き直る。
その目には、はっきりと不安の色が浮かんでいた。
「陽樹、放課後からずっと変だよ? 何か真剣に考え込んでるし……育音と何か話したの?」
明理にしてはいつもより察しがいい。
そして、恐らくは俺が今から言おうとしていることにも、うすうす感づいているのだろう。
だったら、もう躊躇している場合じゃない。
「単刀直入に言うよ。明理はもう……猫殺しなんてするべきじゃないと思う」
俺の言葉に部屋の中がしんと静まり返る。
明理の表情には驚きはなかった。ただ、深い悲しみだけをその目にたたえていた。
「……やっぱり、育音と話したんだね」
明理は深くため息をつく
「瀬田山先輩は関係ない。自分の意思で結論を出した。明理、おまえは俺みたいな猫殺しと同じ道を歩むべきじゃない」
「何で? どうして今更そんなことを言いだすの?」
明理が責めるような目でまっすぐに俺を見つめてくる。
それがひどく心を突き刺す。
「俺は猫殺しだったせいで家族も友達も失った。今までずっと独りだった。もう『まとも』な人間には戻れない。最初はお前も同じだと思ってた。だけど……おまえには友達がいる。瀬田山先輩という友達が。『まとも』な人間に戻れるチャンスがあるんだ」
「ふざけないで!」
突然、明理が声を荒げる。
肩を震わせ、荒い呼吸がその口から漏れている。
「明理……」
「約束したのに……! 私があの三毛猫を殺して、仇を討つのに協力してくれるって……約束したのに!」
「もう忘れるんだ。俺には何もない。だけど、おまえには少なくともおまえのことを案じてくれる友達が一人いる。もう無理に『友達じゃない』なんて言い張る必要はない」
「それは……!」
明理は口をつぐむ。
彼女は瀬田山先輩のことを今も親友だと思っている。どれだけ口や態度で嘘をついても、明理は自分の本心をごまかせるような人間じゃない。
「仕方ないんだ。学校でも、俺とはもう話さない方がいい。俺がいつか猫殺しだってことがバレたら、おまえにまで迷惑がかかる」
それから、一つ深呼吸をして、まっすぐに明理を見つめながら言った。
「――これがおまえのためなんだ、明理」
その瞬間、俺は明理が手を振り上げるのを見た。
そして、次の一瞬には頬に鋭い痛みが走る。
明理に頬を張られたのだということはすぐにわかった。痛みが頬に残り、疼くように傷み続ける。
「勝手なこと……言わないでよ……!」
明理は泣いていた。
歯を噛みしめ、涙をぼろぼろとこぼしながら俺を睨みつけて。
その視線から目を逸らすように、俺は顔を伏せるしかできなかった。
明理は部屋の隅に置いていた自分の鞄を掴むと、部屋の出口まで歩いていく。
ドアを開ける直前、彼女は立ちどまり、俺に背を向けたまま言った。
「陽樹……さっき、『ずっと独りだった』って言ったよね? でも、私はどうなの? 私は陽樹のこと大切な友達だと思ってた。私のため、なんていうけど……陽樹自身はどう思ってるの? 本当に、私と離れていいの?」
明理の質問は俺の心に楔のように打ち込まれ、罅を広げていく。
瀬田山先輩から言われた言葉が、その罅から染み込んでいく。
「俺には――」
脳裏には母さんの姿が浮かんでいた。
『お前なんて生まれてこなければよかった』と罵りながら俺を殴る、母さんの鬼のような形相。
そして、やっと口を開く。
「――大切なものなんて、ない」
俺の言葉に明理が肩をびくりと震わせるのが見えた。
こちらに背を向けている彼女の表情をうかがうことはできない。
「……そう。じゃあ、もう知らないし。私一人で勝手にやらせてもらうから!」
そう言って、明理は部屋から出て行った。
階段を駆け下りていく音、玄関のドアを開け、締める音。窓の外から、明理が駆けていく足音が聞こえ、遠ざかっていく。
それで終わりだった。
俺の部屋に――いや、この家全体にまた元通りの静寂が満ちた。
明理と出会う前、孤独だったころの静寂。
それはこんなにも重苦しいものだったか、と意外に思いつつ、俺は肩を落とす。
これでいいんだ。
俺は心の中で自分にそう言い聞かせていた。
だが、落ち込むにはまだ早い。
まだ、やるべきことがある。
力の抜けた身体を鞭打ち、ベッドから立ち上がった。
家の外側へと出て、いつも猫の虐殺に利用しているガレージへと入っていく。その片隅に置かれた箱には、ナイフや金槌といった猫を殺すための道具が入っている。
その箱の中を漁り、一つのケースを取りだす。その中に収められていたのは鳥獣駆除用の大型スリングショットだった。
だいぶ前に猫の殺し方を模索していたとき、ネットで購入したものだった。鉄の弾を使えば威力はかなりのもので、猫の頭部に当てれば殺すことも可能なのは実証済みだ。
だが、ガレージの中で使う意味は薄い上に、外でこんなものを持ち歩いていたら捕獲器以上に怪しまれる。そんなわけで道具箱の奥に眠っていたものだ。
そのスリングショットを手に持ち、同じケースに入れられていた鉄の弾をゴム部分で掴む。
そして、反対側の壁へと振り向き、スリングショットを構える。
手首に固定具を当てて照準がブレないようにし、スリングショット本体が床に対して90度近くになるよう傾け、ゴムを引く。
そして、壁の染みのある一点へと狙いを付けて、ゴムを手から放す。
ゴムの反発力によって鉄の弾は一瞬にして飛び、狙いをつけておいた壁の点へと命中した。壁に当たって弾ける音だけで、それ以外には思ったほど音は響かない。
「よし」
俺はスリングショットの調子に満足した。長い間道具箱の中に入れておいたので心配だったが、部品が老朽化したりはしていないようだった。
瀬田山先輩は『明理が復讐をする前に保護する』と言っていた。
だが、あの相沢という女は危険だ。瀬田山先輩が正攻法で保護なんてしようものなら、どんな手段で妨害するかわからない。もしかしたら、瀬田山先輩の身にも危険が及ぶかもしれない。それは、『一人で猫を殺す』と言って出て行った明理も同じことだ。
今の明理に生き物の命が奪えるとは思えないが……とにかく、万全を期した方がいい。
つまり、瀬田山先輩よりも明理よりも先に、俺があの三毛猫をこっそりと殺してしまえばいい。そうすれば、二人に危険が及ぶこともない。
瀬田山先輩が語ってくれた過去を思い出す。彼女は自分の大切な猫のために、病気の母猫を殺した。
そう考えるのは癪だが、俺は明らかに彼女の考えに影響されているようだった。どうせ誰かが手を汚さなければいけないなら、救いようのない猫殺しの俺が手を汚せばいい。『まとも』へと引き返せる明理ではなく。
――そう、全ては明理のために。
自分にそう言い聞かせながら、家を出た。外は日が落ちてすっかり暗くなっていた。
月の明かりも無く、一定の間隔で並ぶ街頭だけが道を点々と照らしている。
猫を殺すには絶好の夜だった。
パーカーのフードを下ろし、手には白いコンビニ袋を提げて深夜の街を歩く。コンビニ袋の中には、スリングショットと弾を入れてある。
遠目からは、深夜にコンビニで買い物をした後のように見えるだろう。それでも、警戒心の強い人間が見れば深夜に住宅街を歩く怪しい人物だが、スリングショットをそのまま持ち歩くよりはまだマシだ。
幸い、夜の住宅街では誰ともすれ違わずに『野良猫屋敷』付近へとやってくることができた。
夜行性の野良猫たちが鳴き声を上げたり、喧嘩をする声があちこちから聞こえてくる。
歩いていると、ときどき道路を猫が横切って走っていく。
猫が本当に動きだす時間帯は夜だ。昼間に見える猫など、街に潜んでいる猫のほんの一部にすぎない。
それらの猫の模様を一匹一匹確かめながら、『野良猫屋敷』へと近づく。
昼間と違ってその門は開いていた。
俺は門のそばから庭を覗き込む。
庭の中には数匹の野良猫がたむろしていた。
暗闇に目を慣れさせながら、それらの猫の模様を確かめる。
そして、見つけた。
昼間と同じように、あの三毛猫が庭の中を散歩している。
その姿に警戒心はなく、人に餌を与えられて狩猟動物の本能を失っているのがわかった。
だが、それでも近づけば逃げられるだろう。
俺はコンビニ袋からスリングショットを取りだし、鉄の弾をゴム部分にセットする。
そして、ガレージで試し打ちを行ったときと同じように構え、ゴムを引く。
狙うは三毛猫の頭部だ。
確実な致命傷を与えて一発で仕留める。
俺は深呼吸をしながら手の震えを押さえ、慎重にスリングショットの照準を定めた。
俺は三毛猫を狙うのに神経を集中しすぎていた。
そのせいで、すぐ背後から足音が聞こえるまで近づいてくる人の気配に気づくことができなかった。
降り返ろうとする瞬間、以前にもこんなことがあったのを思い出した。
溺死させた猫の死骸を川に流したとき、明理に背後から撮影されたときのことを。
だから俺は、思わず
「明理……?」
と名前を呼びながら振り返った。
そこに立っていたのは明理ではなかった。
『野良猫屋敷』の主――相沢だった。
深夜の暗闇に溶け込むような、喪服めいた黒い服。痩せこけた顔の中で、異様にぎらぎらと光る眼が憤怒を燃やして俺を見下ろしている。そして、その左手には大きな長方形の懐中電灯のようなもの、右手には――出刃包丁を持っていた。
相沢は俺が逃げる間もなく、何の躊躇もなしに出刃包丁を振り下ろしてくる。俺はとっさに左腕を盾にしてその出刃包丁を防ぐ。
「くっ……!」
刃がパーカーの布を突き破り、肌を斬る感触がした。だが、それでも何とか致命傷を避けることができた。
だが、そのとき相沢は、今度は左手に持っていた長方形の黒い物体を掲げる。
一瞬、懐中電灯か何かだと思った。だが、それが大型の護身用スタンガンだということに気付いたのは、それが青色のスパークを発し始めたからだ。
次の行動はほとんど反射的なものだった。
相沢がスパークを放つ大型スタンガンを振り上げた瞬間、恐怖が全身を襲い、身を守ろうとした。
具体的には、すぐさまスリングショットの狙いを猫から相沢さんへと移した。
スタンガンが俺の身体へと突きつけられる前に、スリングショットのゴムを弾いてその腕めがけて鉄の弾を発射する。
「ぐあああああああ!」
相沢が苦悶の声を上げて手を押さえる。
だが、その手には変わらずスタンガンを持ったままで、青いスパークがバチバチと威嚇するように火花を散らしている。
相沢が苦しんでいる間に、包丁で斬られた手を押さえながら走ってその場から逃げだした。
「待て! 殺すッ! 私の猫を傷つける奴はみんな殺してやるッ!」
背後から相沢の怒りに満ちた叫び声が聞こえる。
とっさに住宅街の路地を曲がり、民家の門をくぐってその敷地内に身を屈めて隠れた。
その数秒後に相沢がその路地へと入ってくる足音が聞こえる。
「隠れても無駄よ……出てきなさい……」
荒い呼吸とともに、相沢が歩いてくる。もう少しで、俺の隠れている民家へとやってくる。
俺はとっさに門の外へと向かってスリングショットを構えた。
鉄の弾を発射する音は静かで、どこか遠くの道路に落ちた弾が物音を発するのが聞こえた。
「そっちね……逃がさないわぁ……おまえらみんな、殺してやるから……」
その物音が聞こえた直後、門の外を相沢が走っていくのが見える。その両手には、青い光を放つスタンガンと俺の血で染まった包丁が握られていた。
足音が遠ざかっていくのを確かめてから、何とか立ち上がる。
「かなりイカれてるな……」
俺はため息をつきながら、民家の玄関へと目をやった。
さっきの騒ぎで住人が起きてこないか気になったからだ。
相沢さんが怒鳴り声を上げているのに、周辺の住人は起きてこない。もしかしたらこの近所で、相沢があんな風に怒鳴り声を起こすのは日常茶飯事なのかもしれない。
日曜日に相沢が瀬田山先輩にしたことを思うと、それも不自然ではなかったが。だが、これ以上相沢さんが怒鳴り声を上げていると本気で警察を呼ばれるかもしれない。
そして、警察を呼ばれると俺もまずい。スリングショットを持ち歩いて深夜に出歩いている高校生――補導で済めばまだマシな方だろう。
そのとき、玄関の脇に表札が出ているのに気付いた。
そこには『宮野』という名前が書かれている。
宮野――確か日曜日に相沢と口論をしていた老婆もそんな名前だった。
そう思ってその家の庭を見ると、花壇に猫の糞尿が転がっていて、枯れたバラの残骸がある。
さらにふと、玄関の引き戸か微かに開いているのに気付いた。
深夜に家の戸を閉めていないなんて不用心だな、と場違いなことを思っていたが、その玄関の隙間から、内側に何かの容器が置かれているのが見えることに気付く。
それはどうやら農薬の容器のようだった。プラスチック製の箱が倒れていて、そこから青い粉末状の農薬が溢れている。
――青いビーフジャーキー。
途端に、俺はこの東公園近くで起きているという猫の毒殺事件を思い出した。
もしかして、農薬によって猫を殺していたのは宮野という老婆だったのだろうか。
彼女には大事に育てていたバラを相沢の猫に踏み荒らされ、枯れさせられたという動機もある。そう考えても不自然ではないどころか、むしろ納得がいくが……
そこまで考えたとき、腕の傷が痛み始めた。
傷は浅いが、それでも血は出たままだ。このままでは、警察にでも出くわしたら言い訳がつかない。
まさか『猫をスリングショットで殺そうとしてたら異常者に襲われた』なんていうわけにはいかない。客観的に見れば俺も十分異常者だろう。
それに、いつ相沢が戻ってこないともわからない。見つかれば、今度こそただじゃすまないだろう。
宮野家の門から路地に顔を出し、外に相沢がいないことを確認してから外へ出た。
この辺りは古い民家が多く、住人も年配が多い。大学生や若者が深夜出歩いていることはないだろうと思っていた。
だが、道の向こう側から誰かの足音が聞こえてくる。
歩調や歩いていった方向からして相沢ではないことは確かだが、それでも運が悪いことに変わりはない。
「くそっ……」
曲がり角に身を潜め、電柱の陰に隠れる。
普段なら『隠れるよりも堂々とした方がバレない』の信念で堂々と歩くのだが、今は腕から出血しているのでさすがに人と出会うわけにはいかない。
早く通り過ぎてくれ――そう祈りながら、俺は必死に目を閉じて腕の傷を押さえていた。
その何者かの足音が遠ざかって聞こえなくなると、俺は電柱の陰から出て、走り出した。
――あの足音、どうやら『野良猫屋敷』の方に向かっていたみたいだ。
そんなことを考えていたが、腕の傷の痛みが疼き出し、それどころではなかった。
そして、俺は夜の街をよろめきながら走り、隠れるように家へと帰ったのだった。
傷の痛みと、三毛猫を殺すことに失敗した苦渋に歯を食い縛りながら。
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