第20話 命の優先順位(後編)
「小学生のころ、私には仲の良かった叔父がいたの。
彼は猫が大好きで、昔から猫の保護活動を続けていた。
野良猫を捕獲して、避妊去勢を施して引き取ってくれる里親を探す――今の私がしているような活動をね。
私はよく叔父さんの家に遊びに行った。叔父さんの家には何匹もの猫がいて、よく私が遊び相手になったの。
猫を見ている叔父さんは本当に満ち足りた表情で、幸せそうだった。
でも、それも長くは続かなかった。
いくら猫を保護して里親探しを続けても、どうしても引き取り手の現れない猫っていうのはいるの。
たとえば、重い病気にかかっていたり、事故で怪我をして尻尾や脚の一部が欠けている猫。
当たり前よね。誰だって、どうせ引き取って飼うなら五体満足の健康な猫がいい。
そして、叔父さんの家にはどんどん引き取り手の無い猫だけが溜まっていった。その中には、猫エイズや猫白血病……深刻な感染症にかかっている猫もいて、他の猫たちから隔離せざるを得ない子もいた。
でも、叔父さんの家はただの小さな一軒家――猫を二十匹近く飼って、その上感染症のキャリアを隔離する場所なんてとても足りなかった。
ううん、足りなかったのは場所だけじゃない。
病気の猫の治療費や避妊去勢の費用、毎日の餌代……叔父さんには全ての保護猫を飼育し続ける金銭的余裕がなかった。
でも、叔父さんは猫を手放すことはできなかった。
保護した猫に愛着があった――もちろんそれもある。
だけど、現実問題として、叔父さんが猫を手放そうとしても、どこにも猫の引き取り手はなかった。
他の保護団体も手一杯で、感染症が広がる恐れのある病気の猫を収容する余裕なんてない。殺処分の削減を目標にしているとはいえ、里親がどうしても見つからない猫は処分される。
猫を愛している叔父さんには、猫を保健所に引き渡すなんて選択もできなかった。
かといって、路上に放てばやはり野良猫たちに感染症が広がり、助かるはずだった猫にさえも被害を拡大させる結果にしかならない。
たとえ自分の向かう先が破滅しかないとわかっていても、叔父さんは猫を飼い続けるしかなかった。
そして、一番まずかったのは――叔父さんの家の前に猫が捨てられるようになったこと。
たぶん、猫の飼育に困った人たちに猫の保護活動家ということが知られたんだよ。
家の前に置いておけばなら飼えなくなった猫を保護してくれると思われたんだろうね。もちろん、そんな猫なんか保護する義理はない。
でも、叔父さんにはやっぱり見捨てることができなかった。見捨てれば、野良猫になり、路上で野たれ死ぬだけ。
叔父さんの猫の数はどんどん増え、経済的にも空間的にも余裕はなくなっていく。
私が最後に生きた叔父さんの姿を見たときは、以前のような穏やかさは欠片もなかった。
身体は骨と皮のように痩せて、頬はこけて目は落ちくぼんで……一目でろくに食事もしていないことがわかった。
きっと、自分の食費を削って猫たちの餌代に充てていたんだと思う。ろくに栄養を取っていないのは明らかだった。
お父さんもお母さんもそんな叔父さんを見かねて説得した。
『そんな生活を続けていたら、いずれ死んでしまう』と。それでも、叔父さんは耳を貸さず、猫の保護を続けたの。
そしてある日――叔父さんはついに衰弱して、命を落とした。
死体を見つけたのは、叔父さんの家の近所に住んでいた主婦だった。
彼女が叔父さんの家から変な臭いがするから窓から覗いてみると、家の中で叔父さんが倒れていて――その周りに無数の保護猫が群がっていたと聞いた。
大人たちは、小学生の私には叔父さんの死の有様についてあまり詳しくは教えなかった。だけど、葬儀で大人たちが話をしているのを聞いて、おぼろげに叔父さんがどんな悲惨な死に方をしたか聞いた。
――叔父さんの死体の肉は、死んでから死体が発見されるまでの一週間、飢えた猫たちに食い荒らされていたの。
それでも餌が足りずに、家の中には飢え死にしたり、共食いして死んでいた猫が何匹もいたらしいわ。二十匹以上いた猫が、生きていたのは半分以下の十匹程度。
その猫たちも病気で、普通に考えれば引き取り手もなく路上で野たれ死んでいく運命。
私のお父さんは仕方なく、その猫のうちまだ健康状態がマシな一匹を引き取った。親類が残したものなのだから、責任を取らなきゃいけない、って思ったんだと思う。
でも、私の家では既に五匹の猫を飼っていた。そもそも、引き取る余裕があったなら叔父さんが生きているときに引き取っていた。そうしなかったのは、そんな余裕がなかったから。
加えて、引き取った猫は感染症にかかっていた。だけど、私の家に元からいた猫たちは健康だった。このまま同じ家で飼い続ければ、何かの事故で健康な五匹にまで病気が感染するかもしれない。
それに、病気の猫はやせ衰えていて、数年も生きられそうになかった。ううん、無理やり生かしていても、ただ無駄に苦しませるだけだった。
そして、これが一番重要なこと――お父さんもお母さんも知らなかったけど、私はその猫のお腹を見て気付いたの。その猫が妊娠していたことに。
猫の出産は一度に五匹から八匹程度……もし生まれれば、私たち一家にそれだけの病気の仔猫を飼う余裕なんてない。そして、もちろんそんな仔猫の引き取り手なんてどこにもない。
もしも生まれてしまったら、私の家で飼うしかなくなる。お父さんもお母さんも叔父さんと同じように優しいから、捨てるとか保健所に押し付けるとか、そんなことはしないと分かっていた。でも、そうなれば私の一家も叔父さんの二の舞になる。私はそれを恐れたの。
救命ボートに乗せられる限界以上の水難者を乗せて、救助者も水難者もみんなまとめて転覆する。そういう事態だけは絶対に避けなきゃいけなかった。子供心に、それだけはわかっていた。
そして、私はそんな最悪の事態を避ける方法を一つしか思いつかなかった。
――私は、その母猫の首を絞めたの。
お父さんにもお母さんにも内緒で。
二人には、猫のことは『病気で死んだ』と言っておいて、お腹の仔猫ごと土の下に埋めた。
……さっき私は『罪』だと言ったけど、実のところ間違ったことをしたなんて今でも思ってない。
健康な猫も病気の猫も、命を平等に救おうとして、結局何も救えなかった叔父さんの姿を見ていたから。
全ての猫を平等に救うなんてできない。だから、優先順位を付けるべきだった。
そう思ったから私は猫を殺した」
「優先……順位」
猫を救おうとして、無残な死を遂げた哀れで愚かな男――瀬田山先輩の叔父さんの話を聞き、俺はその言葉がひどく気になった。
今まで答えが欲しくてひどく悩んでいた疑問。
その答えがすぐ手が届くところにまで迫っている気がするのに、それに気付くのを恐れている。
そんな矛盾した気分が俺の心を支配する。
俺の混乱した内心など知らず、瀬田山先輩は話を続ける。
「そう。全てを救おうとするから破綻する。だから、命に優先順位をつけて、自分の力が及ぶ範囲で助けられるものだけ助ける。そしてどうやっても助けられない命は――切り捨てる。それが正しい選択」
冷たい、だが決然とした意思のこもった言葉だった。
「でもそれは……エゴじゃないですか」
「うん、エゴだよ。でも、それがどうしたの? それは何よりも優先するべきものだよ。誰だって、命に優先順位をつけている。同じ人間の命だってそう。誰にとっても、地球の裏側の人間の命と自分の大切な友達の命はイコールじゃない」
そう言いながら、瀬田山先輩は中庭の地面に落ちた蝶の死骸へと目を落とす。
羽をもがれた蝶は無残な姿で微動だにしない。
「多くの人にとって、虫は犬や猫よりも優先順位が下。猫が死ぬことに憤る人でも、平気で蚊やゴキブリを殺す。でも、逆に虫が好きな人には、猫の死はむしろ喜ぶ人もいるだろうね。だって、猫は虫を弄んで殺すから。
……わかる? 小川くん、命の区別なんていうのはそれだけの話なの。知能の高さ、見た目のかわいさ、人間社会との近さ――いろいろな人がもっともらしい基準を上げて『殺していい命』と『守るべき命』の区別を必死に説明づけようとしている。
だけど、『命の境界線』なんて、そんなものは最初からどこにもない。あるのは、ただそれぞれのエゴによる『順位』だけ」
唾を飲み込む。
喉が異様に乾く。俺がずっと探していた『命の境界線』――それさえ分かれば、俺も『まとも』な人々のことを理解できるかもしれないと、唯一の希望だったもの。
それを瀬田山先輩は存在しないと言ってのけた。ゴキブリや蚊の命と猫の命との間にはそんな線引きなどない、と。
恐ろしいのは、俺が彼女のその言葉に驚いていないということだった。腑に落ちるというべきか、不思議と俺は納得してしまっていた。
まるで、その答えを知りながら、ずっと知らないふりをしてきたかのように。
「じゃあ……」
乾いた喉から必死に言葉を絞り出す。
そして、ベンチから立ち上がり、地面に落ちている蝶の死骸を靴で乱暴に踏みつける。
小さすぎる蝶の死骸、そんなはずはないのに俺は靴の底で蝶が潰れる音が聞こえたような気がした。
「だったら、俺が生き物を殺すことを何とも思わないのは、どうしてだって言うんですか? 俺はずっと、俺だけが『命の境界線』を知らないせいだと思っていた。それさえわかれば、『まとも』な人間になれるかもしれないって。でも、境界線なんて最初からないとしたら、どうして……!」
「わかってるんでしょ、小川くん」
声を荒げる俺に、瀬田山先輩は冷静に――いや、むしろ哀れむような声で言った。
「あなたのいう『まとも』な人が虫の死よりも猫の死に悲しみ憤るのは、優先順位があるから。猫の命の方が、虫の命より大切だから。でも、あなたには順位がそもそもない」
「順位が……ない?」
「あなたには大切なものなんて一つもないんでしょ。自分で気付いてる? あなた、いつも何を見る時でもすごく冷たい目をしてるの。まるで、どんなものにも価値を感じていないように。あなたに最初に遭った時から、その目に見覚えがあった。そして、日曜日に野良猫屋敷に行ったとき、ようやく気付いたの。きみの目……相沢さんが猫以外のものを見るときと同じ目だよ」
その言葉は、ハンマーで後頭部を殴られるような衝撃を俺に与えた。
先ほどトイレの鏡を見たときに自分の目を見て戦慄したのを思い出す。
相沢さんが猫以外のものへと向けるのと同じ――価値の無いゴミを見るようなあの目。
鏡の中の自分が俺をじっと見つめている光景を。
今まではそれに自分で気付いていなかった。だが、俺はずっとあんな目をしていたんだ。相沢さんの目を見たことで、初めて自覚しただけで。
その目でずっと周囲の世界を見てきた。
クラスメイトや先生も殺してきた猫も、そして自分のことも、俺はきっとまったく同じ冷たい目で見てきたに違いない。
「……あなたの過去に何があったのか、私は知らない。でも、あなたはどんな命も無価値だと思ってる。大切だと思ってるものなんて一つもない。虫の命も猫の命も人の命も、他人の命も自分の命も――ある意味、『全ての命は平等』なんていう動物愛護の理想を体現してる。もちろん、悪い意味でだけど」
淡々とした瀬田山先輩の言葉も、どこか遠くから聞こえてくるような錯覚を感じた。
大切なものなんて何もない――それを否定する言葉は出てこなかった。それどころか、今までの俺の人生を振り返れば、心当たりのあることばかりだ。
子供のころ、道路でのたうち回る猫の死骸を見たときに、俺の中の何かが決定的に『まとも』とはズレてしまったのだとばかり思っていた。
だが、それは違う。それは原因ではなく、ただの発端にすぎない。むしろ俺がこうなったのはその後だ。
猫を殺し、友達を失った。母さんはおかしくなって俺を虐待し、父さんは俺を見捨てた。俺は小学生のときから、ずっと失くし続け、今はもう大切なものなんて何もない。
全て瀬田山先輩の言う通りだった。
呆然としたままその場に立ちすくむことしかできない。
だとしたら俺は――明理の命さえも無価値だと思っているのだろうか。俺は無価値なゴミを見るような冷たい目を、明理に対しても向けていたのだろうか。
瀬田山先輩はため息をつくと、ゆっくりとベンチから立ち上がった。
「私も猫殺しだから、あなたのやっていることを咎めたりなんてしない。それどころか……あなたが手を汚して野良猫の数を減らしてくれるなら、都合がいい……「優しさの家」だって、もうパンク寸前なんだからね。だけど、それに明理を付き合わせるわけにはいかない。必ずあなたと明理を引き離してみせる」
「……ずいぶん勝手な言い分ですね」
「そうよ、悪い? だって、私にとってはあなたなんかより明理の方が大切だから。私は優先順位をキレイゴトでごまかしたりなんてしない」
瀬田山先輩の言葉に俺は何も言い返すことができなかった。
彼女の語った『優先順位』の概念。それは今までに俺が聞いた命に対するどんな考えよりも身勝手で薄汚くて……だけど、それだけに納得できた。
命は平等じゃないし、殺していい命と殺してはいけない命の境界線があるわけでもない。あるのはただ、『自分にとって大切なものだけを守りたい』というエゴだけ。
そして、大切なものを持たない人間には、『まとも』な人々が持つそんなエゴが理解できなかった――ただそれだけの話だったんだ。
身体から力が抜けるのを感じ、よろめくようにようにベンチへと腰を下ろした。
そのまま立っていれば、倒れてしまいそうだったから。
「最後に一つ質問させてください。あなたにとって猫と明理……命の優先順位はどちらが上ですか?」
ベンチに力なく座りながら、俺はそう質問した。
「明理だよ。前に話したでしょ? 私は猫をこの手で殺した後、拒食症になった。食卓に並ぶ食べ物が全て生き物の死骸だと感じてしまって、栄養失調で命を失いかけた。ちょうど叔父さんのように……そんな私を救ってくれたのが明理だった」
瀬田山先輩の返答には淀みがなかった。
瀬田山先輩が初めて会ったときにしてくれた、明理の話を思い出す。拒食症になり、栄養失調になった瀬田山先輩を明理が救ったという……彼女が拒食症になったきっかけは猫殺しだったのか。
今更のように納得した。同時に、迷っていたことに結論が出た。
瀬田山先輩は猫よりも何よりも、明理のことを一番に考える。その答えを聞けて満足だった。
「やっぱり……あなたと話せてよかったです、瀬田山先輩」
「……? どういうこと?」
訝しげに瀬田山先輩は聞き返す。
「先輩がわざわざ俺と明理を引き離す必要なんてもうないってことですよ。……自分でケリをつけます」
感情を心の奥に押し隠して、精一杯の笑みを作った。
明理は彼女と――瀬田山先輩と一緒にいれば『まとも』へと戻れる。両親の死の傷も時間をかけて癒え、あの三毛猫への復讐心もいずれ忘れられることだろう。
「……そう」
一言だけ言って、瀬田山先輩が歩き去っていく足音が聞こえた。顔を上げて見送る気力すらなかった。
彼女なら何があっても明理を守ってくれる。明理には、俺なんかよりもずっと適当な、そばで支えてくれる人がいる。友達も家族も失い、もはや何も残っていない俺などとは違って。
もう迷いはなかった。
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