第19話 命の優先順位(前編)


『野良猫屋敷』を訪れた翌日の月曜日。


 俺と明理は学校へと来ていたが、隣の席に座る明理はどこか上の空といった様子だった。


 授業中もただ黒板を見つめるだけで、ノートもろくに取っていない。ただ、どこか思いつめた表情で虚空を見つめている。


 考えているのは恐らく、瀬田山先輩の腕の怪我のことだろう。あの怪我は明理をかばおうとして負ったものだ。


 もう友達じゃない、と宣言したとはいえ明理は間違いなく瀬田山先輩と絶交することをためらっている。


 昼休み、俺と明理、それから直哉の三人で机を囲んで昼食を取っていた。だが、明理は購買のパンを一つ食べただけで、「ごちそうさま」といって席を立った。


 そして、「ちょっと用事があるから」と教室から出て行ってしまった。


 その様子を、直哉が焼きそばパンを頬張りながら怪訝そうに見ていた。


「なあ、どう思う? 今日の高坂さん、様子が変じゃねえか?」


 直哉に話を振られるが、俺を首を横に振る。


「いや……俺は知らないよ」


 俺はそう言ってごまかす。


 明理と瀬田山先輩のことを直哉に話しても仕方がないと思ったからだ。お節介焼きの直哉のこと、たとえ『猫を探している』と建前の事情を話したとしても、すぐに手伝うと言い出すだろう。


 俺の返答に納得がいってないのか、直哉はこちらをじっと見る。


「陽樹よぉ……おまえもしかして喧嘩とかしたのか?」


「またそれか。何でそう思うんだ?」


「いや、おまえも何か機嫌悪そうだからよ」


「え?」


 思わず、自分の顔を手で触れる。


 いつも、教室では感情を表に出さないように気をつけていた。


 もしも自分が猫殺しであることがバレたら、また小学生のときの繰り返しになってしまうから。


 それなのに、自分でも気付かないうちに不機嫌な表情を浮かべていた。


 俺は食べ終えたパンの袋をくしゃくしゃに丸めると、慌てて立ち上がった。


「ごめん、直哉。俺も用事を思い出した」


 そう言って、俺も先ほどの明理と同じように教室のドアへと歩いていく。


 直哉の狐につままれたような顔が目に焼き付いていた。




 トイレの洗面所で顔を水で洗う。


 大きくため息をついて、気持ちを落ち着かせる。


 考えるのは明理のことだった。


 最初はきっと同情心からだった。


 明理の猫殺しに協力しようと思ったのは、彼女が俺と同じ猫殺しであることを知ったから。


 そして、彼女も俺と同じように孤独であると思い込んだ。


『まとも』な人たちとはただ本性を隠して付き合うしかない。家族も友達も、自分の本性を打ち明けられる相手など一人もいない。


 自分と同じ猫殺しの同類が欲しかった。


 だから明理とこれまで行動を共にしてきた。


 だが――俺の中でどんどん明理の存在が大きくなってきている。


 これ以上はまずい、と俺の心が警鐘を鳴らしていた。


 これ以上深く踏みこめば、失ったときの傷がより大きくなる。


 小学生のころ、猫殺しという行為が隠すべきものだと知らなかったときの俺のように。家族も友達も全て失ったときのように。


 そして、明理自身は否定しようとしているが、明理は俺と違って『まとも』な人間へと戻れる余地はある。


 瀬田山先輩――彼女は昨日、身を挺して明理を守った。自分の腕が鉄の門扉に挟まれても、明理の身代わりになった。


 彼女ならあるいは、明理を支えることができるかもしれない。復讐心を忘れさせ、『まとも』な人間の世界へと引き戻せるかもしれない。


 そろそろ、先延ばしにしていた決断をするときだろう。


 明理は、俺という猫殺しと一緒にいるのがいいのか、あるいは瀬田山先輩のようなまともな人間と一緒にいるのがいいのか。


 考えるまでもなく後者だ。


 別に何も悲しむことはない。明理と出会う前、ほんの一ヵ月ほど前と同じ状況に戻るだけだ。


 俺は一人で猫を殺し続ける。理解してくれる同類など最初から必要なかった。ただ、孤独を埋められる相手が欲しかっただけの気の迷いにすぎない。


 まともじゃない人間の屑が仲間を求めること自体間違いだった。俺は一人でいい。


 結論を出してから、俺は再び顔を水で洗う。


 顔を上げて洗面台の鏡を見る。 そして、思わずぎょっとした。


 鏡の中には俺の顔が映っていた。だが、その目はひどく冷たく、無価値なものを見るような目だった。


 昨日、『野良猫屋敷』を訪れたときのことを思い出す。


 相沢さんも猫以外のものに対してこんな目を向けていた。確か、そう……死んだバラや他の人間に対して。

 まるで、無価値なゴミを見るような目で。


 相沢さんの目を頭から振り払い、トイレから出る。


 とにかく、今やるべきことは瀬田山先輩と話をすることだ。


 彼女が明理を本当に支えることのできる人物なのか……それを知るために。


 三年生の教室は校舎の三階に集中している。


 そういえば、瀬田山先輩のクラスがどこか知らないな――と俺は今更のように思い出す。


 だが、その心配は必要なかった。


 何故なら、三年一組の教室前の廊下で、明理が消火用ホースのボックスの陰に身を隠すようにして一組の教室の中を覗いていたからだ。


「また隠れられてないぞ」


「ひゃわっ!」


 背後から俺に声をかけられ、明理は驚いて飛び上がる。


 そして、心臓の辺りを押さえながら俺を見る。


「よ、陽樹……びっくりさせないで。心臓が止まるかと思ったし……」


 胸を押さえて深呼吸する明理。


 その間に、俺は三年一組の教室の中へと目をやる。教室の入り口辺りの机で、数人の女子が雑談に興じている。


 その中には、腕に包帯を巻いた瀬田山先輩の姿もあった。


 その笑顔はぎこちなく、腕の包帯をときおり触っていた。


「瀬田山先輩が心配になったのか?」


 俺がいうと、明理は図星を突かれたようにぎくりと表情をこわばらせた。


「べ、別にそんなんじゃないし。それじゃ!」


 まるで後ろめたいことをしている現場を見られたかのように顔を伏せ、明理は廊下を走り去ってしまった。


 その様子を見送りながら、確信を深める。


 やはり、明理も瀬田山先輩のことをまだ友達だと思っている。口では「友達じゃない」と決別の言葉を口にしたところで、本心は容易には変えられない。


 やはり、と俺は思った。


 そうなるのが自然なんだ。


 根本的には明理はもともと『まとも』の側の人間で、俺のような猫殺しと明理が行動をともにしている理由なんてない。


 きっとそこにもまた境界線が引かれていたのだろう。命と物の間に誰もが境界線を引いているように、目に見えない隔たりが俺と明理の間にはあったんだ。


 三年一組の教室へと足を踏み入れる。


 そのとき、瀬田山先輩の方も俺の姿に気づいたらしい。


「私に用事みたい」


 彼女は一緒に話をしていた友人らしき女子生徒たちに一言断ると、俺の方まで歩いてきた。


「すみません、急に来て……明理のことで話したいことがあって」


「奇遇だね。私も聞きたいことがあったんだ。……明理のことで」


 決断をしたのは何も俺だけではなかったらしい。


 彼女の方もまた、決意に満ちた目で俺を見つめていた。



 どちらからともなく、俺と瀬田山先輩の二人は中庭へと向かっていた。


 いつもなら昼休みの中庭は昼食を取っている生徒たちが大勢いるが、今日はそうではなかった。


 空はどんよりとした曇りで、今にも雨が降り出しそうな湿気だったからだ。天気予報では、午後からは本降りになるらしいということだった。


 二人で中庭のベンチへと腰を下ろす。


 瀬田山先輩と初めて会った日、一緒に座ったベンチだ。


 思えば皮肉なことに、あのときもここで明理の話をしていた。


 ちらりとベンチの後ろの生垣へと目をやる。あのときと違って、そこには明理は隠れていない。


 決断を鈍らせるような事情は何一つなかった。

「最初に聞きたいことがあるの。明理はどうしてあの三毛猫を探してるの? そして、あなたは何故それに協力しているの?」


 瀬田山先輩は最初から踏み込んだ質問を繰り出してきた。


「言いませんでしたか? あの三毛猫は明理の伯父さんの家から逃げ出したペットで、俺はクラスメイトとして明理に協力してるんです」


 慎重に言葉を選んで答える。


 瀬田山先輩がどこまで察しているのかわからない。藪を突いて蛇を出すような真似はしたくない。


「嘘。それだけじゃ納得できない。明理の両親の事故は猫が原因だった……それなのにいくら引き取ってくれた伯父さんの猫だからって、必死になって猫を探すなんて不自然よ」


「そういうこともあるんじゃないですか? 不自然というほどでもないですよ」


「ならもう一つ……昨日、野良猫屋敷で明理があの三毛猫を見つけたときの表情。あれはどう見ても『家から脱走した猫』を見るような目じゃなかった。そう、まるでひどく憎んでいるような……」


「昨日、俺たちを野良猫屋敷に案内するのに妙に協力的だったのはそれが理由ですか? 明理の反応を確かめるために……」


 瀬田山先輩は答えない。


 ただ、反応を窺うようにじっとこちらを見ている。


「じゃあ逆に聞きますよ、先輩。明理があの三毛猫を探していたのはどういう理由だと思っているんですか?」


 俺はあえて質問を返した。


 瀬田山先輩は言葉に詰まり、手を固く握りしめる。


 だが、意を決して口を開く。


「ねえ、これは私が勘違いしてるだけかもしれない。的外れで、バカバカしいと思ったら笑って?」


 そう前置きをしてから、瀬田山先輩は深呼吸をして本題を切り出した。


「私は……明理があの三毛猫を殺そうとしてるんだと思ってる。あの猫、事故の原因になった猫なんでしょ?」


「…………」


『正解』と思わず拍手してしまいそうな、笑ってしまいそうなくらいに的確な洞察だった。


 もちろん、俺は笑わなかったが。


「どうして何も答えないの?」


「別に……否定はしませんよ。ありえる話だと思います」


「それじゃ……!」


「でも、もしそうだったらどうしますか? 明理が仇の猫を殺そうとしているんだったら……止めますか?」


 俺の質問に、瀬田山先輩はこくりと頷いた。


「もちろん、止める。友達として当然だよ」


「仮にその話が本当だとすると、俺は明理の猫殺しを手伝っている異常者ってことになりますね」


「……聞きたいのはそれよ。あなたはどうして明理に協力してるの? もしもあなたが言った通りなら……もう二度と明理に近づかないで」


 彼女はあまりにも俺の理想通りの返答をしていた。彼女が明理を思ってくれる善人であること。それは明理にとってよいことのはずだ。


 だが、俺はあまりにも理想通りすぎる彼女の言葉が少し癪に障って、心に悪意が渦巻かせ始めた。


 そのとき、俺たち二人が座るベンチのそばの空中を一匹の蝶が飛んでいるのを見つけた。小さなモンシロチョウだ。


 ゆっくりと指を伸ばすと、ちょうどそこにモンシロチョウが止まった。


 ――蝶は殺していい生き物か殺しちゃいけない生き物か、どっちだっただろう?


 母さんのテストを思い出しながら、モンシロチョウの羽をもう片方の手で掴んだ。


「瀬田山先輩。あなたはどうして明理が猫を殺すのを止めようとするんですか? 猫は『殺しちゃいけない命』だからですか?」


「え?」


 瀬田山先輩は怪訝そうに聞き返す。


俺は羽を一枚ずつもぎとって、残ったモンシロチョウの胴体を地面へと落とした。


「……!」


 隣に座る瀬田山先輩が息を飲む声が聞こえる。


 その反応を見る限り、どうやら『殺しちゃいけない』生き物の分類だったようだ。


 弱弱しく蠢き、命から物へと境界線を越えようとしているモンシロチョウを俺はじっと見つめていた。


「俺は殺しちゃいけない生き物と、殺していい生き物の区別がつかないんです。その二つの間にある境界線がわからない。だから……それを確かめるために何匹も猫を殺してきた。それでも、まだわからない」


「何てこと……」


 瀬田山先輩は呆然と呟く。


 俺はもう動かなくなったモンシロチョウの死骸から目を上げ、瀬田山先輩へと視線を戻す。


「瀬田山先輩、あなたは明理の猫殺しを止めると言ったけど……もう手遅れですよ。あいつも俺と同じで、今まで何匹もの猫を毒殺してきた」


「……!」


 彼女はモンシロチョウの死骸から顔を上げ、驚きと当惑の入り混じった目でこちらを見つめる。


「明理とあなたは以前は友達だったかもしれないが、もう違う。あなたは猫が好きなまともな人間で、明理は猫殺しだ。それでも、明理を助けますか? 明理と……友達でいたいと思いますか?」


 ここだ、と俺は思った。


 これを聞いて瀬田山先輩が明理を拒絶するなら――所詮、彼女と明理との友情はその程度のものだったということだ。明理を『まとも』な世界に引き戻すなんてことはできない。


 瀬田山先輩はしばらくの間、俺を見つめていた。だが、不意にその口元をゆるめて、弱弱しい笑みを作った。


「何がおかしいんですか?」


 意外な反応に、今度はこちらが戸惑う番だった。


「ううん……ただちょっと皮肉だなって思っただけ。そうか、あの子も猫殺しか……」


『あの子も』と瀬田山先輩は言った。


 その言葉に異様な気配を感じながら、俺は瀬田山先輩を見つめ続ける。


「あなたの秘密を教えてくれてありがとう、小川くん。今度は私が教えてあげる」


「え……?」


 瀬田山先輩の言葉に、俺は思わず聞き返す。


「……私が子供のころに犯した罪のことを」


 彼女は何かを迷うように眼を伏せていた。だが、すぐに俺に向き合った。


「小学生のころ、私は――猫を殺したの」 その言葉を皮切りにして、瀬田山先輩は語り始めた。


 彼女の犯した『罪』の物語を……。

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