第18話 まだ戻れるもの、もう戻れないもの


 その後、瀬田山先輩は念のために門扉に挟まれた腕を診てもらうために病院に行くと言って『野良猫屋敷』の前で別れることになった。


 その際、俺は「警察に通報した方が……」と提案したが、瀬田山先輩は首を横に振った。


「ううん、これは事故で負った怪我……そういうことにする」


 彼女は腕を押さえながら答える。

「どうしてですか?」


「彼女が警察の厄介になったところで、彼女の猫がいなくなるわけじゃない。それに彼女はあの猫たちを自分の猫だと主張してる。……気付いた? あの猫たち、みんな首輪をしてるの」


 言われて、俺は『野良猫屋敷』の庭にいた猫を思い出す。


 確かに瀬田山先輩の言う通り、あの猫たちは全て首輪をつけられていた。


 考えてみれば奇妙だ。中には保護団体から持ってきた猫もいるだろうが、大半は野良猫だろう。あれだけの数の猫に首輪をつけるのは並大抵の作業ではないだろう。そこには、相沢という女性の猫に対する妄執が感じられて、俺は空恐ろしくなった。


「あの首輪をつけることで、相沢さんはあの猫たちを野良じゃなくて飼い猫だと言い張ってる。そしてペットは法律上はモノ、財産……相沢さんが警察の厄介になってる間に無理やり奪ったところで、今度は向こうが警察を利用してこちらを犯罪者として訴える番……猫を取り返すには、相沢さんを説得するしかない。もっとも、あの三毛猫が本当に明理の家の猫だって証明できるなら別だけど……」


 瀬田山先輩の言葉には、何故か探るような響きが含まれていた。


 俺は曖昧に肩をすくめるだけで返事の代わりにした。


 実際のところ、あの三毛猫は明理の家の猫なんかじゃない。だから証拠なんてそもそもあるわけがない。


 警察にあの女を突き出して邪魔者を排除するというのはいい案だと思ったが、本人が事故を主張するなら仕方ない。


 それに――瀬田山先輩がそんな選択をするのは、警察云々よりももっと深い理由がある気がした。


 これ以上、瀬田山先輩と行動を共にするのはまずい。俺の心の中で警鐘が鳴っている。


「相沢さんとの交渉は俺たちがやりますよ。すみません、俺たちに付き合って、こんな目に遭わせてしまって」


 これ以上は協力してもらう必要はない。


 暗にそう牽制を加えながら俺は瀬田山先輩を見る。


「明理はそれでいいの?」


 彼女は意味ありげな沈黙を続けた後、俺の背後に立っている明理へと唐突に話を振った。


 明理はさっきから一言もしゃべっていない。


 見ると、彼女はうろたえたように視線を泳がせている。


「う、うん。私はそれでいい」


「そう……」


 瀬田山先輩の目に少し悲しげな色が浮かんだ気がした。


 彼女は『じゃあ、これで』と言って、その場から立ち去ろうとする。


 住宅街を遠ざかっていくその後ろ姿を見送っていたが、不意に俺の後ろから明理が飛び出した。


「い、育音! その、さっきは助けてくれてありがとう!」


 明理の声が瀬田山先輩の背にかけられる。


 瀬田山先輩は驚いたように振り返り、俺たちの方を見た。


「助けて当然だよ……明理がどう思ってても、私は明理のこと友達だと思ってるから」


 微笑んだあと、瀬田山先輩は再び踵を返し、歩き去っていく。


 俺は彼女を見送る明理の横顔を呆然とした表情で見ていた。


 その顔には、心の底から安堵した笑みが浮かんでいた。


 一方、俺の心には自分でも正体の掴めない感情が渦巻いていた。


 瀬田山先輩が明理に向けた笑顔。それはかつて二人が親友だったころ、交わしていた笑顔だったのだろう。


「……あっ。そ、それじゃ……私たちも帰ろうか、陽樹」


 俺に横顔を見られていたことに気付いた明理は気まずそうにそう言った。


 明理は瀬田山先輩と絶交すると口では言っているが、実のところ二人の友情は切れていない。


 そのことが何故だかひどく俺の心の表面をかきむしっていた。


 瀬田山先輩と別れ、『野良猫屋敷』を後にした俺と明理は、どちらも無言のまま帰り道を歩いていた。


 日は落ちかけ、夕日が街を赤く染めている。


「ねえ、陽樹。もしかして怒ってる……?」


 俺の数歩あとをついてきていた明理が、おずおずとそう訊ねた。


「怒ってるって、何でだよ?」


 足を止めずに俺は聞き返す。


「私がさっき育音に『ありがとう』って言ったこと……育音とはもう友達じゃないって言ったのに」


 怒っている――そうなのだろうか。


 明理がまだ瀬田山先輩との友情に未練を持っていることを?


 いや、違う。これは怒りじゃない。そのことだけは俺自身も分かっていた。


 この感情は恐れだ。


 明理が『まとも』な側へと帰ってしまうのではないかという恐れ、不安。


 そして、その一方では確かに俺は怒りも抱いていた。


 俺と違って『まとも』な側へと帰れるはずの明理を、他でもないこの俺が引きとめてしまっていることに対する怒り。


「ねえってば!」


 突然、背後から手首を掴まれ、俺は否応なしに足を止める。


 腕を引っ張られ、明理の方を見る形になる。


 互いの息さえ感じられそうなほど近くで、俺は明理の顔を見た。不安げに俺を見上げる、明理の悲しげな目を。


 そして、彼女にそんな顔をさせている原因は、間違いなくこの俺だった。


「陽樹、最近ちょっと変だし……」


「変だって? どこがだよ」


「すごく寂しそうな眼をしてることある……ほんのときだきだけど。前にも言ったでしょ? 陽樹がどれだけ嘘が上手でも、泣くのを我慢してたって私にはわかるんだから」


「…………」


 寂しい。


 そうだ、俺は孤独だった。そして、やっと明理という猫殺しの同類を見つけたんだ。


 ああ、認めようじゃないか。


 俺は瀬田山先輩に明理を取られることを恐れている。そして同時に、瀬田山先輩によって明理が『まとも』な人間の側に戻るのが最善だと思ってしまっている。少なくとも、『まとも』へと戻れる道があるなら俺みたいな猫殺しと一緒にいることはない。


 そんな矛盾した心が俺の内側で渦を巻いている。


「何でもない」


「本当に? ねえ、私、いろいろ陽樹に助けてもらってる。だから、もし陽樹が何か悩んでるんなら、私も助けになりたい」


 明理は俺のことを真摯な目で見つめる。


 彼女は優しい。嘘もごまかしも下手だが、それだけにまっすぐで眩しい。


 本来なら、俺と同じような猫殺しになるような人間じゃない。瀬田山先輩のような人と友達のままで、一緒に笑いあっているべき少女だ。


 ただ、一年前の事故によってほんの少し歪んでしまっただけなんだ。


 明理の曇りのない目を見て、そのことを改めて痛感する。


 暖かい日の眩しさから逃げるように、目を逸らす。


「だから、別に何でもないって。ただちょっと調子が悪いだけだ。今日はいろいろあったから……とにかく、家で休みたい」


 日ごろ明理の嘘の下手さを指摘していた俺だったが、その言い訳の苦しさといったらなかった。


 その証拠に、明理は少しもその言い訳を信じていないように俺の手首を掴み続けている。


「……私、猫殺しを止める気はないよ。そもそも、もう引き返す道なんてないんだから」


 本当にそうだろうか。


 引き返す道があるのに、強いてそこから目を逸らそうとしているだけじゃないのか。


 喉から出かかったその言葉を飲み込む。


 口にしてしまえば、全てが終わりそうな気がしたからだ。


「もういい。明理も帰れ。おまえも疲れてるんだろう」


 奇しくも、そこは俺の家への道と明理の家への道の分岐点だった。


 俺が半ば乱暴に手を振り払うと、明理は不安げな顔で俺を見た。


 やめてくれ。


 そんな、俺だけがすがれる相手のような目で見るのは。


 本当に、俺がおまえをこちら側に引きとめているようじゃないか。


「明日また、学校で」


 そう言うのがやっとだった。


 俺はただ明理から逃げるように早足でその場を立ち去った。


 俺が家に帰ってまずしたのは、裏の空き地の捕獲器に猫がかかってないか確かめることだった。


 するとおあつらえ向きに一匹の白い仔猫がかかっている。俺はすぐさま捕獲器を持ち上げると、ガレージへと運んでいった。


 最近は明理の『練習』に付き合っていたから、こうして一人でガレージに入るのは久しぶりだった。


 ガレージの隅に置かれた道具箱の中から、ライター用のオイルの入った缶とマッチを取りだす。


 普段なら、捕獲器が傷むような殺し方は避けている。手作りなだけに愛着があるからだ。


 だが、今夜に限ってはそんなことがどうでもよくなっていた。


 とにかく今は再認識したい

 俺がどれほど命というものについて鈍感か。俺の脳ミソが『まとも』な人間のモノとどれほどの隔たりがあるのか。


 それを確かめて、俺の抱いていた幻想を壊したかった。


 ネジの外れた異常者が心から信頼し合える仲間を欲しがるなんていう甘い幻想を。


 缶のフタを開け、捕獲器の中の仔猫へとそのままライターオイルをぶちまける。


 仔猫は頭から尻尾の先までライターオイルでびしょ濡れになり、不快そうな鳴き声を上げる。


 ガレージ内に油の匂いが充満し、息が苦しくなるほどに鼻を刺激した。


 いや、息が苦しいのは単に動悸が激しいせいだろうか。


 俺は捕獲器からやや離れ、マッチ箱から一本のマッチ棒を取り出す。そして、箱の側面で擦り、火を点ける。


 仔猫はこれから自分の身を襲う運命など知る由もなく、全身にかかったライターオイルを前足で擦って落とそうとしていた。


 そんな仔猫の入った捕獲器へと火の点いたマッチ棒を投げ込む。


 小さな火は一瞬にしてライターオイルへと燃え移り、仔猫を火だるまへと変えた。


 全身の毛によく染み入ったオイルが炎上し、仔猫の耳をつんざかんばかりの鳴き声がガレージ内に反響する。捕獲器の中で仔猫が暴れ回り、金具がガチャガチャとやかましい音を立てる。


 全身を焼く炎の熱から逃れようとしても、狭い檻の中ではどうしようもない。仮に出られたとしても、火を消すすべなどない。


 檻の中で繰り広げられる熱と苦痛の狂宴を、俺はじっと見つめ続けていた。


 何も感じない。


 知識としては、今目の前で繰り広げられている光景が、残酷で恐ろしいものだとわかっている。


 目を背けて胸を痛めるべき光景だと知っている。


 それなのに、仔猫の断末魔は心にさざ波ひとつ立てなかった。


 やがて喉が火で焼かれたのか、鳴き声が途絶え、のたうち回る身体も力尽き、後には見る影もなく黒こげとなった仔猫の死骸だけが捕獲器の中でくすぶっている。


 だが、やはり俺には死んで黒こげになった仔猫と、先ほど生きていた仔猫との間に大して違いが見いだせなかった。


 虫と同じだ。


 生きている虫を見ても死んでいる虫を見ても『気持ち悪い』という感想に大して感想に違いはない。


 虫のようなちっぽけな生き物が生きていようが死んでいようが、たいていの人間にとってはどうでもいい。むしろ、死んでいる方が安心することさえあるだろう。


 俺には同じに思える。


 猫の命も、虫の命と大して変わらない。


 殺したところでどちらもまるで心が痛まないのだから。


「くっ……はははは……」


 喉の奥から笑いが漏れてくる。


 明理と出会ってから、俺は今までの生き方を忘れてしまっていた。


 誰にも自分の本心をさらけ出さず、まともな人間と同じ感覚を持っているかのように振る舞う。それが俺の処世術だったはずだ。


 にもかかわらず、仲間を欲しがっていただなんてお笑い草だ。それだけじゃなく、本来『まとも』な側に戻れるはずの相手を、俺のエゴのためにこちら側に引きとめているなんて、屑としかいいようがない。


ああ、直哉の言っていた通りだ。俺は人間の屑だ。


 ――『生まれてこなければよかったのに』。


 いつか、母さんが俺に放った言葉が脳裏にこだまする。


 俺には最初から引き返す道なんてない。


 俺と『まとも』な価値観との間には、絶望的なほどに深くて隔たりが広がっている。


 どうがんばってもまともになんてなれない。

救いようがない。


 これだけ破綻していれば、行く末は破滅以外にないだろう。


 そして、その道に明理を付き合わせるべきか?


 ただ仲間が欲しいなんていうくだらないエゴのために、明理まで破滅させるべきか?


 明理には引き返すべき道も、支えてくれる友人もいるというのに?


 ――答えは考えるまでもない。


 ただ、結論を出す前に確かめておかなければならないことがある。


 明理は今まで猫を毒殺し続けてきた。


 その事実を知っても、彼女は明理を拒絶せずに受け入れるだろうか。案外、それだけであっさりと明理が『まとも』へと戻れる道を断つことになるかもしれない。


 それならそれでもいい。俺の葛藤は全て無意味な杞憂だったということになる。


 全ては明日、学校で明らかになる。

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