第17話 野良猫屋敷の女
結局、瀬田山先輩が例の『野良猫屋敷』へと案内してくれることに話がまとまった。
坪内さんにお礼を言って、俺と明理は瀬田山先輩に先導されて道を歩いていく。
俺は前を歩く瀬田山先輩の背中をじっと見つめていた。どうして彼女がここまで親身に協力してくれるのか、その理由がわからない。
先ほど、明理に決別としか受け取れないような言葉をかけられたばかりなのに。
隣を歩いている明理へとそっと近づく。
「さっき、瀬田山先輩にあんなことを言ったのはまずかったな」
小声でそう訊ねると、明理は驚いたように目を見開く。
「さっきって……盗み聞きしてたんだ」
「当たり前だろ。たぶん、瀬田山先輩は疑ってるぞ。俺たちの猫探しについて。道案内を申し出たのは俺たちの目的を確かめるためだ」
「……そうかもね。でも、もうそんなの関係無い。猫の場所さえ分かればいいんだから」
住宅地は奥へと入り込むほどに急な坂道になっていく。そして、住宅の立ち並ぶ丘のちょうど頂上辺りに、一際大きな家が見えてきた。
『野良猫屋敷』という名前からして、小汚い民家だとばかり思っていたが、なかなかどうして大きな洋館だった。だが、どうもろくに手入れはされていないようで、洋館の壁にはあちこちに植物のツタが這っているらしい。
『野良猫屋敷』の庭は背の高い塀で囲まれていて、歩道に面する場所には鉄製の門がある。
門の上部にある装飾が槍のように尖った、厳めしい門だった。そして、その門の内側からは複数の猫の鳴き声が聞こえてくる。
そんな風に『野良猫屋敷』の外観がわかる程度に近づいたところで、門の前で二人の人物が口論をしているのに気付いた。
二人とも女性で、片方は小太りで白髪交じりに老婆だった。そして、それに対するのはまるで喪服のように全身を黒い衣服で固めた、長身の女性だった。恐らくは、その黒い女性の方が話に聞いていた相沢という人物なのだろう。
長身にもかかわらず頬がこけ、目はやけに濁っている。かなり病的な印象を見る者に与える。
住んでいる家といい、身につけている衣服といい、やけに高価そうなのが、野良猫の鳴き声が響く陰気な家と相まって余計に陰気に思えた。
二人の女性はどうやら言い争いをしているようだった。
異様な雰囲気に、俺と明理、瀬田山先輩の三人は離れたところで足を止め、様子をうかがう。
「今まで何度も何度も注意してきたじゃない! あんたの家の猫が外に出て、うちの庭の花壇を荒らすって! こんな大きな家がありながら、何で家ん中で飼わないのッ!」
二人の女性のうち、老婆の方が相沢さんへと怒声を浴びせる。
どうやら相沢さんの猫の糞尿害の被害者らしい。
「猫は外で自由に生きるべき動物なんですよ、宮野さん。家の中に閉じ込めておくなんて……そんなかわいそうなことはできませんわ」
相沢さんは淡々とその顔に微笑みを浮かべて答える。見た目は穏やかで、口調も上品なようだが、やはりどこかその振る舞いには異常さが垣間見える。
『宮野さん』と呼ばれた老婆はさらに激怒する。
「一昨年からずっと大切に育ててきたバラなんだよ! これが最後の一本だったんだ……! これからの時期に咲くのを楽しみにしてたのに……あんたのとこの猫に毎日踏み荒らされて、土に糞をされて……もう全部枯れちまったよ! 返せ! あたしのバラを返せッ!」
よく見れば、宮野という老婆はその手にバラらしき花を持っていた。だが、そのバラは茎から踏み折られて完全に枯れていた。
――死体だ、と俺は思った。
その花はもうとっくに命が尽きている、植物の死体だった。相沢さんはその『死体』をまるで汚いゴミを見るかのような目で見下ろしていた。
「落ちついてください、宮野さん。猫は生き物なんですよ? おしっこやうんちくらいしますよ。だから、我慢しましょうよ。バラなんてまた植えればいいじゃないですか」
怒りと悲しみに声を震わせる老婆に、平然と相沢さんはそう言い放った。
相も変わらず、穏やかな微笑みを浮かべたままで。
その様子を見て思わず背筋に寒気を感じる。
『私の猫は大切な命だが、おまえの花はただの替えのきくモノだ』と、この相沢という女は平然と言ったのだった。
そして、最も不気味なのは――恐らく彼女は自分の言葉の異常さに気付いていないことだった。その穏やかな笑みは、少しも歪まない。
そんな言葉を放たれた宮野という老婆は、しばらく唇をぶるぶると震わせ、何か懸命に言葉を発そうと口をぱくぱくと開いていた。
だが、やがて何を言っても無意味だと悟ったのか、バラの『死体』を持ったまま、顔を伏せて踵を返した。
老婆は俺たち三人のすぐそばを通り過ぎて行ったが、顔を伏せ、俺たちにも気付かない様子で何事かぶつぶつと呟いていた。
「……仇は取るからねぇ」
老婆が横を通り過ぎる一瞬、その一言だけがはっきりと聞こえた。
思わず振り返り、道の向こうへと遠ざかって行く老婆の後ろ姿を見つめていた。
さっきの言葉には何かなみなみならぬ決意がにじみ出ていたような気がしたからだ。
「あら、育音ちゃん、こんにちは」
そのとき、いやになれなれしい声が聞こえ、俺は再び振り返る。
黒い服の女性――相沢さんが俺たちの方を向いて、にこやかに笑いかけている。まるで先ほどの口論などなかったかのように。
「……こんにちは、相沢さん」
瀬田山先輩は重い足取りで相沢さんの方へと近づいていく。
それに俺と明理も続いていく。
「その子たちは? いつもの学校の猫保護サークルの子たちじゃないみたいね」
相沢さんは俺と明理の顔をじっくりと値踏みするように見た。
顔には相変わらず微笑みを浮かべている。だが、その濁った目はまるで虚空を見つめているかのように無感情だった。
――きっとバラだけじゃない。この人にとっては、猫以外はどうでもいい無価値なものなのだろう。
俺はその冷たい目を見ながらそう直感する。
「あなたの猫について聞きたいことがあって来たんです」
「あら? 何度言ってもダメよ。『猫を家の中で買ってください』なんて……そんなひどいことは私にはできないわ。育音ちゃんからも坪内さんに一言注意してくださらない? 『猫を閉じ込めるような飼い方はやめて』、と……」
「避妊去勢をしていない猫を外に出していたら、無制限に繁殖してしまいます」
「避妊去勢……ふん。そんなおぞましい言葉を聞かせないで。猫の身体の一部を切り取るなんて残酷よ。獣医なんて私は信用しないわ」
「いい加減にしてください。最近は毒餌の騒ぎも起こっているんですよ? 猫のためにも、家の中で飼ってください」
毒餌の話が出た途端、相沢さんの穏やかな笑みがわずかに歪んだ。
「毒餌……あの青いビーフジャーキーのことね。世の中にはひどいことをするばかりね。かわいい猫たちに毒を盛るなんて……」
「そう思うなら、猫を家の中に」
「ダメよ。そんなことをしたら余計に世の中にはびこる猫の敵たちをつけあがらせるだけ……虐待者やあなたたちのような連中や獣医……私はそいつらから猫たちの自由を守るの。それが私の使命……」
相沢さんはその目に狂気めいた輝きを浮かべていた。彼女は本気で、猫を外に放して飼うことが猫たちのためになっていると信じ込んでいるようだ。
瀬田山先輩は呆れたように首を横に振る。
「……もういいです。話にならない。そもそも、今日は違う用件で来たんです。あなたの猫の中に、もしかしたら他人の飼い猫がいるかもしれないんです」
瀬田山先輩の言葉に、相沢さんはぴくりと眉を動かす。
「他人の飼い猫……ですって?」
「はい。三毛猫なんですけど……ちょっと庭を見せてもらってもいいですか? その中にいるかもしれませんから」
そのとき、俺は会話している瀬田山先輩と相沢さんの肩越しに門の隙間から『野良猫屋敷』の庭を覗いた。 ろくに手入れもされていない、雑草だらけの庭。
そこには無数の猫がたむろしている。中には、明らかに病気らしい毛並みの汚れた猫がいて、獣臭が漂っている。
そして、何とはなしに見たその猫の群れの中に、一匹の三毛猫を見つけた。
「あ……!」
思わず声を上げる。
その三毛猫は間違いなくあの目撃情報の画像と同じ猫だったからだ。
隣に立っていた明理もその三毛猫の存在に気付いたのか、思わず門へと近づこうとする。
だが、相沢さんが門の前へと立ちふさがった。
「やめなさい! 猫たちに指一本触れないで!」
住宅街に相沢さんの怒鳴り声が響く。
見ると、相沢さんの顔からはもう微笑みは消えていた。
無表情なその顔に、目の奥にぎらつく敵意だけがはっきりと読み取れる。
「相沢さん、確認するだけでも――」
「ダメよ!」
瀬田山先輩が説得しようとするのを、相沢さんが遮った。
瀬田山先輩が説得しようとするのを、相沢さんが遮った。
「その手は通じないわ。大方、坪内さんにでも悪知恵を吹きこまれたでしょう。嘘をついて、私から猫を取り上げるように、って……ああ、残酷な人たち! 罪もない猫たちの自由を奪って、狭苦しい檻の中に閉じ込めるなんて!」
徐々に相沢さんの語調が怒気を含んで荒く、激しくなっていく。
「私は知っているんだから。あの毒餌騒ぎだって、あなたたちが私に嫌がらせをしようとしてるんだって。……でも、そんな脅迫に屈するものですか……!」
相沢さんはぶつぶつと独り言のようにつぶやき続ける。
それはもう会話ではなかった。相沢さんは瀬田山先輩を見つめていたが、その目は虚空を見つめているのと同じだった。
「相沢さん、違います。私たちは――」
瀬田山先輩が何とか会話を続けようとするが、その言葉も届いているかどうかわからない。
「そうはいかないわ……私が守ってあげなくちゃ……私だけが猫たちを守ってあげられるんだから……こんな卑劣な連中からッ!」
相沢さんは『野良猫屋敷』の門扉を開けると、その隙間に身体を滑り込ませて庭の中へと入った。
そして、再び門扉を閉めようとする。
「あ……待って!」
そのとき、明理が進み出て、閉まりかけた門扉を手で掴み、その隙間から必死で庭の中の三毛猫を見た。
だが、相沢さんは門扉の内側から取っ手を掴み、両手で力を込めようとしていた。
まさか、という考えが俺の身体を動かすのを一瞬遅らせた。明理が門扉の隙間を手で掴んでいるのに、そのまま閉めるなんてするわけがない。
だが、次の瞬間にはまさに相沢さんは門扉の取っ手を思い切り内側に引いていた。
「危ない!」
瀬田山先輩はいち早くその気配を感じ取っていたのか、反射的に左手を門扉の隙間へと伸ばす。
勢いよく閉められた門扉に、瀬田山先輩の腕の辺りが挟みこまれる。
「うっ……ああああああっ!」
瀬田山先輩の苦痛に満ちたうめき声が響いた。
ギリギリと嫌な音が鳴り、先輩の腕が軋むのがわかる。
「育音!」
瀬田山先輩が腕を挟まれた分、わずかな隙間ができた。そのおかげで、明理は手を挟まれるのを免れた。
明理は手で門扉をこじ開けて、瀬田山先輩の腕を抜こうとする。
だが、そのときのことだ。
あろうことか相沢さんはさらに強く門扉を閉めようとしたのだった。門扉が瀬田山先輩の腕に食い込み、軋みを上げることなど少しも頓着していない様子だった。
「な、何考えてんだあんた!」
俺も慌てて門扉のそばへと近づく。そして、門扉を開いて何とか瀬田山先輩の手を抜けるだけの隙間を作ろうとした。
「くぅっ……!」
明理と二人がかりなら、さすがに門扉を閉めようとする相沢さんの腕力を上回って、門扉をこじあけることができた。。その間に明理が隙間から挟まれていた瀬田山先輩の手を抜く。
俺たち三人が門から手を放した次の瞬間には、門は激しい音を立てて完全に閉まっていた。
門の内側では、相沢さんが荒い呼吸に肩を上下させながら、門に重い鎖を巻き付けていた。そして、侵入者を拒むように固く縛りつけると、大きな南京錠をかけて完全に封鎖する。
相沢さんはその作業を終えると、荒い呼吸を整え、穏やかな笑みを浮かべながら背を向け、猫だらけの庭へと歩いていった。
「さあ、みんな……そろそろお食事の時間よ」
猫に優しげに話しかける声は穏やかそのものだった。まるで、たった今、瀬田山先輩が門に手を挟まれたことなど見ていなかったかのように。
「育音っ! だ、大丈夫?」
振り返ると、瀬田山先輩が腕を押さえてうずくまっている。そのそばには明理が心配そうな顔で屈みこんでいる。
服の袖をめくり上げ、腕の辺りが露出している。門扉に挟まれた部分が痛々しい赤色に腫れていた。
だが、幸い骨が折れているといったことはなさそうだった。
「心配しないで……そんなに大した怪我じゃないから」
それでも、痛みに表情を歪ませながら瀬田山先輩は立ち上がる。
大事には至っていないようでひとまず安心したところで、俺は『野良猫屋敷』の庭へと目を向ける。
館の玄関扉には、無数の猫を伴って邸内へと入って行く相沢さんの後ろ姿が見えた。
玄関扉を閉める一瞬、猫たちを見る相沢さんの表情が見えた。それは俺たちに向けていたような空虚な笑みとは違う、慈しみに満ちた笑み。
それだけに余計に不気味だった。
ついさっきまで少女の腕を鉄の門扉に挟んで折ろうとしていたのに、まるでどうでもいいことのように穏やかに笑っている。
以前、教室でゴキブリが出たときのことを思い出す。
同じだ。
あの相沢という女性にとって、人間は――いや、猫以外の命はどうでもいい存在なのだろう。だから、傷つけても何の罪悪感もない。
クラスメイトたちがゴキブリの死に何の罪悪感も抱いていなかったのと同じように、彼女は猫を守るためなら何の罪悪感もなく人間を殺せるだろう。
俺や明理が猫を殺そうとしていることを知られたら、何をされるかわからない。それほどの危険人物だ。
『野良猫屋敷』の庭を見つめながら、俺はごくりと唾を飲み込んだ。
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