第4話

 四、


 五年かけて襄樊を落としたあとのフビライの動きは早かった。対南宋討伐軍の総司令官にバヤンを起用、翌年六月、バヤンひきいる二十万の元軍は、一気に漢水を南下した。

 バヤンはフラグに付いて西方でのいくさを経験している。抵抗する敵は大虐殺でほふる――殺戮の余韻はまだ残っていよう。

 フビライは無用の殺傷を禁じているはずだが、はたしてバヤン軍はどう出るか。抵抗すれば、どうなる――わしは悪夢の連想を打ち消した。

 この年七月に度宗が亡くなった。帝位にあった十年間はわしが権勢をふるった時代だったから、なすこともなく悶々として酒色に溺れ、ために三十六歳で憤死したと、これもわしの所為しょいにされておる。発信元は、理宗の実弟で度宗の実父・栄王ちょう與芮よぜいだ。もともと民間に逼塞していたものが、史弥遠しびえんに見出され、兄の皇帝につぐ立場になった。理宗の後継に推されたこともあり、野心家ではある。こたびも度宗の子、己が孫にあたる五歳の趙けん(顯の頁トル、のちの恭帝)では心許ないと帝の後見を買って出ている。栄王自身の皇位への執着が見え見えだったから、だれも相手にせず、祖母の謝太皇太后が摂政となった。

 十月に母を亡くしたわしは職を辞し、度宗の喪につづき服喪し、邸内に籠っていた。

 この時期、元が服属する高麗に命じ、東方海上の日本ジパングに向けて侵撃したという一報を受けた。大小九百艘からなる軍船に二万六千余の軍兵をつらねていたという(文永の役)。

 対南宋討伐軍の南下と並行しての侵撃だ。わしはフビライの余力に目をむいた。南宋の壊滅を避け、戦禍を広げぬためには、早期の和睦しかあるまい。つかのまの休戦から十五年、よくったと、むしろそのことに感慨を深めた。わしの戦意はすでに失われていた。

 十二月、バヤンは鄂州がくしゅうを攻略、東の臨安に矛先を向けた。

 国家存亡の危機にあって、喪に服している場合ではなかった。官民挙げての要請で、国軍総司令官として、わしが救国の難事にあたることになった。最後にかき集めた兵員十三万をひきい、艦隊を組んで長江をさかのぼった。かつてわしは襄陽を見捨てた。こんどはわしが見捨てられる番だ。もはや都へ帰る気はなかった。一族をひきつれている。

 わしは、建康(南京)の南約百キロにある蕪湖ぶこで艦隊をとどめ、女婿の范文虎ともども駐守した。腹心の淮西長官夏貴が駆けつけた。かねての手筈どおり、元に使臣を派遣し、和議を請うた。フビライと談合した十六年まえの古証文を、引っ張り出したのである。

 しかしバヤンはあっさりと拒否し、無条件降伏か総玉砕か、ふたつにひとつの選択を迫った。返事を引き伸ばすうちに元軍の総攻撃がはじまった。わしは七万の兵をくりだし、正面から受けてたった。蕪湖の西南(七十キロ)、安慶との中間あたりに位置する丁家ていかしゅうで両軍は激突した。バヤンの憤怒を臨安までたせてはならない。ガス抜きの思惑があった。

 勢いが違った。強靭な元軍をまえに宋軍はすくみあがり、なすすべなく敗退し四散した。范文虎が投降した。元軍は意気揚々、建康に入城した。

 宋都臨安は、建康の東南(二百五十キロさき)にある。勝敗はすでに決したに等しい。敗報を受けた臨安で、高官の逃亡が相次ぎ、朝廷はひっそりと静まりかえっていたという。

 わしは兵を引いた揚州で敗戦の罪を問われ、流謫るたくの身となった。降格流罪じゃ。


 首都を戦場にしてはならない。わしは揚州に拘留中の郝経かくけいを解放した(一二七五年)。

「十五、六年になろうか。よく忍んでくれた」

 わしは、まずねぎらった。郝経はすでにわしの意中を察していた。

「ついに、その時期がまいりましたな。あなたのお見立てどおり、大元帝国は世祖フビライの指揮の下、新たな国作りに向け、改革をはじめています。無用な抵抗さえなければ、漢の国土を破壊することなく戦を終わらせ、平和裏に接収するはこびです」

「抵抗した常州こそ悲惨な眼にあったが、速やかに降伏した城鎮は、危害を受けなかった」

 バヤンは南宋討伐軍の総司令官就任にあたり、フビライから「むやみに敵を殺傷せず、無傷で降伏させること、攻略した城鎮においても破壊や略奪はひかえ、漢の文化や富・財産を丁重に取り扱うこと」を厳しく指示されていたという。そのためか鄂州でも、ほとんど略奪はなかったと聞いている。情報が伝わったのであろう、バヤンの進軍を食い止めるはずの南宋側に続々と投降者が出て、水陸ならんで長江を下るモンゴル軍は、日に日に軍勢を増し、立ち向かう南宋軍を圧倒していった。わしの敗北も、とうぜんの結果だった。

「おぬしは、臨安が気がかりなのでござろう。世祖の意図は、バヤン総司令官も先刻承知のはず」

「半閑亭に残したわしの収蔵物も、無事、後世に伝えていただきたい」

「『促織経』ともどもお預かりいたす。くれぐれも無益な抵抗なきよう、願うばかりだが」

 ここで郝経ははじめて白い歯を見せた。『促織経』はわしが著述した『コオロギ読本』のことだ。

 わしが郝経を拘留したのは、フビライとのあいだで意思の疎通を深めるためだった。無用の摩擦を避け、来訪をおおやけにしなかった。外出だけは禁じたが、邸内では不自由な思いはさせていない。宋側の情報も、フビライとの通信も、検閲なしに受発信させてきた。だから、わしの趣味の果てまで、知られている。わしのほうから尋ねることも多かった。

「ジパングに侵撃されたと聞くが、結果はいかがしたか」

「あいにく『神風』とかいう台風に直撃され、失敗に終わった由。稀有けうなことかと」

「五千人の屯田兵を帯同したとか、真意はなんであろうか」

「かの国は黄金こがねくにと喧伝されている。砂金が手ですくえ、黄金色の稲穂が実ると評判が高い。で、鉱山を開発し、農業技術を学ばせようとの思惑だったが、じつは人狩りのための交換要員だったとのはなしもある」

「人狩りとはまた物騒なことだ」

「世祖が艦隊の建設にことのほか熱心なのはご承知と思うが、肝心の海事に通じた水夫かこが足らぬ。それで目をつけたのが日本各地の水軍だ。ふだんは交易に従事しているが、ときに海賊に変身する。倭寇の異名もあり、戦えば強い。この水軍の水夫ら船乗りが海人かいじんとよばれる男たちで、漁業と航海に習熟している。かれらこそ世祖の構想に最適の海事要員だ。世祖は漢地の統合が終われば、南洋に通商目的の艦隊を遠征させる考えがあり、船と人を求めている。南洋に元国の交易路を開き、西方のイル・ハーン国につなぐ。いわば海のシルクロードだ。遠洋航海の交易でもたらされる利益は、陸路の交易利益をはるかに上回る。遊牧と収奪のモンゴル人を漢地に移住させ、農地で耕作させるだけでは、国の経営が成り立たぬ。それで東西南北、世界各地の物産を交易し、流通の収入で富を得、国や人の生活を豊かに営もうとのお考えだ。世祖はこれを戦や征服によらない、入貢貿易や平和的通商で商おうとしておられる。しかし、いかんせんモンゴルは人が少ない。そこで漢地の統治や南洋交易については圧倒的に人の多い漢人に任せたいとのご意向だ。ましてや賈似道どの、世祖はことのほか、おぬしの人となりを買っている。帰服すれば、宰相として漢地の経世済民を任せるといっておられる。どうだろう、いまいちど考え直してはもらえまいか」

 わしのような年寄りに、ありがたいおはなしだ。草原の遊牧、漢地の農耕、そして海洋の交易、この三者を結合し、発展させる大事業構想に関わるのだ。若いときなら胸躍らせてふたつ返事で飛び込んだであろう。

 わしは瞑目した。放蕩三昧だった青二才の時代。ズルで進士になり、出世街道をひた走った官僚時代。戦場に赴き、策を弄した軍政長官時代。治世の頂点に立ち、諸悪を暴き、戦費の金策に駆けずり回った宰相時代――下世話にいう「走馬灯」が脳裏で駆けまわり、一瞬のうちに己が生涯を映し出した。そして戦に敗れ、職務の剥奪を告げられて、悪夢から覚めた。終った――世の中は永遠につづくが、わしの人生は六十三年で、まもなく終る。

 世祖フビライの好意は、ありがたく胸にしまっておこう。十五年前、わしは世祖を信じ、かれを北に逃した。ハーンの位につけ、大元帝国の建国に寄与した。そしてわし亡きあとの漢の大地をかれに託そうとした。十五年かけて、かれは答えを見出してくれた。かれの構想は、必ずや、わしの委託を全うしてくれるに違いない。ならば、わしの出る幕はもうない。大宋王朝の宰相を十六年勤めたわしが、敵方に投降するわけにはゆかぬ。忠臣とはいわれずとも、臣下の礼をとり、宋人そうひととして三帝の墓前で生涯を全うしたい。

 わしは世祖の誘いを丁重に断り、郝経を送り出した。


 一族ともども、わしらは広東循州じゅんしゅう(いまの河源市竜川県)へ流されることになった。

 流刑に決するに際し、そうとう辛らつな意見が飛び交ったらしい。

「極刑に処すべし」

 殺せ、と主張したのは、新たに宰相になった陳宜中ちんぎちゅうだったという。

「鄂州の戦において、理宗に諮らず独断で講和した。モンゴルに臣と称し、国を売った。その講和を隠蔽するために、交渉を促す使節を拘留した。私邸で公務をおこなうなど朝廷を侮った。賄賂をこととし、政治を堕落させた――」

 きのうまでわしの権勢におもねり、わしの前で尻尾しっぽをふっていたやつが、わしが失脚するや、たちまち手のひらを返しおって、悪口三昧。まったく、ようもいうてくれるわい。

 しかし、「三朝に仕えた老臣を殺してはならぬ」という謝太后のひとことで死を免れたわしは、罪人として循州まで、県尉てい虎臣こしんに護送されることとなった。

 邸宅ごと家財は没収されるから、半閑亭に収蔵した書画が散逸せぬか、気がかりだった。強制執行にあたる不浄役人が、金目のものをネコババする例はいくらでもある。

 郝経を送り出すに際し、わしは恥をしのんで、元軍が臨安入城後、わしの書画に注意を払ってくれるよう念を押して頼んだ。郝経は怪訝な表情だったが、納得してくれた。

 ――情けない。

 職務を剥奪されても平然としていたわしだったが、そのときようやく己の無力を思い知らされたのだ。滅び行く南宋には文化財の保護ひとつ任せられないのか、非漢族の無知をあざける南宋の官吏にして、実情はこのていたらくだ。文化人が聞いてあきれる。

 そしてわしは、フビライを選んだ己が判断の正しかったことを、改めて実感した。

 半閑亭に収蔵した書画の保護すら、わしが統治を任せてもよいと決意したフビライにしてはじめてなしうるのだ。きのうまでの敵が、いまは友を越えて救世主に思えた。


 配流の護送にあたる鄭虎臣は、もと会稽の尉官だった。任期満了で臨安に戻っていたときわしの流謫を知り、志願して護送官になったという。「なにゆえ」と問うと、「復讐のため」と臆面もなく答える。鄭隆という父親が、わしに反対する官吏の一斉粛清時に罪を得て、審判する前に牢死したという。末端の役人の処罰までは、わしも覚えてはいない。

「すまぬが、記憶にない」。

 正直にいうと、むっとした顔つきで、殺意をあらわにした。

「配流の途中、折を見て処刑せよと、陳宜中宰相からじきじきに命じられている」

「陳宜中がそこまでわしを嫌うておるとは知らなんだ」

 あっけに取られたわしに追い討ちをかけるように、鄭虎臣はよけいな言をさらに放った。

「じつは宰相をあおったお方が、その上にいる」

「なんだと。だれだ、それは」

 久々のことだった。なかば眠っていたわしの頭に、血が逆流した。激怒したのだ。

「栄王さまだ」

 聞いて、激怒は一気に萎んだ。栄王ちょう與芮よぜい、理宗の実弟にして、度宗の実父、さらには恭帝の実祖父、じつにわしが仕えた三代の帝に最も近い血縁のお人ではないか。ただし、性格が合いそうもないと見てずっと敬遠してきたから、個人的な付き合いはなかった。

「殺すほどわしを憎んだ、その理由をお聞きしているか」

 ほとんど気抜けしていた。栄王がわしに好意を持っていないのは分っていた。陰でわしを非難していることも承知している。しかし、殺すほど怨んでいるとは思わなかった。

 四十年の長きにわたり理宗のもとで帝弟に甘んじてきたが、内心の反発はかなり強く、折あらばと後継の帝位をねらっていた。子のない理宗に実子の趙(示ヘンに基)を養嗣に出していた。理宗の崩御に際し、趙樭をさしおき自らが立とうとしたが権勢抜群だった宰相のわしが待ったをかけ、面子メンツをつぶした。趙樭が即位し度宗となり、十年後、度宗の崩御で再び帝位をねらう。五歳の趙けん(顯の頁トル、のちの恭帝)では心許なし、という理由からだが、自身もすでに六十七歳の高齢だ。わしは歯牙にもかけず一蹴した。

「それで宰相だったわしが憎悪の対象となり、陳宜中を使って殺そうとしたというのか」

 ――やんぬるかな、逆恨さかうらみというも愚かしい!

 わしはただ天を仰いで、わが身の不徳を嘆くよりほかなかった。そう、紛れもなく、不徳の至りだ。

 陳宜中といい、この趙與芮といい、ましてや鄭虎臣のごとき、少し前までだったら、わしに意見どころか、まともに目すら合わせられなかった存在ではないか。それがいまや、憎悪の感情もあらわに、ただただわしの抹殺を求めている。国家の大事を目前にして、わたくしの感情だけでことを図るとは、いや嘆かわしい――。そこまで思って、はっとわしは気づいた。なにが違う、じぶんも同じではないか。権勢を失ったいまの立場でなにを嘆くか。


 揚州から船で長江をくだり、沿岸に沿って東海を南下する(総延長約千三百キロ)。廈門アモイ西方で船を降り、陸路を(二十キロ)西に進むと漳州しょうしゅうに至る。さらに西行し、福建路から広南東路に入り、梅州まで来ると(漳州から直線距離で百六十キロ)、梅州の西方(約百キロ先)に循州がある。山越えが多いので、到着までかなりの難儀が予想された。

 わしの供だけで百人余りの一行だ。それも歩きなれない宮女まがいの侍妾が大半を占めている。元軍の臨安入城が迫っているいま、循州に着いても、すぐに引き返すことになろう。なにをいまさらの感がある。されば漳州で決着をつけるか。わしは腹を決めた。

 わしは馬車に同席している老妻をみやった。ほとんど顧みることのなかった妻だった。

「すまなかった。許せよ」

 つぶやいたことばが通じたかどうか分らなかった。

「えっ――」

 妻は顔を上げてわしを見たが、押し黙ったまま、また顔を伏せた。

 息子は別の車に乗っていた。もう壮年になっている。わしが心配する歳でもない。

 ――じぶんの道は、じぶんで切り開け。

 口にこそ出さなかったが、このことばをはなむけにした。


 漳州の木綿庵に着くと、旅装を解いた。鄭虎臣の殺気は消えていなかった。

「もはや配流地まで行かずともよい。謝太后は、わしは殺すに及ばずと、仰せであったな。しかし、おまえが太后のめいに背いてまで、わしを殺すとあらば、ことは重大だ。ならば、よい。ここでわしは自裁する。わしの生命いのちと引き換えに、一行のみなを解き放つがよい」

 わしがいい終えるや、鄭虎臣は立ち上がって配下の耳打ちに応諾し、ついで刀を抜いた。

「賈似道よ、ここを先途と覚悟せよ。おぬしの妻子さいしは、たったいま処刑し、川に捨てた。わしらは都へは戻らず逃亡するから、太后のめいなどあずかり知らぬ。ぬしの生命はわしが貰い受ける。わが父の恨み、思い知るがよい」

 鄭虎臣が振り降ろす刀より早く、わしは用意した毒薬(竜脳香)を一服、口中に含んだ。

 ――わしはじぶんの意思で死ぬ。これで南宋の最後を見届けずにすむ。

 すっと、気が楽になった。ようやく権勢の重石おもしがとれた。裸に戻った、と感じた。

 ――いらぬ、なにもいらぬ。いまさら名すら惜しむに値しない。


(翌年、臨安は無血開城する。ふたりの遺児帝・端宗と衛王を擁した亡命政権は、各地を転々と流浪したあげく、三年後、宗室と遺臣一族二十万人ともども、広東崖山がいざんで全滅する)。


「善くるものは書かず」という。書の鑑賞に長じたものは、じぶんでは書くことをしないのだ。だから、たとえ奸臣と罵られようと、黙って受けておればそれでよい。

 数ある書画におのが鑑蔵印を残すのみで、じゅうぶんではないか。


          (完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

権臣伝 ははそ しげき @pyhosa

現在ギフトを贈ることはできません

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ