第3話

 三、


 わしは意気揚々、首都臨安へ帰還した。恐るべき強敵モンゴル軍を討伐し、北のかなたへ追いやった大将軍の凱旋だ。臨安は朝野をあげて歓迎し、わしの功績を賞賛した。

 皇帝理宗はことのほか喜び、丁大全にかえてわしを宰相に任用した。理宗のゆるぎない信頼を得て、政治権力をほしいままに行使できる臣下として最高の位についたのだ。

 頂点に立てば、人の怨み・そねみも半端でない。常々、わしは宮廷のねずみ退治が必要だと広言しておったゆえ、胸に覚えの連中が一大事とばかりに騒ぎ出した。

 まず宦官と外戚の勢力を排除した。立場をわきまえ大人しくしておればよいものを、悪徳官吏と結託して猟官などに便宜をはかり、その見返りに賄賂をせびっていたのだ。わしも外戚だったが姉の貴妃は亡くなっていたから、かまわず対象者を処罰した。

 つぎに軍紀の引き締めを断行した。戦利品の横領や戦費の着服が目に余った。内部告発を奨励すると、余得をのがした不満分子が密告した。不正を摘発、該当者を断罪に処した。

貪官たんかん汚吏おり」排斥の名目で、わしに反対する官吏を粛清した。「清廉潔白」な官吏などほとんどいなかったからみな震え上がり、以後、わしのまわりは阿諛追従の輩で満ち溢れた。

 政治を批判したかどで流罪中の「六君子」の罪を解いて京に戻した。なかに陳宜中ちんぎちゅうというのがおった。少しは使えるかと思って取り立ててみたが、口先だけのおとこだった。

 まあ、たいがいの奴はこんなものじゃ。モンゴルに投降した将領に世祖が理由を問うたところ、わしの批判をしたあげく、「賈似道憎さに宋を裏切った」と答えて、「おぬしらに忠義の心はないのか。いったいだれに仕えているのだ」と呆れられたと聞いている。一事が万事この調子で、わしがことをなそうとすると、じぶん可愛さに批判の嵐だ。

 陳宜中の名が出たついでに、ちょう與芮よぜいのはなしもしておこうかの。ことは寧宗崩御のあと、理宗の擁立にかかわる史弥遠しびえんの陰謀が発端で、なぜか趙與芮、陰でわしを非難しておるという。陰謀とは関係のないわしが、なんで憎まれたか。いや、迷惑なはなしだ。

 寧宗は実子を早くに亡くし、養嗣のじゅんを皇太子に立てていた。さらに従兄弟の子沂王ぎおう跡嗣あとつぎに太祖十世の孫貴和きわ養嗣ようしにとらせ、不慮の事態に備えていた。備えは的中し、皇太子詢の死で貴和あらためこうは帝嗣候補の皇太子になった。同時期、宰相史弥遠も帝嗣候補を探しており、やはり太祖十世の孫、趙與莒ちょうよきょと趙與芮よぜいの兄弟を市井しせいのうちに見出した。史弥遠は趙與莒を貴誠と改名し、帝嗣候補に加えた。史弥遠にしてみれば、自分の息のかかった貴誠が帝位につくほうが望ましい。危篤の寧宗に迫り、貴誠を帝嗣として認めさせ、いんの名を賜った。この昀が皇帝となり、理宗とよばれる。史弥遠は竑を毒殺し、理宗のもとで宰相をつづけ、寧宗いらい二十六年間、専権をふるうことになる。どうじゃ、これに比べればわしなど可愛いものじゃろう。この史弥遠が、奸臣とも権臣とも非難されておらぬのだから、歴史というものがいかに恣意しい的で杜撰ずさん代物しろものか、ご納得いただけよう。

 ともあれ理宗の弟趙與芮は栄王に封じられ、理宗のあとの皇帝の父となり、祖父となる。


 一方、財政面でもわしは大鉈おおなたをふるった。とうてい奸臣のやる仕事ではない。

 金の滅亡で国境線こそかわらなかったが、国境の北側はモンゴルが支配した。モンゴルとは和議を結ばなかったから、歳幣の贈与は発生しなかった。しかし金代とは違い、モンゴルはたびたび国境を侵して攻め込んできたから、その対応に追われた。軍費の支出が増し、軍糧の調達が農民に重い負担を強いたのだ。豊饒の地江南にも限度があった。宰相になったわしを待っていたのは権勢の行使などではなく、金策に駆けずり回る仕事だった。

 財政逼迫の解決に増税を用いるのは常套手段だが、農民にしわ寄せが行ったのでは本末転倒だ。まず余裕のある富める者から、順に負担してゆくべきではないか。殊勝しゅしょうにもわしは「公田法の実施」という伝家の宝刀を抜いて、あるべき国家の姿を見せようとした。

 公田法というのは、一定の土地を政府が強制的に買い上げて「公田」とし、その収入をもって軍糧を確保するというものだ。佃戸でんこ(農民)に耕作させて佃租でんそ(小作料)を納めさせるのにかわりはないが、政府の土地だからピン撥ねがなく、佃租が直接の収入になる。

 あたりまえといえばあたりまえのはなしだが、ピン撥ねで潤っていた大地主にとっては既得権の侵害にあたる。猛反対がおこり、不吉をもたらす前兆だといって、公田法実施(一二六三年)の翌年に出現した彗星まで、わしの責任にされてしまった。

 高級官僚のほとんどは大地主だ。朱子学だ、忠君愛国だと、ふだん厳かにのたもうていた輩が、血相かえて公田法に異議を唱え、既得権の擁護にまわったのだから、浅ましいものよ。

 もっとも、ズルで進士になったわしがそんなことをいったら、天罰があたるわい。

 わしとてこれでも大地主の端くれだ。いいだしっぺの意地もある。政府に土地を提供し、宰相の辞任を理宗に請うた。さすがに帝は辞任を許さず、公田法に理解を示してくださったので、非難の嵐も静まった。いかんせん財政改善の根本的解決にはならなかったが、公田法は田畑私有の弊害に一石を投ずる警鐘の役割ていどにはなったと思う。


 大地主を私欲の塊のようにいってしまったが、わしもまたこと書画の蒐集にかけては、われを忘れて、私欲の塊ともなる。若いころからはじめた道楽だったが、いまではもう道楽の域を超えてしまった。朝廷から下賜された、西湖を見下ろす葛嶺の邸宅に収蔵所を設け、閑さえあればこもっている。蒐集した書画をじっくり見直し、鑑定標記するのだ。「秋壑しゅうがく」「秋壑図書としょ」「悦生えつせい」「ちょう」などが、わしの鑑蔵印だ。「神の手」とよばれる王義之おうぎしの書もあるぞ。「善をつくし美をつくすは、ただ王義之のみ」と称えられる名筆の極致は、わしが所蔵する「淳化閣帖じゅんかかくじょう」に網羅されている。うっとりと飽かず「神の手」に見惚れていると、つい浮世のしがらみを忘れてしまう。これらのほとんどは北宋崩壊時に、開封の内府から散逸したものに違いない。金もモンゴルも書画骨董のたぐいには興味を示さなかったから、漢人武将が持ち出したのだろう。いくらでも、あるだけほしい。物欲がないはずのわしに、この文化遺産を後世に伝えたいという使命感をもたらし、純粋の収蔵欲に駆りたてるのだから、「神の手」は偉大だ。ぜひフビライにも、この気持ちを知ってもらいたい。

 いずれにせよ漢地の文化財は残さねばならない。首都臨安を戦場にしてはならぬのだ。


 憲宗モンケ・ハーンの死で急ぎ北帰したフビライは、モンゴルの本拠地カラコルムまで行かず、上都の前身たる開平府(内蒙古東南の正藍旗ドロンノール県)でクリルタイを開き、即位した(一二六〇年)。その翌月、末弟のアリクブガがカラコルムで即位、ハーンが並立した。モンゴルが、分裂の危機に追いやられたのだ。わしらは固唾かたずを呑んで趨勢を見守った。四年後、アリクブガの一派を制圧した年、南宋では理宗が崩御し(一二六四年)、理宗の弟・栄王ちょう與芮よぜいの子・忠王趙(示ヘンに基)が立って皇帝をついだ。これが度宗たくそうだ。理宗の子があいついで夭折したため養嗣に迎えていた。あまり出来がよくなかったのでひと悶着あったが、わしが強引に推して、それが皇位につながった。だから二十六歳の青年皇帝は、五十二歳のわしを「師臣」と敬い、人前でもわしを立てた。それをよいことにわしも図に乗った。朝廷を軽視して参内さんだいを怠り、葛嶺の邸宅を宰相の執務室とした。書画の目利きのかたわら、愛妾と好事家にかこまれて闘蟋とうしつ―コオロギ相撲の賭け勝負を楽しみ、そのあいまに公務をとった。無気力の官吏が、案件の決済を求めて日参する。利益にさとい事業者が、賄賂を懐に陳情の列を作る。政治をわたくししたと非難され、専権横暴を糾弾されても文句はいえない。

 よしんば邸内にいなければ、西湖を見わたすがよい。酔態を湖上にさらし美妓とたわむれるわしの姿が見えるはずだ。いい年をして、酒や女にうつつを抜かしたかと、お笑いめされい。われながら情けないしだいだが、切羽詰った挙句の果ての現実逃避だった。

 やはり権勢とは魔物じゃな。手放せば楽になるものを、しっかり抱え込んで苦悩しておる。この国をフビライにわたすまでは死に切れんと思う一方、見込んだとおりの男かとの不安もある。国の運命を託すのだから、わしが歴史の責めを負わねばならぬ。


 北に勃興した恐るべき帝国大モンゴル。すでに覚悟は決めていたはずだったが、当初の思惑を遥かに越えて大きく躍動している。万にひとつも、南宋に奇跡が起こる可能性はない。

 北の情報は郝経かくけいがもたらした。

 即位後ただちにフビライは、国信使郝経を遣わして鄂州撤退時にわしと交わした密約の再考を求めてきた。その時期、ハーンは並立していたから、フビライは条約の当事者にはなりえなかった。わしは郝経を拘留し、その旨をフビライに告げた。かれは了解し、ときおり別の使者を遣わし、意識して最新のモンゴル情報をわしに発信してくれた。見返りにわしも南宋の一般情報を提供した。

 四年かけて反対派を一掃した世祖フビライ・ハーンは、のちに首都を大都だいと(北京)に定め(一二六七年)、国号を大元国と改める(一二七一年)。旧都の開平府は、首都機能ともども夏季の都として残し、半年ごとに移動するという。草原から耕地へ、放牧から農耕へと経済体制を移管するための実地訓練を兼ねているのか。わしは北の大地を思いやった。

 モンゴル帝国に統一への道はあるのか。それとも各ハーン国は別々の道を歩むのか。余計な詮索だった。フビライの大元国構想は、わしの予想を超えた壮大な規模で動いていた。

 憲宗モンケ・ハーンの死で、鄂州を撤退してから十年目、フビライは十万の大軍で再び南下、南宋国境の橋頭堡・襄樊じょうはん両城を包囲した(一二六八年)。漢水をはさんで北に樊城、南に襄陽がある。この両城を、総延長百キロもの土塁で包囲してしまったのだ。

 外部と遮断し慎重に、時間のかかる兵糧攻めできた。城内には十分な軍糧が積んである。漢水は南宋の常備艦隊をもってすれば封鎖は困難だ。両城間が自由に航行できれば、相互の救援可能と踏んで、籠城側の意気は落ちなかった。勇将呂文徳が戦死しても、あとを受けた弟の守将呂文煥が頑強に抵抗し、支えていた。難攻不落は、襄樊の代名詞だった。

 ところが、その常識が通用しなくなっていた。急ごしらえのモンゴル水軍が、かつての張子の虎から強力な水上戦闘力に変貌していた。定評ある南宋の水軍に伍し、一糸乱れぬ、堂々の布陣を取るまでに成長していたのだ。あとで知ったがフビライの指示で、水軍に大幅な改変を加えたという。水に慣れた高麗や南宋の投降兵を多用し、新たな造船に加え、各地から軍船をかき集めて五千艘もの大艦隊に仕立てあげた。戦争のさなか、演習をつづけ、実戦的な訓練を重ねてきたその成果が実ったといっていい。思いもかけない展開だった。

 耄碌もうろくしている場合か。気を取り直したわしは、襄陽包囲作戦がはじまった翌年三月、張世傑に水陸の特殊部隊をつけて、元軍の力量を探らせた。七月には、夏貴ひきいる五万の軍と三千艘の軍船をくりだし、その二年後には范文虎ひきいる水陸の大軍十万を北上させた。しかし、いずれも襄樊両城を救援するどころか、元軍の包囲網を突破することさえできずに、敗退してしまった。陸上でモンゴル騎馬軍に蹴散らされたばかりか、水上においても木っ端微塵に打ち砕かれ、圧倒的な軍事力の差をいやというほど知らされたのだ。

 これ以後、わしは襄陽への援軍をやめ、城内の人々を見殺しにした。打つ手がなくなっていたのだ。范文虎の軍勢十万は、虎の子ともいうべき、南宋に残された最後の機動部隊だった。元軍は新開発の投石火砲「回回砲ウイグルほう」を投入し、樊城・襄陽を陥落した。雷霆らいていのごとき轟音を立てて飛来した巨石が城内を破壊、呂文煥は投降した(一二七三年)。


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